お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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西南戦争の碑の台座は、背後がカメの甲羅みたいです2007/09/13

西南戦争の碑は、明治11(1878)年に建設されたそうです。
費用や労力は相当なものだと推察されます。

それは、さておき、台座の背後に回ると、驚くような形をしています。
この碑について書かれている本では、砲台を模したとされています。

私は、そもそも砲台の形を知りません。
でも、砲台・・・なのでしょうか?
直感的に浮かぶのは、亀の甲羅です。

それにしても、平面の組み合わせで出来上がった形ですが、
冷たさよりも、暖かさを感じるのは、亀に似ているからかも知れません。

西南戦争の碑 台座を横から見る2007/09/13

碑の台座を横から見ると、台形の形をしています。
この形にどういう意味があるのか、私にはわかりません。

この台形の側面には、文字が刻まれています。
左右の側面のどちらもです。

西南戦争の碑が立っている台座の中心部分に接近2007/09/13

碑の根元部分は、こんな感じです。

草が生え放題で、痛ましく感じます。

西南戦争の碑の根元には枯れ朽ちた花束がありました2007/09/13

 台座にのっかっている碑の根元に目を移すと、そこに献花のあとがあります。
 枯れて朽ち果てています。
 それでも、この碑におまいりにくる方がいるのです。

西南戦争の碑 台座の周囲の石囲み(右手)を写しました2007/09/13

申し訳ありませんが、台座の背後の亀の甲羅に登りました。
けっこうな大きさです。
そこから、右手と正面を撮影。
台座を囲むイナズマ状の石囲いに注目ください。

西南戦争の碑 台座から正面の門を撮りました2007/09/13

門とイナズマ状の石囲いは、とても近代的な形をしています。
幾何学的な造形にどのような意味を込められたのか、
私はとても知りたいと思いました。

地面には、まだ隠れている石があります。
この状態は、ずいぶん壊れたあとなんだと思います。

西南戦争にどうような見解をもとうとも、
この石碑全体を復元する値打ちがあると思います。

高い木の枝を突き抜けて伸びる西南戦争の碑2007/09/13

高さ6.6メートルのこの巨大な碑。
その大きさと迫力をどうやって写したらいいのか?

どのショットでも、うまくいきません。

こうなれば周囲のものとの比較でわかりやすくするしかないです。

碑が高い木の枝をつきぬけて上に伸びています。
その様子を撮りました。

碑文は「記念碑」とあるのみです。西南戦争の文字はありません。2007/09/13

どこにも、西南戦争という文言がありません。
あるのは、「記念碑」とだけ。

碑の背後2007/09/13

碑の背後には、
「陸軍少将正五位勲二等三好重臣筆」の文字

木によって崩壊がすすむ西南戦争の碑2007/09/13

立ち去りがたい思いを持ちながら、夕日が照らす場所を
後にしました。

階段をつけられ、石垣によって固められた土台にも、
木が石の間に根をはっています。
伐採された跡もありますが、抜本的に対策が打たれないと
崩壊していく危険を感じました。

明治11(1879)年は、西欧文明がとても新鮮に感じられたときであり、
軍隊制度もはじまったばかりです。

そういう過渡的な時代だったからこそ、この斬新な形が
成り立ったのではないのかと思えるのです。
しかも、侵略戦争を鼓舞するために軍神扱いの碑ではありません。

この種の碑としては日本で最初のものだという話を最初にしました。
なおさら保存することは大切です。
内戦という痛ましい事件の犠牲者の碑です。
いたずらによって壊されないことを祈ります。

場所も確認できたので、息子たちを連れて来たいと思います。
もし、見てみたいと思われる方は、連絡ください。
ご案内します。

ところで、この碑の管理はどの団体・個人がされているのでしょう?
調べてみたいと思います。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)