お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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特異な形の台座@(西南戦争)紀念碑(大津)2010/12/14

碑が砲身形、台座が砲座形、枠が星形の「紀念碑」
 大津市に西南戦争の戦没者の巨大な「紀念碑」があります。碑本体だけで、6メートルの高さです。
 なぜ、大津市に?
 それは、西南戦争が戦われた場所は九州でしたが、官軍がかり出した将兵は全国に及んでいるからです。戦死者数からいえば、近衛兵につづいて多数になるのが、大阪鎮台の兵卒でした。大津市に営所が於かれていた大阪鎮台第九聯隊からは、241名の戦死者が出ています。その強烈な衝撃のもとに、「紀念碑」が三井寺山内に建立されました。そして、慰霊祭が営まれました。
 その「紀念碑」は、ロシア皇太子の一行が大津市に来たときに、ロシア側の参加者が見学に訪れています。そこを警備していた一人が津田三蔵巡査でした。津田は、その直後、ロシア皇太子に斬りつけ、大津事件を引き起こします。
 そういう因縁の碑でもあります。
 以上がまえおき。

 滋賀県の文化財保護課を訪れたとき、この碑のことが話題となりました。私は、あらためてこの碑への関心をかきたてられました。
 まず、この碑が最初に置かれた場所と現在の場所が違うという問題。当初の場所は、見晴らしの良い三井寺の観音堂の上だということです。これは、記録を読んでもそうなっています。たしか写真もあった気がします。しかし、これは移設されます。
 移設場所は山の中。御幸山というのは、後から付けた名前だそうです。「天覧」、つまり天皇自身が視察したというのがその理由。いまの場所は、山中を切り開き、50メートル四方ぐらいの広場をつくり、その山手の奥に20メートル四方で、高さ3メートルぐらいの盛り土をした土台が造られています。
広場から土台の上に登るのに、階段がつけてあります。
階段を上れば、枠に囲まれた台座があり、台石が二段おかれた上に6メートルの「紀念碑」。巨石を運ぶだけですまない、大変な工事だと思います。
 なぜ、いつ、移設されたのか。
 これがよくわからないそうです。
 しかも、台座の形が当初の位置と合わないといいます。これは初耳でした。現在ある台座が本来あったはずの場所にはまらないという意味だと思います。ということは、もとは碑だけであって、あとの建造物は移設後のものということになるのです。
 現在見ることができる台座の形は、特異です。
 碑は二段の台石に載っています。それは普通の形。しかし、碑を取り巻くように、亀の甲羅のような造形物が存在しています。それは碑と一体となって、砲座を表しているとのことです。碑が砲身で、亀の甲羅が砲座ってことでしょうか。
 しかも、特異なのは砲座のような造形だけではありません。それらを囲む枠も奇妙な形をしています。文化財保護課の方に指摘されてはじめて気がついたのですが、ちょうど五稜郭のような星形の枠組なのです。紙の上でトレースしてみると形がわかるといいます。
 碑は四角錐で見慣れた形をしていますが、台座や枠組みは今見ても斬新で、個性的な気がします。
 しかし、この碑の周辺は荒れています。星形の枠も崩れていっています。残念ながら、公式には、忠魂碑の類は文化財保護の対象にはなっていません。保存費用は公からは出ないのです。
 市民運動に期待する・・・ということになるのです。

戦病死した兵卒の墓碑になにを刻むか~工兵部隊が調査を求めた「雛形」~2010/12/13

工兵隊が墓碑のために調査を求めた「雛形」
 『負傷或は病に罹り臨時病院に於て死亡の者石碑調製の件』(明治11年3月)という文書を、アジ歴(C09084349000)で見つけました。
 この文書は、上記の標題にあるように臨時病院で病死した兵の墓碑の制作を受け持つ「工兵第四方面本署」が、碑文のためのデータを出すように陸軍省の旧西南戦役第2旅団に求めた文書です。

 どのような「雛形」なのか。
 上の写真がそれ。
雛形 原籍何府県下何国何郡或ハ何大区何小区何村華士族町平民何条何某子弟其他 何鎮台何兵何連隊何大隊何中隊 官名何等卒 何条何某 何月何日負傷何国何地何月何日没大阪陸軍臨時病院時齢何十何年何ヶ月

