お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
高島市新旭町深溝の洪水の碑と藤本太郎兵衛 ― 2008/07/27
高島市の旧新旭町を走っていたときのこと。
石碑をみつけて、車を止めました。
「なんだろう」と見ていると、
明治29(1896)年の洪水の
最高水位をしめす碑でした。
信じられない思いでその高さを見つめました。
新しい石碑ですね。
ところで、その横に看板あり。
石碑と関係があるのだろうか。
その場に説明文がなく、
帰宅して調べました。
洪水を防ぐための瀬田川の浚渫の話でした。
それを行った人物がこの地の出身ということです。
なぜわざわざはるか下流まで・・・と
思ったとき、理由がやっとわかりました。
琵琶湖の注ぐ川は100を超えますが、
琵琶湖から流れ出る川はただ一つです。
それが瀬田川。
瀬田川の流出能力が低ければ、
大水のとき琵琶湖周辺に水があふれるという
ことなんですね。
だから、その被害をこうむる土地の人が
わざわざはるか下流の瀬田川の浚渫に
力を発揮した・・・そういうことだと理解しました。
琵琶湖河川事務所のサイトから
一部引用させてもらいます。
石碑をみつけて、車を止めました。
「なんだろう」と見ていると、
明治29(1896)年の洪水の
最高水位をしめす碑でした。
信じられない思いでその高さを見つめました。
新しい石碑ですね。
ところで、その横に看板あり。
石碑と関係があるのだろうか。
その場に説明文がなく、
帰宅して調べました。
洪水を防ぐための瀬田川の浚渫の話でした。
それを行った人物がこの地の出身ということです。
なぜわざわざはるか下流まで・・・と
思ったとき、理由がやっとわかりました。
琵琶湖の注ぐ川は100を超えますが、
琵琶湖から流れ出る川はただ一つです。
それが瀬田川。
瀬田川の流出能力が低ければ、
大水のとき琵琶湖周辺に水があふれるという
ことなんですね。
だから、その被害をこうむる土地の人が
わざわざはるか下流の瀬田川の浚渫に
力を発揮した・・・そういうことだと理解しました。
琵琶湖河川事務所のサイトから
一部引用させてもらいます。
瀬田川の川浚えは、奈良時代の僧である行基が「琵琶湖周辺の洪水による浸水被害を防ぐには、瀬田川を開削し、早く多く下流に流すしかない。」と言ったことが始まりですが、その後なかなか進みませんでした。
江戸時代に入った元禄12年(1699年)、幕府の命を受け、指揮をとった河村瑞賢によって、瀬田橋から旧洗堰の間の東岸を切り取って浚え、黒津八島の洲を取り崩して2つの島とし、水の流れを円滑にするという大工事がなされました。
その後高嶋郡深溝村の庄屋、藤本太郎兵衛の親子三代にわたる努力によって天保2年(1831年)自普請による改修が実現しました。全長14kmにわたる、川浚え、瀬違えの掘割など本格的な工事で、沿岸諸村から出役人夫31万人、銀347貫を費やして5ヶ月で竣工しました。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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