お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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コスモス2007/10/21

コスモス
白いコスモス。
空き地の土手にはみ出して咲いていました。

奉天会戦で戦病死した24歳上等兵の墓碑2007/10/21

奉天会戦で戦病死した24歳上等兵の墓碑
まだ二基、日露戦争で戦死された方の墓碑が
小関越付近の墓地にあります。
そのひとつがこれです。

墓碑銘が薄れて読みにくくなっています。

それでも、明治44年版の大津市志の名簿と対照することで、
どなたか特定することができました。

●陸軍歩兵上等兵 中崎佐次郎

市志の記述は次のとおりです。

大津市大工町二十番地
陸軍歩兵上等兵勲八等功七級 中崎佐次郎
明治十三年九月六日生
明治三十三年徴兵出身予備役として歩兵第九連隊に属し三十七八年戦役従軍各地戦闘。明治三十八年三月一日清国北台子付近の戦闘に於て右腰部貫通及左膝関節貫通銃創を受け、同月三日沈旦堡第四師団衛生隊包帯所に於て負傷に因り死亡。同日叙勲八等白色桐葉章及功七等金鶏勲章 従軍記章を賜ひ同三十九年五月靖国神社に合祀せらる。

24歳での戦死。

墓地に戦争の記憶を探して2007/10/21

墓地の高台から、戦死者の墓石を探します
墓地に好んで行かれる方はいないと思います。
身内の方や親しくされていた方の
お墓には行かれることはあるでしょう。
それ以外の用事で、墓地の中にはいるなど、
私はいままでありませんでした。

この夏、おそるおそる入っているうちに、
ぜひとも戦争の声にならない記憶(記録)を
見つけたいと思うようになったのです。

上の写真は、小関越にある墓地の山手半分を
見渡せる場所から撮りました。

この場所から、眺めて、戦争犠牲者の墓碑を
探すのです。
戦死者の墓碑は、特別の形をしています。
背が高くて、鋭くとがった四角錘がそれです。

左手に、青い青銅の仏像が見えます。
その下に、無縁となった墓碑が積まれています。
そこへ行ってみることにします。

無縁塚の正面に二基戦死者の墓碑があります2007/10/21

無縁塚に積まれた墓碑のなかに戦死者の墓碑が二つ
無縁塚の正面です。
お参りする台座があります。

一目見ただけで、
二基の戦死者の墓碑が
あるのがわかります。

二つとも最前列にありますが、
ひとつは黒く、もうひとつはひときわ高いものです。

奉天会戦で戦死した陸軍工兵上等兵羽田萬次郎(22歳)の墓碑2007/10/21

奉天会戦で戦死した22歳陸軍工兵上等兵の墓碑
すでに台座は失われ、墓石だけが
他の墓石と並んで積まれた状態になっています。
古ぼけた石の状態から、この墓碑が
日露戦争の犠牲者の墓碑だと思いました。
帰宅して、名簿を探すと、そこに掲載されていました。

この方は、大津営所の第九連隊に
属した兵ではありません。
工兵です。

●陸軍工兵上等兵

明治44年の大津市志はつぎのように書いています。

大津市下大門町三十八番地
陸軍工兵上等兵勲八等 羽田萬次郎
明治十五年十月八日生
明治三十五年徴兵出身現役として工兵第四大隊に属し、三十七八戦役従軍各地戦闘。明治三十八年三月七日清国小貴興堡戦闘に於て右大腿貫通銃創を受け戦死。同日叙勲八等白色桐葉章及従軍記章を授け賜ひ同三十九年五月靖国神社に合祀せらる。

●無縁塚の次は

無縁塚に移された戦死者の墓碑。
それはひとつにとどまりません。
やがて、ふえていくことはあっても、
減ることはない・・・捨てられないかぎり
と思います。
国家が企てた戦争によって若くして失われた命
それが、このような形になっているのです。

スズメ・・・です。2007/10/21

キレイに晴れていますが、風が強いです。
スズメを写しましたが、羽毛が風に乱されて
いるように見えます。

日曜日なのに滋賀県庁前に人だかり2007/10/21

県庁前で健康ウォークの出発式らしい
たまたま通りがかると、県庁前に人だかり。
好奇心旺盛なので、聞いてみることに。

会場整備っぽい人に聞きました。

これはなにの集まりですか?

健康ウォークです。

毎月?

