お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
米軍キャンプ跡地 ― 2007/09/29
まだ蒸し暑い日中ですけれど、夕方から夜にかけて
肌寒いときもあり、窓を開けて寝ることもなくなりました。
木曜日を休日にしています。
市役所で情報公開の申し込みをしたあと、歴史博物館によりました。
そこで年間会員の手続きをして、文献を買って帰りました。
この歴史博物館は、米軍の将校の社交場の跡地に立っています。
ダンスホールがありました。
後に大津市文化会館になりましたが、それも取り壊され
いまは、歴史博物館。
私が疑問に思うのは、つぎつぎとスクラップ・アンド・ビルドを
繰り返すまちづくり。
日本の都市すべてがそうだとは思いませんが、決していいことでは
ないと思います。
歴史博物館からまっすぐに降りてきて、いつもとは違う道を通りました。
・・・車ではなく、バイクでしたから、細い道をぬけることができるのです。
横に曲がらず、まっすぐ行けば、京阪電車の線路の踏み切りに出ます。
上の写真ですが、踏み切りをわたった左手(緑が多い)が
旧米軍キャンプの跡地です。
真ん中の溝のような川が境界線。
右手が一般の住宅です。
肌寒いときもあり、窓を開けて寝ることもなくなりました。
木曜日を休日にしています。
市役所で情報公開の申し込みをしたあと、歴史博物館によりました。
そこで年間会員の手続きをして、文献を買って帰りました。
この歴史博物館は、米軍の将校の社交場の跡地に立っています。
ダンスホールがありました。
後に大津市文化会館になりましたが、それも取り壊され
いまは、歴史博物館。
私が疑問に思うのは、つぎつぎとスクラップ・アンド・ビルドを
繰り返すまちづくり。
日本の都市すべてがそうだとは思いませんが、決していいことでは
ないと思います。
歴史博物館からまっすぐに降りてきて、いつもとは違う道を通りました。
・・・車ではなく、バイクでしたから、細い道をぬけることができるのです。
横に曲がらず、まっすぐ行けば、京阪電車の線路の踏み切りに出ます。
上の写真ですが、踏み切りをわたった左手(緑が多い)が
旧米軍キャンプの跡地です。
真ん中の溝のような川が境界線。
右手が一般の住宅です。
米軍キャンプの記憶 ― 2007/09/29
米軍キャンプは、私が物心つくときにはもう撤収していたと思います。
しかし、キャンプの建物などは、しばらく残っていました。
この境界線の中に入ったとき、私はドキドキしました。
それは、日本ではなかった・・・・からです。
覚えているのは、ガソリンスタンド。
ここにあったのだと思います。
英語の文字や見慣れない建物(放置状態)があり、
なぜか、来てはいけないところだと感じました。
「来てはいけない」というのは、もしかしたら、なにか言われていたかも
知れません。
28日の夜にある集会があり、そこで70ぐらいの元気な女性に出会いました。開会前だったので、気軽に話しをしていましたが、そこでキャンプの話題が出ました。
「あそこ(米軍キャンプ)には近づくなっていわれてましたから。
なかはよく知りません。」
「うちの姉は、皇子が丘の上のほうで、米軍のハウスメイドをしてました。」
英語に詳しくなさそうな方から飛び出す「ハウスメイド」という言葉。
やはり、米軍の存在を感じました。
いまは、公務員のための集合住宅となっています。
どこにも、米軍キャンプであったという痕跡もなければ、
その歴史を刻んだ表示もありません。
それは、生きている高齢者の記憶のなかでしか生きていないと
思います。
私には、それでいいとは思えません。
しかし、キャンプの建物などは、しばらく残っていました。
この境界線の中に入ったとき、私はドキドキしました。
それは、日本ではなかった・・・・からです。
覚えているのは、ガソリンスタンド。
ここにあったのだと思います。
英語の文字や見慣れない建物(放置状態)があり、
なぜか、来てはいけないところだと感じました。
「来てはいけない」というのは、もしかしたら、なにか言われていたかも
知れません。
28日の夜にある集会があり、そこで70ぐらいの元気な女性に出会いました。開会前だったので、気軽に話しをしていましたが、そこでキャンプの話題が出ました。
「あそこ(米軍キャンプ)には近づくなっていわれてましたから。
なかはよく知りません。」
「うちの姉は、皇子が丘の上のほうで、米軍のハウスメイドをしてました。」
英語に詳しくなさそうな方から飛び出す「ハウスメイド」という言葉。
やはり、米軍の存在を感じました。
いまは、公務員のための集合住宅となっています。
どこにも、米軍キャンプであったという痕跡もなければ、
その歴史を刻んだ表示もありません。
それは、生きている高齢者の記憶のなかでしか生きていないと
思います。
私には、それでいいとは思えません。
日清戦争で戦死した下士官・准士官の墓地=Bブロック ― 2007/09/29
旧大津陸軍墓地のBブロックの墓碑で階級は読み取ることができました。
では、結局、このBブロックは、どういう集合だったのでしょうか?
