お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
二つの『春の祭典』(ストラヴィンスキー)を見る ― 2008/07/14
『春の祭典』(ストラヴィンスキー作曲)をネット動画で見ました。
演奏会ではなく、バレーの舞台のことです。
以前に、スカパー(「クラシカ」)で、ニジンスキー特集があり、「春の祭典」の”生贄の踊り”の部分(ソロ)だけを見ました。
今回は、全体を見ることができました。オリジナルのニジンスキー振付を復刻したもので。(動画は3本に分割)。
顔を横にしたスタイルは、CSで見たものと同じでした。
このバレーが想定する舞台は、キリスト教化以前の異教的農村世界。一方、音楽が刻むリズムは鋭く、原色が飛び散る。しかし、舞台装置も衣装も地味でした。農村風景の平凡な書割。衣装は古代ロシア(スラブ)を意識したもの。衣装はらしくて好きですが。
チャイコフスキーのバレーや同じストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」の舞台の華麗さに比べると、どこか野暮ったい。20世紀初頭のパリならば、かえって新鮮だったかも知れませんが・・・。
ニジンスキーの振付は、独特で、見慣れないポーズばかり。バレー団としては大変なことだったでしょう。もう一回見ようと繰り返すうちに、はまってきます。
もう一つ。バウシュのヴッパタール舞踏団(Pina Bausch Tanztheater Wuppertal)。
これは、黒一色の背景。衣装も同様に布をまいただけ。時代も場所も抽象化された舞台です。
犠牲となる娘は、ニジンスキーの場合は、娘たちの集団舞踏のなかで、落ちこぼれたものがなるという仕組みがわかりやすい。そういう形で、生贄となった娘は、しばらくの間茫然自失。周囲の集団の舞踏と鋭い対比となります。この点はパウシュも同じ。
生贄となる娘は茫然自失のなか、突然、狂ったように踊り始め、そして死。ニジンスキーの場合は、集団なしには生きられない古代の女性の狂乱であったのに対して、パウシュの振付は近代的な自我をもつ女性の狂乱となっているようです。恋人の男性(?)があり、その男性の苦悩もあります。
演奏会ではなく、バレーの舞台のことです。
以前に、スカパー(「クラシカ」)で、ニジンスキー特集があり、「春の祭典」の”生贄の踊り”の部分(ソロ)だけを見ました。
今回は、全体を見ることができました。オリジナルのニジンスキー振付を復刻したもので。(動画は3本に分割)。
顔を横にしたスタイルは、CSで見たものと同じでした。
このバレーが想定する舞台は、キリスト教化以前の異教的農村世界。一方、音楽が刻むリズムは鋭く、原色が飛び散る。しかし、舞台装置も衣装も地味でした。農村風景の平凡な書割。衣装は古代ロシア(スラブ)を意識したもの。衣装はらしくて好きですが。
チャイコフスキーのバレーや同じストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」の舞台の華麗さに比べると、どこか野暮ったい。20世紀初頭のパリならば、かえって新鮮だったかも知れませんが・・・。
ニジンスキーの振付は、独特で、見慣れないポーズばかり。バレー団としては大変なことだったでしょう。もう一回見ようと繰り返すうちに、はまってきます。
もう一つ。バウシュのヴッパタール舞踏団(Pina Bausch Tanztheater Wuppertal)。
これは、黒一色の背景。衣装も同様に布をまいただけ。時代も場所も抽象化された舞台です。
犠牲となる娘は、ニジンスキーの場合は、娘たちの集団舞踏のなかで、落ちこぼれたものがなるという仕組みがわかりやすい。そういう形で、生贄となった娘は、しばらくの間茫然自失。周囲の集団の舞踏と鋭い対比となります。この点はパウシュも同じ。
生贄となる娘は茫然自失のなか、突然、狂ったように踊り始め、そして死。ニジンスキーの場合は、集団なしには生きられない古代の女性の狂乱であったのに対して、パウシュの振付は近代的な自我をもつ女性の狂乱となっているようです。恋人の男性(?)があり、その男性の苦悩もあります。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント