お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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《日本型コンパクト・シティの幻想》ということ2007/12/07

●岡田知弘氏の詳論を読みました。

《岡田教授の地域づくり実践講座》のなかの
《日本型コンパクト・シティの幻想》という一文です。
「イオンモール出店反対とまちづくりを考える会」の
Hさんからファックスを送っていただいて、
いま、読み終わったところです。
せっかく送っていただいたので、
Hさんへの返事のつもりで、感想を書いてみたいと思います。

●「コンパクト・シティ」という概念

この言葉は知っています。
「まちづくりを考える会」に参加するなかで、
読み漁った本にもよく出てくるからです。
岡田教授は、それが生まれた欧米と、
政府サイドがキイ概念として使っている日本では、
意味が同じではないと述べています。
それゆえに、氏は「日本型」という言葉を頭につけているのです。

●日本型はどういうものか

岡田教授はそれを次のようにまとめています。

《その意味するところは「人口減少」時代において郊外への社会資本の投資や、人口の少ない山間部の除雪費用は財政負担を増すだけであり、できるだけ郊外や農山村居住者を都心に移して、そこに住宅、医療、福祉、商業、交通機能をコンパクトにまとめることが必要だということのようです。》

●その問題点

ここで「平成の大合併」とのかかわりが生まれます。
私には「上からの押し付け合併」としか思えないこの合併によって、
きわめて広大な地域をかかえる自治体が登場しました。
そういう反コンパクト・シティ(エクスパンション・シティ=拡大都市)のもとで、
「コンパクトシティ」が唱えられる意味はどこにあるのかと問いかけ、
つぎのように答えます。

《結論的にいえば、中心部に空家・空き店舗が目立つ地方中心都市において、行政投資の集中と規制緩和による大手デベロッパーやゼネコン中心の大規模開発をおこなうということでしょう。》

青森市の例が挙げられていますが、
高齢者向けマンションを建設しても、
高価すぎて山村の高齢者が入居することができません。
無理やりコンパクトにすれば、
農林業の担い手が枯渇し、
国土の荒廃がすすむだけで都市そのものの維持機能が危機におちいるのです。

●住民参加で本来の意味でのコンパクトシティづくり

岡田教授の結論は、つぎの2点だと思います。

①《都市でも農村でも、人々が自然と共生し安心して健康な生活ができるような生活ができるような本来の意味でのコンパクトな生活圏を多数形成し、それらをネットワークするまちづくりことが、必要》

②《その主役は、ゼネコンではなく、あくまでの主権者としての人間》

というものです。
最後に、

《住民の主権が発揮できるように自治の単位は、お互いに顔がわかる生活領域が最も合理的な範囲》

と述べています。

●私の感想

住民の実情にあわない大型公共事業が進めるために、
いろんな概念が生み出されてきました。
「コンパクト・シティ」の発想は、
それとは逆の方向のもののはずですが、
それすら、大型開発の推進に使われるということに、
驚くほかはありません。
もともと旧いまちは、コンパクトにできているのです。
500メートルの範囲に、お店があり、お風呂屋があり、
仕事場があり、それで生活がなりたっていたのです。
新しく団地として住宅建設された土地でも、
当初はお店や学校があり、便利にできていたはずです。
しかし、それらがいま失われようとしているのです。
岡田教授のいうように、住民自身の手によって、
本当の意味でのコンパクト・シティをつくることは
切実になっていると思います。

コメント

_ 伊賀三江 ― 2008年03月10日 13時42分46秒

ふと目に留まってここへ来てしまいました。BINさん(でいいでしょうか)のおっしゃるコンパクトシティ論は、伊賀には頷けません。

コンパクトシティ論は、基本的には効率論をベースにおいています。「広い地域のあちこちに人が散在する山間地では生活基盤にかかる費用が勿体無いではないか。山間地に広がる農山間地住民を、中規模都市に一つにまとめて効率よくインフラを整備しよう……」ではないでしょうか。

