お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
西南戦争の最中の附属埋葬地建設ゴーサイン? ― 2007/11/14
●西南戦争への動員
明治10(1877)年2月14日に鹿児島士族が乱を起こし、同19日に鹿児島賊徒征伐の詔が明治天皇から下ります。大津営所の第九連隊は、第二次召集されて戦地に向かいます。第一連隊と第二連隊が博多に到着したのは、3月1日でした。
第九連隊・第一大隊 →第二旅団
第九連隊・第二大隊 →第一旅団
第九連隊・第三大隊・第一中隊→第四旅団
第九連隊・第三大隊・第二中隊→大津営所で留守番
第九連隊・第三大隊・第三中隊→第三旅団
第九連隊・第三大隊・第四中隊→第三旅団
動員された兵数でいくと、
第一大隊が686人
第二大隊が639人
第三大隊が625人
西南戦争そのものは、9月24日に終わります。
●西南戦争での第九連隊の戦死者数
政府軍の戦死者は、6,843人。このうち、第九連隊は、441人です。このうち、滋賀県出身は、220人。
しかし、戦死をまぬがれ、凱旋して戻ってきた兵士は、全員無事で大津営所に戻ったわけではありません。コレラなどの病気による死が待っていたのです。
もとの営所へ帰着することなく、大阪陸軍臨時病院で亡くなった兵士の墓碑が、旧真田山陸軍墓地に923柱あります。
このうち、第九連隊の兵士の墓碑は、以下のとおりです。
第一大隊13柱
第二大隊15柱
第三大隊10柱。
以上合計38柱。
●凱旋
凱旋は、明治10(1877)年10月1日だったそうです。
●内務省のゴーサイン
どういう手続きで建設ゴーサインがでるのか、わかりません。最終的には、内務省が決定することだと思います。
この点でいけば、、「内務より大津営所埋葬地に付回答」(明治10年6月18日)や同年7月の文書がそれに相当するのではないでしょうか?
となると、明治8年12月あたりから建設準備がはじまりますから、ずいぶん長引いている気がします。いよいよ買収の段階に入るのが、10年3月22日付けの滋賀県の文書。そして、「大津営所附属埋葬地」をめぐるもっとも頻繁なやりとりは、10年5月のように見えます。これは、まさに西南戦争の最中ということになりますね。
●西南戦争の戦死者の埋葬について
明治8年以降の「大津営所附埋葬所」が念頭においていたのは、訓練中に、大津営所で死亡(病死)した兵・下士官の埋葬地だと思います。西南戦争は、上記のように、第九連隊だけで441人の戦死者を出しました。さらに、大阪陸軍臨時病院でコレラで亡くなった兵もいます。それらの兵のなきがらを、大津まで困難です。こういう事情は、第九連隊だけではないのです。そこで、問い合わせがあり、指針がでます。それが、「内務省へ戦死者埋葬地所買入協議」(明治10年11月9日) なんでしょうね。
明治10(1877)年2月14日に鹿児島士族が乱を起こし、同19日に鹿児島賊徒征伐の詔が明治天皇から下ります。大津営所の第九連隊は、第二次召集されて戦地に向かいます。第一連隊と第二連隊が博多に到着したのは、3月1日でした。
第九連隊・第一大隊 →第二旅団
第九連隊・第二大隊 →第一旅団
第九連隊・第三大隊・第一中隊→第四旅団
第九連隊・第三大隊・第二中隊→大津営所で留守番
第九連隊・第三大隊・第三中隊→第三旅団
第九連隊・第三大隊・第四中隊→第三旅団
動員された兵数でいくと、
第一大隊が686人
第二大隊が639人
第三大隊が625人
西南戦争そのものは、9月24日に終わります。
●西南戦争での第九連隊の戦死者数
政府軍の戦死者は、6,843人。このうち、第九連隊は、441人です。このうち、滋賀県出身は、220人。
しかし、戦死をまぬがれ、凱旋して戻ってきた兵士は、全員無事で大津営所に戻ったわけではありません。コレラなどの病気による死が待っていたのです。
もとの営所へ帰着することなく、大阪陸軍臨時病院で亡くなった兵士の墓碑が、旧真田山陸軍墓地に923柱あります。
このうち、第九連隊の兵士の墓碑は、以下のとおりです。
第一大隊13柱
第二大隊15柱
第三大隊10柱。
以上合計38柱。
●凱旋
凱旋は、明治10(1877)年10月1日だったそうです。
●内務省のゴーサイン
どういう手続きで建設ゴーサインがでるのか、わかりません。最終的には、内務省が決定することだと思います。
この点でいけば、、「内務より大津営所埋葬地に付回答」(明治10年6月18日)や同年7月の文書がそれに相当するのではないでしょうか?
となると、明治8年12月あたりから建設準備がはじまりますから、ずいぶん長引いている気がします。いよいよ買収の段階に入るのが、10年3月22日付けの滋賀県の文書。そして、「大津営所附属埋葬地」をめぐるもっとも頻繁なやりとりは、10年5月のように見えます。これは、まさに西南戦争の最中ということになりますね。
●西南戦争の戦死者の埋葬について
明治8年以降の「大津営所附埋葬所」が念頭においていたのは、訓練中に、大津営所で死亡(病死)した兵・下士官の埋葬地だと思います。西南戦争は、上記のように、第九連隊だけで441人の戦死者を出しました。さらに、大阪陸軍臨時病院でコレラで亡くなった兵もいます。それらの兵のなきがらを、大津まで困難です。こういう事情は、第九連隊だけではないのです。そこで、問い合わせがあり、指針がでます。それが、「内務省へ戦死者埋葬地所買入協議」(明治10年11月9日) なんでしょうね。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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