墓碑銘の横には、死亡年月日が刻まれています。
軍曹の場合、名前以外に刻まれているのは、死亡年月日とその場所だけです。
ざっと見ていくと、
①明治28(1895)年 4月27日 於 沈家屯(?)歿
②明治28(1895)年 4月25日 於 柳樹屯歿
③明治28(1895)年 9月18日 於 ?子? 歿
④明治28(1895)年 4月28日 於 ?家屯 歿
⑤明治28(1895)年 4月26日 於 劉家屯 歿
⑥明治28(1895)年 4月11日 於征清従軍航海船中歿(特務曹長)
⑦明治28(1895)年 7月13日 於 海城 歿
⑧明治28(1895)年 9月 5日 於 海城 歿
⑨明治28(1895)年 7月17日 於 小河沿 歿
⑩明治28(1895)年10月16日 於 海城 歿
⑪明治29(1896)年 3月25日 於 台湾 歿
⑫明治28(1895)年 9月16日 於 海城 歿
⑬明治28(1895)年 9月15日 於 海城 歿
⑭明治28(1895)年 7月 2日 於 小河沿 歿
⑮大正11(1922)年11月13日 歿(特務曹長)
●日清戦争の戦死者
最後の方だけが異質ですが、それ以外の下士官・准士官は、ほぼ同時期に亡くなっています。
学校で習う日清戦争は、明治27(1894)年7月25日に始まり、翌明治28(1895)年4月15日の下関条約締結で終わるとなっています。しかし、戦闘はそれ以前から始まっており、さらに続いていたのです。
大本営や参謀本部は、日清戦争の期間を、台湾征服戦争(1895年5月10日から11月30日)を含むものとして定義しています(『日本近代史:日清・日露戦争』原田敬一 岩波新書86㌻)。
●第九連隊は狭義の日清戦争には実戦参加せず
大津の第九連隊に動員令がおろされたのは、明治27(1894)年11月26日。開戦から4ヵ月後のことです。準備は整えられましたが、出征命令はさらに遅く、翌明治28(1895)年3月24日。第四師団に属している第九連隊が広島に集結し、大連に向かいます。
上陸は4月17日。下関条約が締結されてから2日後のことです。
上の写真を見ていただければ(文言は⑥)、この最初の航海のなかで、この方が亡くなっていることがわかります。
したがって、教科書にある狭義の日清戦争には、実戦参加していないのです。
●台湾征服戦争への参加
第九連隊は、1895年4月から遼東半島に駐屯。12月に日本に帰国。
しかし、帰国するとすぐに台湾征服戦争に駆り出されます。
明治29(1896)年1月14日に、混成旅団の一員として第九連隊二個大隊が編成され、1月13日に台湾に上陸します。
これがはじめての本格的な外地での戦闘となります。
同年6月、新たに編成された部隊と交代して、帰国する・・・これが日清戦争とのかかわりです。
上の下士官・准士官の戦死は、これらの事件のなかで起こったことです。
では、結局、このBブロックは、どういう集合だったのでしょうか?
