お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
情報公開(閲覧)された図面などを見て ― 2007/09/27
閲覧できた限りでの感想です。
成果のところで書いたことは省略します。
バイパス開通までの陸軍墓地は、モノクロの写真を見る限り、草深い土地のなかにあるという印象でした。
山手は現在のように宅地開発されていませんでしたから、山そのもの。
下手も同様。
移動後の墓碑は、きれいに並べられています。
そういえば、「きれいに並べかえられまして」と遺族会の事務局長さんが言っていたことを思い出しました。
現在のKとLです。
それまでは、墓地の真ん中を走る道の両側に縦長に墓碑が並んでいるという形です。林ですから、立ち木のない隙間に、不規則につくられていました。
右と左では配列がちがいました。
時代の旧いものから順番に並んでいる側(どっちか不明)もありましたが、年代的にも不規則な配列になっている側もありました。
墓碑に年代がつけてある図がとても貴重です。
なかには、明治5年というものがありました。
これは、大津市に第九連隊の営所ができるまえのお墓ということになります。
明治11年というお墓もひとかたまりありました。それは、西南戦争の直後の年代です。
それらの写真と配置図は、陸軍墓地の成り立ちを知る大きな手がかりになるはずです。
成果のところで書いたことは省略します。
バイパス開通までの陸軍墓地は、モノクロの写真を見る限り、草深い土地のなかにあるという印象でした。
山手は現在のように宅地開発されていませんでしたから、山そのもの。
下手も同様。
移動後の墓碑は、きれいに並べられています。
そういえば、「きれいに並べかえられまして」と遺族会の事務局長さんが言っていたことを思い出しました。
現在のKとLです。
それまでは、墓地の真ん中を走る道の両側に縦長に墓碑が並んでいるという形です。林ですから、立ち木のない隙間に、不規則につくられていました。
右と左では配列がちがいました。
時代の旧いものから順番に並んでいる側(どっちか不明)もありましたが、年代的にも不規則な配列になっている側もありました。
墓碑に年代がつけてある図がとても貴重です。
なかには、明治5年というものがありました。
これは、大津市に第九連隊の営所ができるまえのお墓ということになります。
明治11年というお墓もひとかたまりありました。それは、西南戦争の直後の年代です。
それらの写真と配置図は、陸軍墓地の成り立ちを知る大きな手がかりになるはずです。
情報公開文書が届くまでに、できることはなに ― 2007/09/27
旧大津陸軍墓地の名簿と図面が出てきましたので、今やっている作業の大半は必要がなくなりました。
閲覧した名簿を見ていると、バイパス工事前(1970年代中頃)でさえ、判読できない文字があるのがわかります。
となると、今ではどうにもなりません。
移動の際に、市役所から遺族を探されたそうですが、見つからない方がかなりあったそうです。そうなれば、戦死した方を未来に伝える手立てがなくなります。
名簿には、階級名が書いてありましたが、墓碑にはあるけれど、名簿に記されていないことがあります。それは、その人の生地、生年月日、入営の日付と場所、死亡場所などです。
死亡年月日とおもわれるものは、図面にかかれてありました。
しかし、年月であって日はありません。
ましてや、どのような戦争でなくなられたのかを記されてはいません。
要するに管理に最小限必要な事項は残っていますが、生きた時代の証言として記録することには、なっていないということです。
ですから、今読めないことを補うために、名簿は有効だと思います。
しかし、階級と氏名以外にいろいろ書かれているその人の経歴は、読み取り記録するほかはないと思いました。
最後に、旧大津陸軍墓地をボランティアとして毎月清掃されている護持奉賛会の会長さんを紹介していただきました。調べるなら、まずご挨拶したいと私は思ったのです。
歯医者にむかう前に、連絡をとりました。
陸軍墓地をお世話している人はどんどん減っているそうです。始めた頃は、20代。まもなく70歳の大台に乗るとおっしゃっていました。後を継ぐ人が必要なことはどこも同じなんです。
毎月10日の午前10時ごろから13時までやっているとのこと。
会いにいってきます。
*無縁墓地についても、健康福祉政策課で教えていただきました。感謝します。
閲覧した名簿を見ていると、バイパス工事前(1970年代中頃)でさえ、判読できない文字があるのがわかります。
となると、今ではどうにもなりません。
移動の際に、市役所から遺族を探されたそうですが、見つからない方がかなりあったそうです。そうなれば、戦死した方を未来に伝える手立てがなくなります。
名簿には、階級名が書いてありましたが、墓碑にはあるけれど、名簿に記されていないことがあります。それは、その人の生地、生年月日、入営の日付と場所、死亡場所などです。
死亡年月日とおもわれるものは、図面にかかれてありました。
しかし、年月であって日はありません。
ましてや、どのような戦争でなくなられたのかを記されてはいません。
要するに管理に最小限必要な事項は残っていますが、生きた時代の証言として記録することには、なっていないということです。
ですから、今読めないことを補うために、名簿は有効だと思います。
しかし、階級と氏名以外にいろいろ書かれているその人の経歴は、読み取り記録するほかはないと思いました。
最後に、旧大津陸軍墓地をボランティアとして毎月清掃されている護持奉賛会の会長さんを紹介していただきました。調べるなら、まずご挨拶したいと私は思ったのです。
歯医者にむかう前に、連絡をとりました。
陸軍墓地をお世話している人はどんどん減っているそうです。始めた頃は、20代。まもなく70歳の大台に乗るとおっしゃっていました。後を継ぐ人が必要なことはどこも同じなんです。
毎月10日の午前10時ごろから13時までやっているとのこと。
会いにいってきます。
*無縁墓地についても、健康福祉政策課で教えていただきました。感謝します。
原点(陸軍墓地)に立って考える ― 2007/09/27
市役所が資料を残してくれていたおかげで、手間のかかる仕事(個々の墓碑のデータの確定)から開放されます。
それに当分かかりきりかなぁと思っていたので、見通しがよくなりました。
これからどうするか、あらためて、原点に立ち返って考えようと思いました。
●陸軍墓地の意味はなにか
墓地は、われわれが死というものに相対する場所。
ふつう死は避けられない自然の営み。しかし、人間の過ちによって余儀なくされる死もある。それが戦争。
戦争の犠牲者の墓は、死という現実だけではなく、戦争という悪行を考える場所となる。
新たな戦争へ駆り立てる靖国神社や護国神社とちがい、陸軍墓地は、戦死者の死を静かに見つめることができる場。天皇のために働いた者のみを祭る前者とちがい、後者は敵国の捕虜さえおなじ死者として丁重に葬っている。
旧大津陸軍墓地の場合、中国兵士やロシア人兵士の墓は、わずかな数であっても、大切な意味がある。
いま、そういう場に向かい合うことが大切ではないか。
●現状では不十分
旧大津陸軍墓地は、護持奉賛会の人たちによって守られている。しかし、長年つづけられた努力を知る市民は少ない。そもそも、陸軍墓地そのものが日陰の存在として扱われていないだろうか?
したがって、この墓地の値打ち、大切さを明らかにして、みんなに知ってもらうことが今必要に思える。
「今」というのは、生の語り部が年々いなくなると思われるからだ。
●墓地の値打ちに気づく道筋
墓地そのものが語りかける力をもっている。
しかし、その声をきくには、一定の知識が必要になる。
たとえば、私が陸軍墓地にたどりついた道筋は、大津が軍都であったことを知り、第九連隊のたどった歴史を調べたことにはじまる。
身近に戦争と深くかかわる数々の遺跡があることを知り、それを次々訪問したことによって、それらを受け止めてこそ、この地に生きる意味があると感じだことにある。
●まずは値打ちをもっと明らかにすること
こういう思いを伝えることために、なにをしたらいいのだろう。
伝えるべき値打ちについて、私は十分知っているとはいえない。
具体的には、陸軍墓地そのものについての知識を深めることだ。
その成り立ちや扱い方、なぜこの人たちがここに眠ることになったのか、など。それらをつきつめる作業をしながら、いろんな人と考えていくのがいいと思う。
●後世のために現状を保存する必要
保存も大切になっている。
崩壊しつつある墓碑がある。いまでないと、いやすでに失われたデータもある。遺族がなくなったいま、その人の命と犠牲を伝えるのは墓石と墓碑しかない。墓碑がよめなくなったとき、その人の過去は語るのをやめる。そこにあるのは、ただの石になってしまう。それはなんとしても、悔しいことである。
・・・こんなところでしょうか。
これらに沿って、メモを書いてみます。
それに当分かかりきりかなぁと思っていたので、見通しがよくなりました。
これからどうするか、あらためて、原点に立ち返って考えようと思いました。
●陸軍墓地の意味はなにか
墓地は、われわれが死というものに相対する場所。
ふつう死は避けられない自然の営み。しかし、人間の過ちによって余儀なくされる死もある。それが戦争。
戦争の犠牲者の墓は、死という現実だけではなく、戦争という悪行を考える場所となる。
新たな戦争へ駆り立てる靖国神社や護国神社とちがい、陸軍墓地は、戦死者の死を静かに見つめることができる場。天皇のために働いた者のみを祭る前者とちがい、後者は敵国の捕虜さえおなじ死者として丁重に葬っている。
旧大津陸軍墓地の場合、中国兵士やロシア人兵士の墓は、わずかな数であっても、大切な意味がある。
いま、そういう場に向かい合うことが大切ではないか。
●現状では不十分
旧大津陸軍墓地は、護持奉賛会の人たちによって守られている。しかし、長年つづけられた努力を知る市民は少ない。そもそも、陸軍墓地そのものが日陰の存在として扱われていないだろうか?
したがって、この墓地の値打ち、大切さを明らかにして、みんなに知ってもらうことが今必要に思える。
「今」というのは、生の語り部が年々いなくなると思われるからだ。
●墓地の値打ちに気づく道筋
墓地そのものが語りかける力をもっている。
しかし、その声をきくには、一定の知識が必要になる。
たとえば、私が陸軍墓地にたどりついた道筋は、大津が軍都であったことを知り、第九連隊のたどった歴史を調べたことにはじまる。
身近に戦争と深くかかわる数々の遺跡があることを知り、それを次々訪問したことによって、それらを受け止めてこそ、この地に生きる意味があると感じだことにある。
●まずは値打ちをもっと明らかにすること
こういう思いを伝えることために、なにをしたらいいのだろう。
伝えるべき値打ちについて、私は十分知っているとはいえない。
具体的には、陸軍墓地そのものについての知識を深めることだ。
その成り立ちや扱い方、なぜこの人たちがここに眠ることになったのか、など。それらをつきつめる作業をしながら、いろんな人と考えていくのがいいと思う。
●後世のために現状を保存する必要
保存も大切になっている。
崩壊しつつある墓碑がある。いまでないと、いやすでに失われたデータもある。遺族がなくなったいま、その人の命と犠牲を伝えるのは墓石と墓碑しかない。墓碑がよめなくなったとき、その人の過去は語るのをやめる。そこにあるのは、ただの石になってしまう。それはなんとしても、悔しいことである。
・・・こんなところでしょうか。
これらに沿って、メモを書いてみます。
空飛ぶパンダ Ⅱ サギ・・・ ― 2007/09/27
空飛ぶパンダ Ⅲ サギ・・・ ― 2007/09/27
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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