お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

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「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その8 ~第二野戦病院経歴書、豼子窩、海城、小河沿~2011/08/26

 墓碑に刻まれた一見バラバラな日付と死亡場所を、第九聯隊と第二野戦病院の経歴と照らし合わせると、「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の死の具体的な状況が見えてきます。
 これまでも引用しましたが、第4師団第二野戦病院の経歴書の全体を整理すると、つぎのようになります。

■明治27(1904)年

 ○12月 3日 動員完了

■明治28(1905)年

 ○ 2月25日 衛戍地出発
 ○ 同日    廣島到着
 ○ 4月12日 宇品港で乗船
 ○ 4月23日 柳樹屯に上陸
 ○ 4月24日 劉家店に進む
 ○ 同日    劉家店避病室を開設
 ○ 4月26日 沙家屯に至る
 ○ 4月27日 沙家屯舎営病院を開設
 ○ 4月30日 半部を沙家屯に残し、豼子窩に至る
 ○ 同日    豼子窩舎営病院を開設
 ○ 5月14日 唐家屯に至る
 ○ 5月29日 唐家屯を出発
 ○ 6月 9日 海城に到着
 ○ 同日     海城舎営病院を開設
 ○ 6月27日 小河沿で海城分避病院を開設
 ○ 9月15日 海城分避病院を??
 ○12月14日 柳樹屯で乗船
 ○12月18日 宇品港に到着
 ○12月20日 衛戍地に帰還

 第二野戦病院が、4月24日に開設した「劉家店避病室」と同27日に開設した「沙家屯舎営病院」で亡くなった将兵については、これまでに名簿をつくりました。
 それ以後について、死亡した将兵を挙げておきます。
 4月30日に開設した「豼子窩舎営病院」で亡くなったと思われるのは、死亡場所が「豼子窩」と刻まれている以下の兵卒と下士官です。
 5月27日 豼子窩 一等卒 竹原 國吉(163)
 7月 6日 豼子窩 一等卒 伏木 清太郎(50)
 7月30日 豼子窩 一等卒 西川 為吉(54)
 8月 4日 豼子窩 一等卒 浅田 安之助(47)
 8月 8日 豼子窩 一等卒 比澤 兼松(68)
 8月25日 豼子窩 一等卒 安場 貝次郎(204)
 9月 6日 豼子窩 上等兵 小西 留蔵(21)
 9月 7日 豼子窩 二等卒 清水 健吉(75)
 9月12日 豼子窩 一等卒 中田 留吉(2)
 9月14日 豼子窩 二等卒 古田 栄次郎(209)
 9月15日 豼子窩 上等兵 山口 晋吉(112)
 9月18日 豼子窩 二等軍曹 山元 丑之助(B12)
 9月22日 豼子窩 二等卒 藤村 留蔵(193)
10月 4日 豼子窩 一等卒 田辺 平吉(180)
10月13日 豼子窩 二等卒 小谷 友治郎(40)
10月28日 豼子窩 二等卒 伊藤 栄之助(129)
11月 1日 豼子窩 一等卒 大垣 欽三郎(211)
 6月9日開設の「海城舎営病院」で亡くなったと思われるのは、死亡場所が「海城」と書かれている兵卒です。  これらの戦没者のうち、大橋卯三郎については、明治44年の『大津市志』の記述によって、海城舎営病院マラリアで亡くなったことがわかっています。それはすでに紹介したとおりでした。

 また墓碑に「小河沿」と死亡場所が刻まれた墓碑がありますが、これは6月27日に第二野戦病院が小河沿で開設した「海城分避病院」のことだと思われます。
 7月 2日 小河沿 一等軍曹 阪井 晸一郎(B14)
 7月 6日 小河沿 一等卒 善利 岩次郎(5)
 7月 6日 小河沿 上等兵 奥村 徳蔵(58)
 7月 6日 小河沿 輜重輸卒 細江 巳之助(130)
 7月10日 小河沿 上等兵 池辺 喜市(157)
 7月10日 小河沿 二等卒 梅本 門造(160)
 7月12日 小河沿 輜重輸卒 藤田 芳治郎(171)
 7月13日 小河沿 一等卒 井岡 奈良吉(153)
 7月17日 小河沿 一等軍曹 濱田 定一(B10)
 7月24日 小河沿 輜重輸卒 田中 市蔵(111)
 8月 1日 小河沿 一等卒 西口 末治郎(136)
 8月 6日 小河沿 輜重輸卒 北村 鶴吉(132)
10月 6日 小河沿 一等卒 友田 善三郎(119)
 連日、壮健な若者が死んでいっています。しかも、戦闘なしにです。野戦病院のスタッフが全力を尽くさないわけはなく、力が及ばない異常な事態が進行していたことがわかります。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)