お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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モー♂にネコ@パンチした犯人はこれ2007/09/15

気が強いムー♂も、H君に捕まってしまえば、このとおり
おとなしくするしかありません。

膳所公園でムクドリがランニング競争してます2007/09/15

土曜日のお昼。空が晴れているのに、雨が降り出しました。
昼食を食べたあと、会議まで25分ありました。
15分間だけ、膳所公園に向かい、トリさんに会いに行きました。
まだ雨は少し降っています。
いないかなぁと思ったら、ムクドリさんの集団が草むらに
降りて、虫取りの最中でした。

『明治・大正・昭和 近代の滋賀』(滋賀民報社 2002年)を読んで2007/09/15

 滋賀民報社が、2002年に出版した『明治・大正・昭和 近代の滋賀』を書棚に見つけました。
 ここに私が、この一ヶ月の間追いかけている戦跡と関係のある記事があるはずだと思いました。
 全部で4章38節ありますが、それぞれ執筆者がちがいます。
関係ある説は、

 はじめて農民が戦争へ    石川正知
 竹橋事件と滋賀の人々    小西賢吉
 あいば野演習場と第九連隊 中島峰夫

まずはこれだけだと思い、読みました。

 石川正知さんが執筆した「はじめて農民が戦争へ」は、ある女性の話から始まります。朝日新聞の記事からとったものでしたが。
 それは、明治の新時代になって、いくさは武士のするものだと思っていたのに、農民がいくさに強制的に駆り出されることの驚きと悲しみを語ったものでした。

 私は、これを読んで、これがいまにかかわる原点だと思いました。
 村がもっともたよりにする若者が、死が待つ戦場に強制的にかりだされることの悲しみは、戦跡をたどる私が一番最初に心にいだくべきことでした。

 わずか5ページほどの文章ですが、たった一枚写真が載っています。
 それが、私が先日行ったばかりの「西南戦争の碑」でした。

 石川さんは結んでいます。

 「(西南戦争の)翌年10月、この戦没者のための慰霊塔が長等山の一角三井寺観音堂の裏手の御幸山山中に建てられました。農民や町民の息子たちが戦争に取られて死んだ最初の悲しみの記念碑です。」

 そうですね、この思いが大事なのでした。
 次ぎ行くときは、かならず、花束を持っていきたいと思います。

西南戦争の碑のまえで津田三蔵はロシア皇太子暗殺を決意2007/09/15

 私がその造形に感嘆した西南戦争の碑は、農民兵士たちの悲しみの碑でもあることが、わかりました。
 しかし、それだけに終わらなかったのです。
 ロシア皇太子が大津市で暗殺未遂事件に遭ったことがありました。
1891年の大津事件です。

 その暗殺をしようとしたのが、津田三蔵という警備担当の巡査でした。
問題は、その動機。

 津田三蔵は、名古屋鎮台の兵士として西南戦争へ出征。そして勲章と一時金を受けています。それが彼の誇りであったのです。
 ところが西郷が生きているという噂があり、そのことで西南戦争とその武勲が消えることになります。しかも、ロシア皇太子ニコライは、まっすぐ東京に上陸せずに、鹿児島に上陸。そこでしばらくなにもせず逗留(実際はイースターのため)。
 それが、ニコライと西郷が密会しているという疑念を生みます。
 津田三蔵は、警備のひとりとして、先の西南戦争の碑の警備をします。ニコライは、三井寺観音堂から境内の正方法寺に入り、歓待を受けます。
 津田が神聖視する西南戦争の碑には、ニコライ自身が登ってくることはありませんでした。登山してきたのは、随行した2名のロシア人仕官。ニコライの不在と仕官のそのふるまいに無礼さを感じて、津田は殺意をいだいたと供述したそうです。

 青年戦争の碑と暗殺未遂事件が重要なかかわりをもっていたことを、私は知りませんでした。

 ロシア皇太子暗殺未遂事件(5月11日)がおこる直前の4月15日から三日間、西南戦争の碑の15周年の記念祭が行われたところでした。
 重大事件の動機となったとしたら、こういう記念祭が途絶える原因になったのは十分考えられます。

「露国皇太子遭難の地の碑」の碑文2007/09/15

 ロシア皇太子ニコライが、警備の警官に、まさかの襲撃をうけた地に、「露国皇太子の碑」が建っています。
 大津市文化財保存課にきくと、この碑も、民間が建てたものだとか。
 以前には、なかった碑文が、民家の壁にかかっています。
 「大津なかまち元気回復委員会」が作成したものです。

なにもかも、公がやる必要はないと思いますが、この重大な歴史的事件に地にしては、おざなりすぎる対応だといつも思っています。

ロシア皇太子遭難の地をのぞむ2007/09/15

1891年5月11日、ロシア皇太子ニコライは、ギリシャ王子とともに、大津に入りました。三井寺観音堂を見た後、疎水にそって三保が崎に行き、そこから船で遊覧へ。
 船は、浜大津に戻り、そこから滋賀県庁へ向かい、滋賀県庁からこの道を通って先に進みました。事件がおきたのは、午後1時50分ごろです。

 クリックしてください。

 車が左手に駐車しています。
 その左手に電信柱があり、黄色と黒の帯がみえます。
 ちょうどその横に見えるのが、「露国皇太子遭難の地の碑」

 ほとんど目立たないということがいいたいのですが。

 道の向こうに電車が通っています。そこが京都へ向かう道です。
 さらに遠くにお寺の屋根が見えますが、
 それが、ニコライが訪れた三井寺観音堂。
 西南戦争の碑も同じ方向のはずです。

「ロシア皇太子遭難の地の碑」2007/09/15

別の日の早朝に写したロシア皇太子遭難の地の碑。
前にも紹介しましたね。

民間が残した碑と碑文。

 10月6日以降に、歴史博物館へ行って、4年程前に行われた大津事件の大規模な展示会のときに、ロシアから贈られた資料を見せてもらいに行ってきます。
 この記念碑をもうすこしにぎやかにすべきだと思うし、そのために何かしたいと思っています。

 ロシア語の碑文をつくるのはどうでしょうか?
ほとんど読める人がいない・・・でも、雰囲気はでるはずですが。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)