いえ、年二回。

バトンガールのパーフォーマンス中なので、
あまり相手にされませんでした。
パフォーマンスに注目している人は少なく、
みなさん手持ち無沙汰。

見事なケイトウ、引き抜く野暮な人はいないでしょうか?2007/10/21

歩道でがんばれ!ケイトウ。
この花の名前は私でも知っています。
ケイトウ。
しかし、どういう字を書くのだろう?
調べると「鶏頭」。納得。

ショウリュウバッタ(精霊蝗虫)を、
恐竜バッタと勘違いしていたり、
つゆ草を、梅雨草と間違ってたり、はずかしい。

ケイトウも、実は、毛糸と関係あると思っていました。

ところで、これは歩道に生えています。
回りに雑草がないので、除草作業は終わっているはず。
このケイトウは、・・・除去されなかったんでしょうね。
雑草ではないですが、場所がここでは
危険がいっぱい。
ネットで調べると、ケイトウは移植を嫌うとか。
じゃあ、ずっとここにいて、子孫を増やすって
ことになりますね。

歩道の柱が立っているところだから、
柱を隠す役割になるかな。
柱があるから、穴があり、そこに生えるって
ことなんでしょうね。
来年は、別の柱のところにもケイトウが咲くのか
楽しみです。

名前はりっぱな雑草リスト2007/10/21

この雑草にも「狗尾草」というりっぱな名前がある
カミさんが写真をのぞいて、「雑草やん」と言った。
写真をけなされたのか、草をけなされたのか、
定かではない。
しかし、雑草とひとまとめにしないで、
ひとつひとつ見ていくと、とても味がある。
まずもって、名前が興味深い。
雑草といわれるものに、名前をつけた人に
愛情+ユーモアを感じる。
ネットに載っているのを、借りて
リストを作ってみた。
全クリしてみようかなぁ。
名前から、どんな草か、まださっぱりだけど。

アメリカ栴檀草(アメリカせんだんぐさ)
犬芥子 (いぬがらし)
犬鬼灯 (いぬほおずき)
猪の子槌(いのこづち)
大葈耳 (おおおなもみ)
大葉子 (おおばこ)
鬼田平子(おにたびらこ)
烏柄杓 (からすびしゃく)
寒菅 (かんすげ)
羊蹄 (ぎしぎし)
胡瓜草 (きゅうりぐさ)
金狗児 (きんえのころ)
小栴檀草(こせんだんぐさ)
酸葉 (すいば)
背高泡立草(せいたかあわだちそう)
種漬花 (たねつけばな)
痰切豆 (たんきりまめ)
父子草擬(ちちこぐさもどき)
吐切豆 (ときりまめ)
毒痛み (どくだみ)
薺 (なずな)
猫じゃらし(ねこじゃらし)
野芥子 (のげし)
掃溜菊 (はきだめぎく)
繁縷 (はこべ)
母子草 (ははこぐさ)
春紫苑 (はるじおん)
姫踊子草(ひめおどりこそう)
姫女苑 (ひめじょおん)
屁糞蔓 (へくそかずら)
蛇苺 (へびいちご)
箆大葉子(へらおおばこ)
仏の座 (ほとけのざ)
豆軍配薺(まめぐんばいなずな)
耳菜草 (みみなぐさ)
薮枯らし(やぶがらし)

東鶏冠山砲台2007/10/21

「於東鶏冠山戦死」が摩滅した記録から蘇えりました
東鶏冠山(ひがしけいかんざん)という名前を
今日はじめて、知りました。

それはこういう経過です。

●陸軍少尉富永東一の墓石

大津市の一号線沿いの山手に旧い墓地があります。
膳所烈士の墳墓所がある岡山墓地です。
そこで、二基の日露戦争の墓石を見つけました。
そのうちのひとつがこの方の墓石です。
階級は「陸軍歩兵少尉」

●明治44年版大津市志でさがす

将校クラスは、明治44年版の「大津市志」には、
本文中に、戦死したところと日が書いてあります。
そこで、「陸軍少尉富永東一」という名前をたよりに、
探してみました。
私の探し方が下手だったのかも知れませんが、
見つかりません。

●墓碑銘からさがす

市志以外では、墓碑銘を直接読む方法があります。
しかし、いつ、どこでお亡くなりになったのか、
が刻まれた右側面の文字が摩滅していました。
完全に消えているわけではありません。
光の具合もありましたが、判読が困難でした。
いつものように撮影して、家でじっくり見ることにしました。

そこで、まず「明治三十七年八月二十一日」という
戦死された日付が読み取れたのです。
戦死場所が刻まれた箇所で、まだ鮮明に
読めたのは「於東?山」の文字。

日付から旅順港攻撃だと思いました。

●「面白いほどよくわかる日露戦争」

私にはこの本の題名が気に入りません。
でも、図版が豊富なので、ハンドブックにはいいかと
思って、買っておいたのです。
それで、「東?山」を探しました。
そして、見つけたのです。
東冠山砲台を。
いったん、「?」の箇所が「冠」だと推察できると、
そう読めてくるから不思議です。

クリックで拡大表示をして、じっと見つめれば
見えてきます。

●東鶏冠山砲台

それは、旅順港要塞のなかでも、もっとも大規模で
もっとも頑丈につくられた数個の砲台のひとつでした。
大津市にある墓石には、「盤龍山」という文字も
刻まれていますが、それも、そういう砲台のひとつ
でした。
上に挙げた本には、東冠山砲台の写真がずばり
ありました。

こういうリアルな姿を見ると、近代的な要塞の
なんたるかを知らずに、突進をくりかえした戦争の
姿と若者たちの戦死という事実が胸に迫ってきます。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)