でも、それをやっちゃあいけないですよ。日本から「田舎」が消え失せてしまいます。「田舎」があればこそ、都市の生活も成り立っています。「田舎」が消滅したら、清流もなくなり、食料も自給できず(今も出来ていないけど)、森林が荒れてしまえば京都議定書など夢のまた夢。第一、東京人はほとんどすべて基本的には田舎者でしょう。高度成長期に泣く泣く田舎から出てきて、安いアパートに住み着いた田舎っぺでしょう。魂の原点は「田舎」にこそあるのですよ。

「田舎」は日本の文化の故郷でもあります。その意味で、伊賀は平成の大合併には大反対! 高度経済成長が終わった頃からの一連の改革、構造改革、三位一体の改革、コンパクトシティの先にある平成の大合併政策、etc.……は、歴史に残る悪法だと思いますよ。

_ BIN★→伊賀三江さん ― 2008年03月10日 17時43分24秒

コメントありがとうございます。
書いていただいていることに、共感いたします。
私も、平成の大合併に反対です。
伊賀三江さんが特徴づけておられる「コンパクトシティ」論についても、(日本の場合はという限定つきで)そのとおりだと思っています。
これだけ書けば十分なのかも知れませんが、自分のいたらなさを感じたので、もう少し書いてみます。読んでいただければ幸いです。
「コンパクト・シティ」という言葉の前に、”日本型”という言葉がついている意味は、本来の用法ではないという意味だと思います。私は、大津市という「まち」に住んでいます。合併によって大きな規模になりましたが、併合される周辺部ではなく、明治維新以来、都市の核となっているところに住んでいるのです。商店街は昭和30年代にピークを迎える繁盛振り。そのころに、お店と住宅が分離され、郊外の大きな家を店主が購入して、お店だけがあるというような状態になったのだと思います。住宅街としての中心部は空洞化していきます。残っているのは、郊外に家を買う余裕のない高齢者。住み手や経営者のいない空き地がふえ、そこにマンションが立ち並ぶまちになってきました。マンションに入ってこられる人は、車をもっている人。その人たちがきたとしても、中央部の商店街がうるおうわけではありません。郊外に進出する大型店の顧客がふえただけになるのです。商店がつぶれる、車をもっている人ばかりなのでバス路線がつぶれる。そういう流れから切り離された旧住民にとっては、安心して住み続けられるまちではなくなってきたのです。では、車をもてばいいのか、そうじゃないだろう、歩いて暮らせるコンパクトなまちがほしい・・・こういうのが、コンパクト・シティという概念のもともとの意味だと私は思っています。
 いまの政府のすすめる「コンパクト・シティ」は、無理やり合併させられた周辺部の切捨てになることは、承知しています。まぎらわしい言い方で申し訳ありませんが、私のいいたかったことは以上のことなのです。
 またコメントいただけることを切望します。

_ トミー ― 2008年04月20日 14時51分03秒

私もコンパクトシティーには反対です。鹿島市の大野地区住宅建設禁止(市街化調整区域)化にみられるように、行政はコスト削減のために市街地に人を集中させようとしているだけです。農村の活性化こそ必要なのに、市街地に集中させてどうするんですか。むしろ、中心市街地が嫌われたのは過密だから。家が小さく庭もないから。無理にそういうところにしか住めなくするのではなくて、相続税・固定資産税を下げて、市街地でもゆとりある住宅を建てられるようにすれば、自然とある程度人は集まってきますよ。政府の介入(規制、税)がそもそもの問題です。

_ BIN★→トミーさん ― 2008年04月20日 16時54分20秒

コメントありがとうございます。
コスト削減から出発せずに、住みやすさとか活性化を機軸にして政策を出すべきですね。
コスト削減といいながら、実は、大型開発などいらないところの予算は温存したり、さらに増やしたりしているのが現実ではないでしょうか。バブルの無駄遣いのつけを、市民の暮らしであがなうのは筋違いだと思います。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)