墓碑銘の横には、死亡年月日が刻まれています。
軍曹の場合、名前以外に刻まれているのは、死亡年月日とその場所だけです。
ざっと見ていくと、
①明治28(1895)年 4月27日 於 沈家屯(?)歿
②明治28(1895)年 4月25日 於 柳樹屯歿
③明治28(1895)年 9月18日 於 ?子? 歿
④明治28(1895)年 4月28日 於 ?家屯 歿
⑤明治28(1895)年 4月26日 於 劉家屯 歿
⑥明治28(1895)年 4月11日 於征清従軍航海船中歿(特務曹長)
⑦明治28(1895)年 7月13日 於 海城 歿
⑧明治28(1895)年 9月 5日 於 海城 歿
⑨明治28(1895)年 7月17日 於 小河沿 歿
⑩明治28(1895)年10月16日 於 海城 歿
⑪明治29(1896)年 3月25日 於 台湾 歿
⑫明治28(1895)年 9月16日 於 海城 歿
⑬明治28(1895)年 9月15日 於 海城 歿
⑭明治28(1895)年 7月 2日 於 小河沿 歿
⑮大正11(1922)年11月13日 歿(特務曹長)
●日清戦争の戦死者
最後の方だけが異質ですが、それ以外の下士官・准士官は、ほぼ同時期に亡くなっています。
学校で習う日清戦争は、明治27(1894)年7月25日に始まり、翌明治28(1895)年4月15日の下関条約締結で終わるとなっています。しかし、戦闘はそれ以前から始まっており、さらに続いていたのです。
大本営や参謀本部は、日清戦争の期間を、台湾征服戦争(1895年5月10日から11月30日)を含むものとして定義しています(『日本近代史:日清・日露戦争』原田敬一 岩波新書86㌻)。
●第九連隊は狭義の日清戦争には実戦参加せず
大津の第九連隊に動員令がおろされたのは、明治27(1894)年11月26日。開戦から4ヵ月後のことです。準備は整えられましたが、出征命令はさらに遅く、翌明治28(1895)年3月24日。第四師団に属している第九連隊が広島に集結し、大連に向かいます。
上陸は4月17日。下関条約が締結されてから2日後のことです。
上の写真を見ていただければ(文言は⑥)、この最初の航海のなかで、この方が亡くなっていることがわかります。
したがって、教科書にある狭義の日清戦争には、実戦参加していないのです。
●台湾征服戦争への参加
第九連隊は、1895年4月から遼東半島に駐屯。12月に日本に帰国。
しかし、帰国するとすぐに台湾征服戦争に駆り出されます。
明治29(1896)年1月14日に、混成旅団の一員として第九連隊二個大隊が編成され、1月13日に台湾に上陸します。
これがはじめての本格的な外地での戦闘となります。
同年6月、新たに編成された部隊と交代して、帰国する・・・これが日清戦争とのかかわりです。
上の下士官・准士官の戦死は、これらの事件のなかで起こったことです。
Bブロックの謎=異質な墓碑は、なぜここに置かれているのか? ― 2007/09/29
旧大津陸軍墓地 :Cブロックに埋葬された人たち ― 2007/09/29
旧大津陸軍墓地のCブロック。
配置は、つぎのようになっています。■は墓石。
1 2 3 4 5 6 7 8
第3行 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 7柱
第2行 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 8柱
第1行 ○ ■ ■ ■ 3柱
↑石(上の写真)
C0105 石
C0106 陸軍歩兵軍曹
C0107 陸軍歩兵軍曹
C0108 故陸軍歩兵曹長
C0201 まったく解読できません。字そのものが喪失。
C0202 陸軍歩兵軍曹
C0203 陸軍歩兵軍曹
C0204 陸軍歩兵伍長
C0205 陸軍歩兵曹長
C0206 陸軍歩兵軍曹
C0207 陸軍歩兵軍曹
C0208 陸軍歩兵軍曹
C0302 故歩兵伍長
C0303 歩兵軍曹
C0304 故歩兵曹長
C0305 歩兵軍曹
C0306 歩兵伍長
C0307 陸軍伍長
C0308 陸軍曹長
配置は、つぎのようになっています。■は墓石。
1 2 3 4 5 6 7 8
第3行 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 7柱
第2行 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 8柱
第1行 ○ ■ ■ ■ 3柱
↑石(上の写真)
C0105 石
C0106 陸軍歩兵軍曹
C0107 陸軍歩兵軍曹
C0108 故陸軍歩兵曹長
C0201 まったく解読できません。字そのものが喪失。
C0202 陸軍歩兵軍曹
C0203 陸軍歩兵軍曹
C0204 陸軍歩兵伍長
C0205 陸軍歩兵曹長
C0206 陸軍歩兵軍曹
C0207 陸軍歩兵軍曹
C0208 陸軍歩兵軍曹
C0302 故歩兵伍長
C0303 歩兵軍曹
C0304 故歩兵曹長
C0305 歩兵軍曹
C0306 歩兵伍長
C0307 陸軍伍長
C0308 陸軍曹長
生きた証が刻まれた墓碑 ― 2007/09/29
21歳で病没した歩兵伍長の墓碑 ― 2007/09/29
沖縄の県民大会が成功 ― 2007/09/29
軍による「集団自決」の強要の事実を教科書から抹殺する政府に対する県民の怒りを示す県民大会が、過去最大規模で成功したようです。
沖縄のみなさんのがんばりに敬意を表します。
政府は、この怒りを真正面から受け止め、削除を撤回すべきです。
沖縄のみなさんのがんばりに敬意を表します。
政府は、この怒りを真正面から受け止め、削除を撤回すべきです。
長等山で見つけたキノコ ① ― 2007/09/29
サンゴのようなキノコ ― 2007/09/29
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント