お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
その近くにいるちっこいカメも外来種ですか? ― 2007/09/02
橋の正面に「鬼子母善神堂」 ― 2007/09/02
池から広場を隔てて、正面に「鬼子母善神堂」
膳所公園でたまたま外来のカメを見つけたことがはじまりで、カメ池のあるここに来てしまいました。
池にいるカメは、ずいぶん少ないと思いました。
数十匹というのは、おおげさかもしれませんが、30匹はいたと思うのです。
両側の人口の島には、「ほんとうに生きているの?」と思われるほど、じっとしているカメさんたちが、たくさんいました。
カメの上に乗っているカメもいて、愉快でした。
今見ると、ほとんどカメさんがいません。
水も透明度を増していますので、水底にもいないことがわかります。
コイは、同じぐらいいます。
これって、もしかして、少子化の影響???
少子化=子どもが少ない
→カメの甲羅に子どもの無病息災を願って文字をかく人が少ない
→(輸入の)カメが必要ない
→カメがいない
→さびしいので逃げ出す
→琵琶湖に外来カメが出没
考えすぎでしょうか?
膳所公園でたまたま外来のカメを見つけたことがはじまりで、カメ池のあるここに来てしまいました。
池にいるカメは、ずいぶん少ないと思いました。
数十匹というのは、おおげさかもしれませんが、30匹はいたと思うのです。
両側の人口の島には、「ほんとうに生きているの?」と思われるほど、じっとしているカメさんたちが、たくさんいました。
カメの上に乗っているカメもいて、愉快でした。
今見ると、ほとんどカメさんがいません。
水も透明度を増していますので、水底にもいないことがわかります。
コイは、同じぐらいいます。
これって、もしかして、少子化の影響???
少子化=子どもが少ない
→カメの甲羅に子どもの無病息災を願って文字をかく人が少ない
→(輸入の)カメが必要ない
→カメがいない
→さびしいので逃げ出す
→琵琶湖に外来カメが出没
考えすぎでしょうか?
ルドンの黒 武満徹「彩の記」 ― 2007/09/03
azamikoさんのブログで「ルドンの黒」展が東京のBunkamuraで行われていたのを知りました。7月28日から8月26日まで。
http://d.hatena.ne.jp/azamiko/20070829
展示されていたのは、ルドンの版画とデッサン。
ネットで見る限り、マックロクロスケや目玉の親父風のグロテスクでユーモラスな生き物が描かれています。
それらは、岐阜県美術館のコレクション。
岐阜なら、まだ近くですので、見に行くことができます。
ついでに、Bunkamuraのザ・ミュージアムの今後のラインナップを調べていると、来年夏にモスクワ市近代美術館(1999年創立!!)所蔵のロシア・アヴァンギャルドたちの作品展(シャガールからマレーヴィチまでという仮称で)が行われる予定です。
この美術館のコレクションの展示は、日本初とのことです。
これは、見たいと思いました。
商品なら、いまやどこに住んでいても、簡単に手に入ります。しかし、こういう催しについては、地方都市と中央の格差はどうにもなりません。
ところで、武満徹さんが、ルドンの黒について書いています。
1985年に出版された『音楽を呼びさますもの』(新潮社)という著作(上の写真)のなかの「彩(いろどり)の記」です。
『ルドンの木炭や石版による作品を観ると、暗い陰鬱なヴィジョンと謂うより、昼の陽光を充分に吸い尽くした後の大地の温もりのような、官能的な感触を、反ってその深い黒の世界に感じる。すべての夢がそこでは呼び醒まされ、育まれているように思える。そこから、「予感」のような永遠の信号が送られ続けているのを感じる』
ぜひ、こういう黒に出会ってみたいと思いました。
http://d.hatena.ne.jp/azamiko/20070829
展示されていたのは、ルドンの版画とデッサン。
ネットで見る限り、マックロクロスケや目玉の親父風のグロテスクでユーモラスな生き物が描かれています。
それらは、岐阜県美術館のコレクション。
岐阜なら、まだ近くですので、見に行くことができます。
ついでに、Bunkamuraのザ・ミュージアムの今後のラインナップを調べていると、来年夏にモスクワ市近代美術館(1999年創立!!)所蔵のロシア・アヴァンギャルドたちの作品展(シャガールからマレーヴィチまでという仮称で)が行われる予定です。
この美術館のコレクションの展示は、日本初とのことです。
これは、見たいと思いました。
商品なら、いまやどこに住んでいても、簡単に手に入ります。しかし、こういう催しについては、地方都市と中央の格差はどうにもなりません。
ところで、武満徹さんが、ルドンの黒について書いています。
1985年に出版された『音楽を呼びさますもの』(新潮社)という著作(上の写真)のなかの「彩(いろどり)の記」です。
『ルドンの木炭や石版による作品を観ると、暗い陰鬱なヴィジョンと謂うより、昼の陽光を充分に吸い尽くした後の大地の温もりのような、官能的な感触を、反ってその深い黒の世界に感じる。すべての夢がそこでは呼び醒まされ、育まれているように思える。そこから、「予感」のような永遠の信号が送られ続けているのを感じる』
ぜひ、こういう黒に出会ってみたいと思いました。
H君の誕生日ケーキ・・今年もこれ ― 2007/09/03
H君の誕生日のケーキ。今年もこれ。
イチゴショートケーキが好きなので。
高校生になったけれど、部活は中学生時代よりも熱心ではありません。
兄のK君が、夕方どこかへ出かけて帰ってきません。
その原因が判明。
弟のH君への誕生日プレゼントを選んでいたのです。
本でした。一時間半かけて、2冊選んで、買ってきたのでした。
両親からのプレゼントは・・・・大騒動の末に。
イチゴショートケーキが好きなので。
高校生になったけれど、部活は中学生時代よりも熱心ではありません。
兄のK君が、夕方どこかへ出かけて帰ってきません。
その原因が判明。
弟のH君への誕生日プレゼントを選んでいたのです。
本でした。一時間半かけて、2冊選んで、買ってきたのでした。
両親からのプレゼントは・・・・大騒動の末に。
甘い親ですねぇ、H君の誕生日プレゼントはWii ― 2007/09/03
H君への誕生日プレゼントをめぐって大騒動でした。
本人が欲しいものを、なかなかいいません。
・・・実は、欲しいものは、はっきりしていたのです。
親が反対するのを承知で黙っているのですが、
あきらめきれないのです。
ともかく、どうしても欲しいと思っているのです。
結局、深夜に決着。
本人もお小遣いから負担することで合意。
まあ、上の写真がすべてを物語っています。
Wiiです。
甘い親だと自覚しています。
本人が欲しいものを、なかなかいいません。
・・・実は、欲しいものは、はっきりしていたのです。
親が反対するのを承知で黙っているのですが、
あきらめきれないのです。
ともかく、どうしても欲しいと思っているのです。
結局、深夜に決着。
本人もお小遣いから負担することで合意。
まあ、上の写真がすべてを物語っています。
Wiiです。
甘い親だと自覚しています。
大津陸軍墓地へ 『軍都』としての過去に向き合ってみたい ― 2007/09/04
自分たちの息子にむかって、『ここはかつての「軍都」だよ』と言っても「はぁ?」となると思うのです。自衛隊基地は市内にあっても、日常的に迷彩服や武器を見るわけではないからです。
私もそういう過去をしっかり教えられた記憶がないし、いまの子どもたちはなおさらだと思います。
「戦争はいけない」と、一般的にはだれしも思うのです。
でも、いろいろ理屈をつけられると、最後は「仕方がない」「それが現実なのだ」となっていく・・・安倍さんのように積極的肯定派に進化する場合もありえます。
「やはりダメ!」と心を強くするためには、理屈も大切ですが、戦争の素顔をしっかり見つめることが大事だと思うのです。
中島峰夫さんが『軍都・大津』という本を二冊出されています。それを見ながら、行ってみようと思った場所があります。
それは、旧陸軍墓地(大津市皇子が丘)です。
私は、お盆の少し前に、たまたまある墓地を通りがかり、陸軍のマーク(★)のあるお墓を見つけました。それで、墓地のなかを散策して、それらが日露戦争のとき、はるか遠い異国でなくなられた若者の墓だと知ったのです。
それを見ながら、目の前に、明治の戦争がよみがえったのです。
そして、この体験を忘れないようにしたいと思ったのです。
それで、大津市に存在した陸軍第九連隊の戦死者が葬られている墓地に出かける気になったのです。
数度に分けて書きますから、ブログに似つかわしいかどうかわかりません。疑問も持ちましたので、おわかりになる方は教えてください。
私もそういう過去をしっかり教えられた記憶がないし、いまの子どもたちはなおさらだと思います。
「戦争はいけない」と、一般的にはだれしも思うのです。
でも、いろいろ理屈をつけられると、最後は「仕方がない」「それが現実なのだ」となっていく・・・安倍さんのように積極的肯定派に進化する場合もありえます。
「やはりダメ!」と心を強くするためには、理屈も大切ですが、戦争の素顔をしっかり見つめることが大事だと思うのです。
中島峰夫さんが『軍都・大津』という本を二冊出されています。それを見ながら、行ってみようと思った場所があります。
それは、旧陸軍墓地(大津市皇子が丘)です。
私は、お盆の少し前に、たまたまある墓地を通りがかり、陸軍のマーク(★)のあるお墓を見つけました。それで、墓地のなかを散策して、それらが日露戦争のとき、はるか遠い異国でなくなられた若者の墓だと知ったのです。
それを見ながら、目の前に、明治の戦争がよみがえったのです。
そして、この体験を忘れないようにしたいと思ったのです。
それで、大津市に存在した陸軍第九連隊の戦死者が葬られている墓地に出かける気になったのです。
数度に分けて書きますから、ブログに似つかわしいかどうかわかりません。疑問も持ちましたので、おわかりになる方は教えてください。
大津陸軍墓地は西南戦役から第二次世界大戦までの戦死者の墓です ― 2007/09/04
大津市には、現在、自衛隊のキャンプ地があります。際川の教育連隊。
戦後は、米軍の駐留地でもありました。
その前は、陸軍第9連隊の広大な練兵場があったのです。
陸軍第9連隊は、明治の最初から置かれていました。そして、明治10年の西南戦争にも参加したのです。
一時、京都へ本拠地を移したことがありましたが、復活。その後、レイテ島で玉砕するまで、存在しつづけました。
こういう歴史ですから、旧陸軍墓地には、明治時代から昭和までの戦死者が葬られています。
陸軍墓地を訪れるのは、これが最初ではありません。
皇子が丘一帯を中学生時代に歩き回ったときに、偶然、墓地に出たときのことをよく覚えています。
それは、時を飛び越えるような一種異様な体験でした。
現在の陸軍墓地は、バイパス工事のために移動を余儀なくされているとか聞いています。縮小したのかも知れません。
ともかく出かけることにしました。
バイパスで京都方面の車線に合流するための道を上っていくと途中で、バイパス合流方面と皇子が丘公園に向かう方面の分岐があります。
その分岐点あたりに、墓地への入り口があったのです。
道路の下をくぐる道を通過すれば、そこは墓地でした。
上の写真は、墓地に入り、バイパスを越えてくるトンネル(墓地への入り口にあたる)を振り返って写したものです。
墓地の中の道路は狭くて車は入れませんが、入り口にしっかり、車止めがついていました。
戦後は、米軍の駐留地でもありました。
その前は、陸軍第9連隊の広大な練兵場があったのです。
陸軍第9連隊は、明治の最初から置かれていました。そして、明治10年の西南戦争にも参加したのです。
一時、京都へ本拠地を移したことがありましたが、復活。その後、レイテ島で玉砕するまで、存在しつづけました。
こういう歴史ですから、旧陸軍墓地には、明治時代から昭和までの戦死者が葬られています。
陸軍墓地を訪れるのは、これが最初ではありません。
皇子が丘一帯を中学生時代に歩き回ったときに、偶然、墓地に出たときのことをよく覚えています。
それは、時を飛び越えるような一種異様な体験でした。
現在の陸軍墓地は、バイパス工事のために移動を余儀なくされているとか聞いています。縮小したのかも知れません。
ともかく出かけることにしました。
バイパスで京都方面の車線に合流するための道を上っていくと途中で、バイパス合流方面と皇子が丘公園に向かう方面の分岐があります。
その分岐点あたりに、墓地への入り口があったのです。
道路の下をくぐる道を通過すれば、そこは墓地でした。
上の写真は、墓地に入り、バイパスを越えてくるトンネル(墓地への入り口にあたる)を振り返って写したものです。
墓地の中の道路は狭くて車は入れませんが、入り口にしっかり、車止めがついていました。
大津陸軍墓地を歩く 下段左の最初の墓地 ― 2007/09/04
大津陸軍墓地 下段真ん中の区域には、日露戦争の墓標が二つ ― 2007/09/04
下段左では、入って一番右で山手にあたる墓地です ― 2007/09/04
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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