お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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今日は二日ぶりに晴れ2007/10/02

二日ぶりの晴れです。
青空のように見えますが、雲が薄くかかっています。
それでも、気持ちのよい朝です。
昨晩は、事務所に泊まり込み。

そのまま今日も仕事につきますが、朝ごはんのひとときは少し
ゆっくりすることができます。

事務所から出て空を眺めると、飛行機が飛んでいます。
なにげなしにカメラを向けました。

なんとか形が写っています。

・・・それで思い出しました、日航ジャンボ機の墜落事件を。
あの飛行機はどこへ飛んでいったのかさえ不明でした。
事故の可能性が濃厚となったとき、ある写真がTVに映りました。
それは、偶然撮影された事故機の写真。
垂直尾翼を欠いていました。

撮影された方は、なんか変だなぁと思って写したようでした。

今日の飛行機は、たちまち雲の向こうに隠れていきました。
きっと無事・・・でしょうね。
お馬鹿な心配していたら、なにも写せなくなりますね。

雨が上がり、蝶もやっと蜜をゲットというところ2007/10/02

この蝶々は、これから密をすうのでしょうか?
晴れ上がった湖岸を朝食後、歩いて戻りました。
大きな石で湖岸を造成してできた「なぎさ公園」
石の間から、かぼちゃのような(もちろん、かぼちゃではない)
草が生えています。

そこに、ハチや蝶が集まってきます。

ハチも登場し、蜜をすっています2007/10/02

久しぶりの晴れ間ですから、ハチも大忙し
羽が透明なハチ。
名前は知りません。少し小さめですね。

少し大きめのハチも登場2007/10/02

いつも見るハチ
先日も写したことがあるハチです。
これが一番多くいます。

ハチもチョウも共存しています2007/10/02

ハチがチョウに急接近。
・・・というか、存在を気にすることなく、
回りを飛び回っています。

その光景が新鮮なのは、よほど人間社会が
殺伐としているってことでしょうか。

「集団自決」問題で文部科学省が検定見直しを開始2007/10/02

 9月29日の沖縄県民の11万人が参加する大会が、政府を揺るがし、軍の関与を認める方向で検討が開始されました。
 これは、参議院選挙での自民・公明政権の大敗北、
安倍政権の無残な週末と無関係ではないと思われます。
 世論が政治を正していく、この流れをさらに広げたいものです。

「集団自決」の実際を語る生存者の方の話は、衝撃的でした。
それに突き動かされない人はいないと思われます。
軍は、他国民を聖戦の名のもとに虐殺しただけではなく、
自国民をいかに追い詰めていくものなのか。
これらの人たちの体験は、
動かすことのできない事実の重みがあります。

その事実を、教科書検定という形で抹殺することと、
靖国神社の公式参拝、
防衛庁の防衛省への昇格、
憲法改悪、
イラク特措法などは、一連のものです。

現在の日本軍は、かつて激しく戦った米軍とともに、
なぐりこみ戦略のもとで海外派兵を
主任務にするように変質しました。
政府は、国民の納得と参加をえるために、
執拗に歴史を改ざんするのです。

2018年にはこれらの生き証人が
いなくなるといわれてます。
同じ過ちを繰り返さないためにも、
教科書からの削除は
許されることではありません。

沖縄の熱い大会を見て、
私は、戦争の真実を明らかにし、
過去の戦争を美化し、
新たな犠牲者を生み出そうという流れを
追い詰めていくために、
少しでも役立ちたいと思うのです。

旧大津陸軍墓地で、明治5年没のお墓をさがせ!2007/10/02

大津第九連隊の碑文の冒頭部分
 9月末に、大津市役所で見たバイパス工事にともなう移転前の陸軍墓地の地図では、明治5(1872)年という墓碑がありました。
 この年代に疑問をもって、その場で、そのことを、健康福祉政策課の方にいいましたから、まちがいないと思います。

●明治8年に大津営所ができたのに、
  なぜ明治5年のお墓があるのか?