1.出身地
2.階級
3.所属
4.負傷年月日と場所
5.死亡年月日と死亡時年齢

出身地にあるはずの西南戦争戦死者の墓碑2010/12/12

なんでもない山道。しかし、これが「田原坂」です
 西南戦争の個人墓碑は、出身地(遠隔地の滋賀県)にはないと思っていました。しかし、『滋賀縣八幡町史』を読むと、つぎの記述がありました。
歩兵二等卒 馬場與吉
嘉永六年生
 明治七年四月二十九年歩兵第二徴兵(大隊)入隊、十年二月二十七日鹿児島縣賊徒征討のため大阪出発、三月六日熊本縣山本郡田原坂にて開戦、戦死、大林七五八墓地に葬る
 この「大林」というのは、馬場與吉の出身地です。今の地名はよくわかりません。残っているならば、探し出したいと思います。

 馬場與吉の運命は、明治維新による軍制改革によって決まったようなものです。
 與吉が属することになるのは、歩兵第九聯隊ですが、当初は、農民・町民からなる徴兵だけで軍隊が組めるはずはありませんでした。明治6年9月に「鳥取豊岡北條足羽石川」の五縣の壮兵で一個大隊を組織します。それを大阪備前邸におきます。明治5年12月25日に、第五大隊と改称しました。明治6年に徴兵制度がしかれ、六鎮台制度に移行します。備前邸にいた第五大隊は、大阪鎮台第九聯隊所属となり、明治7年4月19日に、営所を伏見に移します。そして、この年に與吉は徴兵されます。
 明治の陸軍は、壮兵を徴兵と段階的に取り替えていきます。明治7年6月1日に、第五大隊を、第九聯隊の第一大隊として、與吉らの徴兵をもって第二大隊を組織します。「第二徴兵(大隊)」とはこういう意味です。
 與吉は、まもなく、大津市に移ることになります。
 明治7年末に、大津市に新しい営所が完成します。翌8年3月には、與吉らの所属する第二大隊のみが移動します。壮兵は、下士官を残して、残りは解散でした。明治9年には、練兵場が完成し、さらなる徴兵をもって第三大隊を組織します。
 與吉は、伏見から大津へと移動しながら、3年間の兵隊生活を送り、二等卒となります。そして、西南戦争に遭遇することになります。
 西郷らの動きがつたわると同時jに、明治10年2月19日に、征討の勅令が出されます。わずか3年足らずの訓練の農民・町民軍が、職業的な武士の軍隊・薩軍と対決することになりました。第九聯隊は、ただちに出征。2月27日には大阪を出発し、神戸において、別働第一旅団に編入されます。そして、神戸を出発し、3月5日に、九州の肥後國(熊本県)に到着します。
 歩兵第九聯隊に所属する與吉が向かったのは田原坂でした。上の写真がそれです。そこで、人生初めての実戦となったその日に、與吉は戦死しました。
 自ら軍人として生きたいと願って入った軍隊ではなかったはずです。政府が決めたとおりに、20歳で徴兵され、訓練され、派兵され、実戦の初日に戦死・・・奪われた人生を思うとたまらなくなりますね。

西南戦争戦死者@『大津市志』(明治44年版)2010/12/12

『大津市志』は明治44(1911)年の出版である。そこには『本志編纂に當り十年役本市出身の戦病死者を調査したれども之を得ず唯本縣出身にして本市町村名不詳者の氏名の報告を得たり其何れが本市出身者なるや明ならずと雖も暫く併せ記して後證を待つ』として以下の名簿が挙げられている。
 私の作業は、『後證』にあたることなのかも知れない。戦病死年月日と場所はとりあえず省略した。
 以下のなかには、滋賀県出身者であっても、市町村がわかっている戦病死者は含まれていない。高島郡や伊香郡の出身者が含まれているが、それはわかるようにした。
明治十年役戦病死者

二等卒 中村 清七
二等卒 濱野 源蔵
二等卒 大森 源蔵 →高島郡川上村日置前

二等卒 矢野 才治郎
一等卒 龜井 藤吉
一等卒 荒井 龍乗  →近江八幡『滋賀県八幡町史』

一等卒 山梶 榮七
一等卒 大村 繁三郎
二等卒 岸 嘉七  →高島郡安曇村西万木

二等卒 谷口 良蔵
二等卒 吉川 良蔵
一等卒 西川 福松

一等卒 中島 金五郎
二等卒 山川 常吉
二等卒 北川 善六

二等卒 山岡 即照
二等卒 山本 勘治郎
二等卒 青木 虎太郎

一等卒 田中 庄吉
二等卒 中村 廣吉
二等卒 東條 常吉

二等卒 西村 秀四郎
二等卒 大澤 梅吉
二等卒 木下 留吉

少尉試補 鹽見 薫信
一等卒 白木 吉蔵
二等卒 澤 末吉

二等卒 北村 辨次郎
二等卒 南部 由松  →高島郡海津村海津
伍長  岩島 鶴次郎

一等卒 木下 寅吉
二等卒 三田村 力松
二等卒 國領 與惣次郎

二等卒 駒井 新吉 →高島郡(北舟木)
   *山川招魂社に個人墓碑がある

一等卒 石田 鐵蔵
二等卒 鍵山 宇吉

一等卒 安村 武蔵
   *名簿で見れば、旧真田山陸軍墓地に個人墓碑があるはずである。墓碑からは出身地などの詳細は不明の様子。

二等卒 内貴 竹治郎
二等卒 上田 彌三治

二等卒 中井 藤吉
二等喇叭卒 川中 槌松
二等卒 尾島 五治郎 →饗庭村熊之本

二等卒 増田 元之吉
一等卒 若林 彌三次郎
二等卒 橋本 藤八

二等卒 藪下 吉松
伍長  山脇 三平
伍長  佐野 捨松

二等卒 宮尾 彦七
二等卒 西澤 半兵衛
二等卒 中橋 文五郎

二等卒 石橋 末吉 →伊香郡上丹生
   *「田原坂激戦に参加し負傷し大阪鎮台病院にて死亡」と『伊香郡志』(昭和27・28年)とあるので、旧真田山陸軍墓地に墓碑がある可能性が高い。

二等卒 福井 三四郎
二等卒 徳田 卯之吉

二等卒 日置 住吉 →高島郡安曇村三尾里
   *旧真田山陸軍墓地に個人墓碑がある

二等卒 西川 為吉
上等兵 北條 辨周

*駒井新吉は、滋賀県出身までわかっていたけれど、高島郡出身ということがわからなかったので、『高島郡誌』には掲載されていなかったということでしょう。その代わり、不詳のまま、『大津市志』には、掲載されていたのです。

「虎列刺」(コレラ)による死2010/12/07

「罹虎列刺病・・・」
 ハイチでコレラで2,000人が死亡という記事を読みました。感染者は、9万人を超えているそうです。コレラは日本でも10年おきに流行して怖れられた伝染病。西南戦争の年にも、流行しました。戦で生き残ったにもかかわらず、コレラで命を落とす兵士が続出しました。気の毒なことです。
 先に紹介した後備第5大隊兵卒・山中鹿蔵もその一人でした。「虎列剌病ニ罹リ死」と記録されています。直接、戦争にかかわる死ではないので、田原坂の戦没者の碑のなかに名前はありません・・・。

「別紙戌卯戦死病死及除隊書類等」(『明治十二年大坂鎮臺』)2010/12/07

『明治十二年大坂鎮臺』
 アジア歴史資料センターで資料を調べていて、西南戦争の兵卒の死亡記事を見つけました。『明治十二年大坂鎮臺』という冊子で、「別紙戌卯戦死病死及除隊書類等」のなかにありました。府県毎に分けられていました。「九年後備歩兵」の名簿ですので、現役兵は別にあるのでしょう。全体で24ページ。滋賀県の戦病死者は3枚にわたります。途中までですが、以下のような記述方法です。
 高島郡出身者は、赤の太字にしました。
戍卯
       滋賀県
九年後備歩兵
第一       戦死     中川寅蔵
同 第七     負傷死亡 藤田捨松
同 第八     戦死    小泉即如
同 第十一   同      萩下吉松
同 第十二   同      内貴亀次郎
同 第十八   同      上田弥三治
同 第二十六 生死未明ノ処戦死 演野源蔵
同 第二十八 戦死     八斬由松
同 第四十八 同       木下海蔵
同 第四十九 同       久野治太郎
同 第五十三 生死未明ノ処戦死 谷口筆松
九年後備歩兵
第六十一    戦死     上阪夘之助
同 第六十二 同       青木虎太郎
同 第六十五 同       竹中宇吉
同 第七十一 負傷後死亡 宮尾彦七
同 第七十七 病死      穀口荘七
同 第七十八 戦死      西村秀四郎
同 第八十二 同       日置住吉
同 第八十三 病死      青木乙次郎
同 第八十四 戦死      宕崎林弥
中川寅吉は百瀬村知内の出身、谷口筆松は剣熊村山中の出身。後者の「生死未明ノ処戦死」という記述には生々しさがあります。
 高島郡ではありませんが、「近江国甲賀郡下田村」出身の七十七番の谷口庄七の墓碑は、旧真田山陸軍墓地にあります(B-11-1)。
日置住吉は安曇村三尾里出身で、岸嘉七は同村西万木出身です。
谷口由造(剣熊村野口)、井上亀吉(広瀬村上古賀)、駒井新吉(北舟木)らの名前も見えます。

 高島郡出身者の戦病死者は、7名確認できます。うち『高島郡誌』に記載があるのは、6名です。 C10072368700

陸軍兵卒・山中鹿蔵の死亡と埋葬についての記録2010/12/07

陸軍兵卒・山中鹿蔵の死亡と埋葬についての記録
 山川招魂社に、西南戦争で亡くなった歩兵第九聯隊将兵の墓碑が16柱あるのを、ネットで見つけました。その際、同じ人物の墓碑と思われるものが2柱でてきました。それが「滋賀縣近江国甲賀郡三大寺村平民」山中鹿蔵の墓碑でした。
 2柱あることが不思議でしたから、名前が記憶に残っていたのでしょう。アジ歴の資料のなかから、偶然、この人物の死亡と埋葬についての記事を見つけました。
 これを読むと、いったん別な場所に仮埋葬して、あとで移葬したことがわかります。それが2柱ある理由でしょうか。しかし、同じ人物の墓碑を一つ別の墓碑をはさんで並べるのは異常です。
 内容から、いざ凱旋というときに、コレラで亡くなったことがわかります。なるほど、気がつきませんでしたが、死亡年月日は、西南戦争の終結後です。
陸軍省
内容 工兵第六方面ヘ御達案 後備第五大隊故兵卒山中鹿蔵一昨十年西南之役凱旋之際筑前刻山家駅ニ於テ虎列剌病ニ罹リ死込之末同所字本谷ヘ仮埋葬相成居候ニ付於其方面筑後国久留米茶臼山陸軍埋葬地ヘ改葬可取計此旨相達候事 但改葬入費ハ旧軍団会計部ヨリ可請取事
もうひとつ記事がありました。ほぼ同じ。
陸軍省
軍会事第四百六十七号 筑前国山家駅ヨリ久留米茶臼山埋葬地御改葬之儀ニ付伺 後備第五大隊第四中隊 故兵卒山中鹿蔵 一昨十年西南之役平定凱旋之際福岡県下筑前国山家駅ニ而虎列剌病ニ罹リ死亡之末同地山家村字本谷御仮埋葬相成居候由有ハ戦死同様取計可申儀ト被存候願@@最寄久留米字茶臼山埋葬地御改葬致度然ル処僅一名之儀ニ付工兵第六方面御依託レ改葬相成度候旁々便利ト被存候間有改葬方之儀同方面御達ニ相成度然シテ改葬入費之儀ハ非常金之内ヨリ御支払相成候様致度此段相伺候也 明治十二年二月十七日 旧軍団会計部副長監督川崎祐名 旧軍団事務所御中
 私がほんとうに探していたのは、名古屋鎮台「朽木六蔵」少尉についての記事でした。あとでわかったことですが、山中鹿蔵は、この名前だけで記事が出てきます。朽木六蔵の場合は、出てきません。記録がない・・・ということなのでしょうか。

山川招魂社における西南戦争戦死者の墓碑から16柱2010/12/02

福岡県久留米市にある御井(みい)町。
サイト「御井町誌」に注目しました。
目次から「第三章 石は語る」
→「二、上町」と進むと、
「十九、山川招魂社」が出てきます。
ここに、佐賀の乱鎮圧と西南戦争で
戦死した官軍の墓碑がおかれています。

