お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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旧大津陸軍墓地 : この5つのなかに明治5年没の墓石があるはず2007/10/03

最古ではないかと私が考えた5つの墓石
Fブロックを一通り見て回ったあと、KとLに向かいました。
一つ一つ墓碑を観察しながら、ヒントを探しました。

そして、私にはこれだと思うお墓を見つけました。

手前の5つの墓石がそれです。

墓碑銘だけで探していたときには、気がつかなかったこと、
それは形でした。

この五つ以外のすべての墓石が細長く、
水晶のようにとんがっている形をしています。
この五つだけが違います。
それは決定的な違いに思えました。

しかも、一番後ろに並んでいました。
階級名がなく、氏名だけという条件にも合致します。

どきどきしながら、墓碑を読みました。

これが明治五年没のお墓2007/10/03

旧大津陸軍墓地最古のお墓 : 明治5(1872)年没 22歳
お墓の頭部が丸い5柱の墓碑。
もっとも碑文が読みやすいものを選んで、
解読することにしました。

その墓碑は写真のとおりです。

墓地で撮影したいたときは、確信がありませんでした。
なぜなら、書いてある文字から年代を知ることが
できなかったからです。
生年月日の「嘉永」のあと、そして、
没年月日の「明治」のあとが何なのかがわかりませんでした。
数字がくるはずなのになかったからです。

自宅に戻って、年代の表記の仕方を調べました。
そして、それが「干支」だと知ったのです。

没年の「明治壬申」とは、明治5(1872)年のことでした。
生年は、同様に、嘉永3(1850)年。
22歳で亡くなったという記事と一致します。

まちがいなく、これが最古のお墓のひとつです。

しかし、第九連隊の営所(明治八年創設)が
大津にできる3年も前の死でした。

所属も第十八連隊となっています。
その方がなぜここに葬られているのでしょうか?

小浜の第十八大隊の兵士が、なぜ旧大津陸軍墓地に葬られているのか?2007/10/03

旧大津陸軍墓地の最古のお墓は、明治5年没年のものです。
昨日、実際に存在を確認しましたが、
市役所の書類(移転用の地図の表記)にあったとおりでした。

大津市に陸軍の大阪鎮台に所属する営所ができたのは、
明治8(1875)年のことです。
この3年も前に、なぜ、この兵士は大津の地に葬られているのか?

答えの一端を、『新修大津市史』第五巻に見つけることができました。

●彦根市に移転した小浜第十八大隊

 明治四(1871)年に、廃藩置県が行われ、新しい軍制として四つの鎮台(東京、大阪、鎮西、東北)が設けられます。自衛隊でいえば、方面部隊でしょうか。
 大阪鎮台の管轄は、北陸か四国まで。
  構成は、7つの歩兵大隊から成っていて、
  大阪に本営の5大隊
  小浜に第一分営の1大隊
  高松に第二分営の1大隊がおかれます。
第一分営の管轄は、
  若狭、越前、加賀、能登、丹後、田島、因幡、伯耆でした。
明治4年12月に小浜の第一分営が火災で消失。
そのために、小浜の第十八大隊が彦根城内に移転したということです。

さっきの墓碑には、石川県出身で、明治5年に徴兵され、第十八大隊の兵となったこと、そして、彦根屯所で亡くなったことが刻まれています。

 それは『新修大津市史』に書かれた史実と合致します。

●小浜第一分営が消失しなければ

したがって、第九連隊とは関係のない兵ではありましたが、小浜の火事の結果、この地に眠ることになったのです。

ワンコとの出会い2007/10/03

街で出会った犬さん
いい犬だなぁと思ってみていました。
近くにこられたので、飼い主の方に声をかけて
写させてもらいました。

犬さんの了解も・・・・とれたんじゃないでしょうか。
いい顔してます。

ワンコとの出会い Ⅱ2007/10/03

公園で出会ったワンコは、小さいけど、目がでかい。

今日のモデルはカラス2007/10/03

カラスしかいなかったなぎさ公園。
仕方ないので、カラスをモデルに
かわいい写真に挑戦。

相当近づいたので、じっとにらんでいます。

カラスって、かわいい表情をするんでしょうか?

カラスって表情がないのかも・・・。2007/10/03

どこまでいってもカラスは表情がないように見えます。

八月に見つけた十月の楽しみ Ⅰ2007/10/03

大津に古くから残っているトタン屋根のお店
大津日赤にむかう道に、壊れそうなお店があります。
昔からなじみの「やきいも」のお店です。

8月のはじめに通りがかったら、
閉まっていました。

屋根もひどく傾いていますし、
営業のほうも、
つぶれて閉店なのかと
心配になりました。

近くの商店街ではシャッターが
閉まっているお店がたくさんあって、
その前にも、張り紙がしてあります。

書いてあるのは、閉店のお知らせ。

このお店の前にも張り紙があります。
やっぱり、ここも閉店のお知らせかと
思って見に行きました。

(次の記事へどうぞ)

八月に見つけた十月の楽しみ Ⅱ(やきいも)2007/10/03

つぶれてなくてよかった!10月の楽しみです。
壊れそうなトタン屋根のお店。
閉まっている戸にあった
張り紙はこれです。

お店はまだ生きているのですね。

10月が楽しみでした。

そして、今が10月。

この「やきいも」のお店は開いているでしょうか?

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)