 大津市に、大阪鎮台大津営所ができ、第九連隊が移転してきのは、明治8(1875)年3月8日のことです。

 これでは、日付があいません。

●用地接収は明治初年から

 しかし、『新修大津市史』第五巻を調べてみると、大津市に第九連隊を駐屯させる決定は、明治6(1873)年1月9日ですが、それより先に、大津市に軍事拠点をおく構想があったことがわかります。
 慶応4(1868)年4月11日に、軍から、地主である園城寺にたいして、兵屯所造営のために、1万坪を借り上げる意向が示されています。
 寺側は4月17日に請書を提出。その3日後の20日に、大村益次郎が10名ばかりを連れて、実地検分しています。
 いったんこの計画は頓挫し、管轄がかわりますが、明治6(1873)年4月に元の計画に戻り、12月にはさらに2万坪余りを加えて、陸軍省への引渡しが認められたのです。
 ですから、明治になったその年から、この地を墓地として活用することは可能だったと思われます。

 いずれにしても、旧大津陸軍墓地で一番古いお墓はどれかは、知りたいと思います。

●旧真田山陸軍墓地は明治3年が最古

 ちなみに、旧真田山陸軍墓地で一番古いお墓は
「下田織之助」という墓碑名のお墓。
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bacas400/sanaboti/

亡くなられた日付から、明治3年のものと思われます。

旧大津陸軍墓地ではどうでしょうか?

(上の写真は、「大津第九連隊の碑文」。明治七年の創設とある)

旧大津陸軍墓地で明治五年没の墓石を探す方法を考えました2007/10/02

 9月27日に申請した情報公開が認められれば、古い位置との対照表で旧大津陸軍墓地で最古のお墓を探すことは可能でしょう。

●自力で探してみる

 しかし、それを待たなくても、自力で探すことはできると思いました。
 これまでの手がかりと頭を使って、探すことにしました。

●ブロックの特徴から除外するものを決める

除外してよいブロックは、A、B、C、D、E、Gです。
AからDまでは、将校・准士官・下士官の墓地。
あったとしても、明治10年代以降のものです。
Gはロシア人捕虜の墓。

兵の墓は、E、F、K、Lの4つのブロック。
このうち、Eは、すべて日清戦争の戦没者・戦病没者の墓石。

古い位置から移設された237柱は、KとLにあります。
このなかに、地図によれば、
明治5年から始まる兵の墓があるのです。
そこに行く前に、Fブロックに注目しました。

●Fブロックの特徴

Fは、まだ、どういうブロックかわかりません。
そこは、私が陸軍墓地に来て最初に注目したところです。
なぜなら、数が少ないのに、ふぞろいな場所だったからです。
つまり、多様な墓碑があったからです。
階級名がなく、氏名だけの墓石が多くあります。
そういう墓石には、没年月日だけではなく、経歴などが刻まれていました。
まちがいなく、ここは日清以前の古い墓石があるのだと思いました。
階級名がないこと自体が階級重視の軍隊の体質が
墓石まで浸透していなかった年代の証だと考えました。

●日清戦争戦没者のブロックは画一的

日清戦争の墓碑は、もっとも数の多いEブロックに整然と
並んでいます。
しかし、きわめて画一的で、没個性的です。
形もそうですが、階級と氏名、没年月日と場所しか刻まれていません。
Fブロックを見たあとでは、それが際立ちます。

●KとLブロック

KブロックとLブロックは、いろんな種類の墓碑がならんでいます。
以前は上り坂の細長い道にそって、
不規則に建立されていた墓石を、
バイパス工事のために移転を余儀なくされたために、
新設し、そのときに、整然と並べ変えた場所です。

その並べ方に基準があれば、いいのですが。

形だけを見ても、日清戦争のEブロックのような画一的なものから、
名前が大書されたFブロックのようなものまであります。
資料でも、また自分の目で見ても、
明治から大正時代のものまであります。

●探し方を考えてみる

ひとつひとつ探す方法もありますが、それは謎解きとはいえません。
それはいずれするつもりですが。

①階級名のないもの
②形が他とはちがうもの
③各ブロックでお墓の後ろにあるもの
 (B、C、Dの経験から、後ろの列が一番古い)

この基準で探してみました。

*上の写真の手前がFブロック。その左手の奥がEブロック。
右手の奥に、Kブロック。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)