西南戦争の墓碑は、242柱。
軍夫のものもあります。
碑文が収録させていて
参考になりました。

クリック→「御井町誌」

*追記

私がメインとする調査フィールドは、
大津市(志賀町を含む)高島市(高島郡)です。
また、大津に営所をもつ陸軍歩兵第九聯隊です。

第九聯隊関係の墓碑は、山川招魂社に16柱
そのうち、高島市(高島郡)出身者3名で、
志賀郡志賀町(現在は大津市)出身者は1名でした。
245 陸軍少佐 従六位津田正芳之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊長心得
    明治十年三月廿三日於熊本縣下肥後国
    山本郡植木負傷後四月十日
    福岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    福岡縣豊前国仲津郡豊津士族
大津に営所があった歩兵第九聯隊の
初代の聯隊長(心得)の墓碑がここにあるのです。

その他、第九聯隊の戦死者。16柱
89  陸軍歩兵 中村広吉之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第八中隊
    明治三年三月九日於熊本縣下肥後国
    山本郡田原坂負傷後同月十四日福岡
    縣筑後国久留米病院二於テ死
    滋賀縣近江国甲賀郡水口村平民
91  陸軍歩兵 加藤勝次郎之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第一大隊第一中隊
    明治十年三月九日於熊本縣下肥後国
    山本郡田原坂負傷後同月十五日福
    岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    三重縣第八大區五小區船山村平民
97  陸軍兵卒 辻村松次郎之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第三中隊
    明治十年三月七日於熊本縣下肥後国
    山本郡田原坂負傷後同月廿五日福岡縣
    筑後国久留米病院二於テ死
    三重縣伊勢国一志郡新家村平民
99  陸軍兵卒 近藤伴吉之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第三中隊
123 陸軍兵卒 若林弥佐次郎之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第四中隊
    明治十年三月十九日於熊本縣下肥後国
    玉名郡横平山負傷後同月廿一日
    福岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    滋賀縣近江国犬上郡八坂村平民
134 陸軍兵卒 屋島五次郎之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第四中隊
    明治十年三月十五日於熊本縣下肥後
    国玉名郡横平山負傷後同月十九日
    福岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    滋賀縣近江国高島郡辻澤村平民
136 陸軍兵卒 山中鹿蔵□□
    大阪鎮臺後備□□□□□□第二□□第四
    □□
    明治十年廿日福□縣ー
    筑前国山家ニテ病□ー
    滋賀縣近江國甲□□大寺村平民

138 陸軍兵卒 山中鹿蔵之墓
    大阪鎮臺後備歩兵第五大隊第四中隊
    明治十年十月廿日福岡縣下筑前国山鹿二於テ病死
    滋賀縣近江国甲賀郡三大寺村平民
    (136と同一人かと思われる)
171 陸軍兵卒 太田音次郎之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第四中隊
    明治十年三月十五日於熊本縣下肥後国
    玉名郡横平山負傷後四月十三日福岡縣筑後
    国久留米病院二於テ死
    三重縣伊勢国飯高郡下村平民
183 陸軍兵卒 中村銀蔵之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第一大隊第二中隊
    明治十年三月九日於熊本縣下肥後国
    山本郡田原坂負傷後四月六日
    福岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    滋賀縣近江国高島郡地子原村平民
186 陸軍兵卒 萩 嘉右衛門之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第一中隊
    明治十年三月六日於熊本縣下肥後国
    山本郡田原坂負傷後四月六日
    福岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    三重縣伊勢国三重郡川北村平民
203 陸軍兵卒 鋒山宇吉之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第二中隊
    明治十年三月十八日於熊本縣下肥後国
    山本郡田原坂負傷後四月十二日
    福岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    滋賀縣近江国犬上郡金屋村平民
205 陸軍兵卒 津曲辻松之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第一大隊第二中隊
    明治十年三月九日於熊本縣下肥後国
    山本郡田原坂負傷後四月十二日
    福岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    三重縣志摩国荅志郡岡崎村平民
213 陸軍兵卒 駒井新吉之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第二中隊
    明治十年三月十四日於熊本縣下肥後国山本郡田原
    坂負傷後同月廿九日福岡縣下筑後国久留米病院二
    於テ死
    滋賀縣近江国高島郡北舟木村平民
219 陸軍兵卒 杉山庄治郎之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第三大隊第二中隊
    明治十年三月二十三日於熊本縣下肥後国山本郡半
    高山負傷後同月卅日福岡縣筑後国久留米病院二於
    テ死
    三重縣第四大區三小區本郷村平民
221 陸軍喇叭卒 川中槌松之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第一中隊
    明治十年三月七日於熊本縣下肥後国
    山本郡田原坂負傷後同月三十一日
    福岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    滋賀縣近江国滋賀郡西浜村平民
236 陸軍兵卒 増田元之吉之墓
    大阪鎮臺歩兵第九聯隊第二大隊第四中隊
    明治十年三月十五日熊本縣下肥後国
    玉名郡横平山負傷後四月二日
    福岡縣筑後国久留米病院二於テ死
    滋賀縣近江国愛知郡三津村平民

『高島郡誌』には、以下の15名が西南戦争の戦死者として掲載されています。
 ①剣熊村 2名 谷口筆松(山中)、谷口由造(野口)
 ②海津村 1名 南部由松(海津)
 ③西庄村
 ④百瀬村 1名 中川寅吉(知内)
 ⑤川上村 1名 大森六蔵(日置前)
 ⑥今津村 1名 古我梅治郎(大供)
 ⑦三谷村 
 ⑧饗庭村 1名 尾島五次郎(熊之本)
 ⑨新儀村 1名 清水清五郎(藁園)
 ⑩本庄村
 ⑪青柳村 1名 中井藤吉(青柳)
 ⑫安曇村 2名 岸嘉七(西万木)、日置住吉(三尾里)
 ⑬広瀬村 1名 井上亀吉(上古賀)
 ⑭水尾村
 ⑮大溝村 1名 内田幸吉(永田)
 ⑯高島村
 ⑰朽木村 2名 仲村銀蔵(地子原)、朽木雄六(市場)
高島郡出身者だけを取り上げれば、尾島五次郎、中村銀蔵そして駒井新吉の3名の墓碑が山川招魂社に存在します。しかし、駒井新吉は墓碑が存在するのに『高島郡誌』の名簿に欠落しています。
 ちなみに『大津市志』には、駒井新吉の名前があります。ですから、高島郡出身者で西南戦争で戦没した人たちの名簿は、その後判明した分を含めて、作成しなおす必要があります。  名簿のなかで、個人墓碑を見つけたのは、あと日置住吉です。旧真田山陸軍墓地にあります。記事は→ここ

「散る櫻」~金属板に刻まれた「祭魂者」@百瀬村忠魂碑~2010/11/21

金属板に刻まれた戦没者@百瀬村忠魂碑
 忠魂碑をめぐる”旅”をしてきました。忠魂碑そのものへの関心とともも、それに付属する様々な歴史的事情も見えてきました。
 今回注目したのは、戦後付け加えられた変化のひとつ、戦没者の名前を刻んだ版(金属版も石版もある)でした。
 上の写真は、百瀬村の忠魂碑ですが、その正面の土台の一部を削り、「祭魂者芳名」という金属板が埋め込まれていました。戦争ごとの戦没者の名前が連ねられています。数えると、「西南之役」が1名、「日清戦争」が3名、「日露戦争」が4名、「上海事変」が2名、「日支事変」が11名、「太平洋戦争」が107名でした。
 金属板の最後はつぎのように締めくくられていました。
 散るさくら残るさくらも散る櫻
    昭和二十七年十月
      百瀬村復員者一同

 この金属板は、はめ込まれてからすでに50年以上が経っています。残るさくらと自らを呼んだ方々も、数少なくなっておられることでしょう。
 金属板の最初の3つの戦争では、つぎの名前が刻まれていました。 
西南之役
 中川  寅吉
日清戦争
 伊吹 甚次郎
 福井 彌吉
 栗本 与茂助
日露戦争
 鳥居 宗七
 伊吹 米蔵
 黒川 辰三郎
 栗本 藤三郎
 『高島郡誌』によれば、百瀬村の西南之役の戦病死者は15名。中川寅吉の名前はその中にあります。日清戦争での戦病死者はなく、日露戦争では3名(上記の鳥居宗七、伊吹米蔵、黒川辰三郎)の名前が記録されています。名簿にないのは、栗本藤三郎です。

西南戦争の戦死者名簿@田原坂 ~滋賀県出身は156名~2009/11/11

西南戦争の戦死者名簿@田原坂  ~滋賀県出身は156名~
西南戦争の激戦地である田原坂には、
慰霊のためのモニュメントが建っている。
その後ろには、官軍・薩軍両方の戦死者の
名前が、県別に刻んである。
滋賀県のところを見ると、156名となっている。

たとえば、この戦役での滋賀県旧高島郡新旭町の
戦死者は清水清五郎尾島五次郎である。
上の写真で名前を確認することができる。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)