お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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水谷修 『夜回り先生』2009/07/30

水谷修 『夜回り先生』
水谷修 『夜回り先生』
名前も、本も、承知していました。
確か、TVでも特集がありましたね。

でも、正面から見つめたのも、
著作を読むのも、はじめてです。

この本は、パラレルに書かれています。

ひとつは、子どもたちとの出会いと
苦闘の物語。

もうひとつは、水谷修その人が主人公。
救いを求め、もがく一人の子どもの
物語でした。

そして、それらは一つに
結び合い、つながっていくのです。

読者の「なぜ?」に答えるように。

米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』2009/07/30

米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』
米原万里の
『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』

夜、中古書店に行きました。、
そこで、この本が、きれいなまま
105円で売られていました。

私は、この本を文庫本で
持っていますし、読んでもいます。

「カミさんなら、なんていうだろう」
と思いながら、買ってきました。

そして、あらためて読んでいます。

本というものが好きなんでしょね。

文字も大きくなり、読みやすい
文庫本も増えています。
なのに、好きな本がこうして
単行本で売られていると、
手を出してしまうのです。

村上春樹の本もそう・・・。

単行本の装丁に、
文章にはならないけれど、
著者が望んだなにかが
あるような気がして。

変ですよね、こういう感覚。

ネコ・メール2009/07/30

モー&ムーのネコメール
夜遅くまで事務所で仕事をする。
そこへ、カミさんからメールが届く。
重大事件?

開くと、
本文なしでネコの写真・・・??

まぁ、かわいい・・・けど、
仕事の緊張が消えるじゃないか!

NPO法人「大津夜まわりの会」の方から2009/07/30

NPO法人「大津夜まわりの会」からチラシをもらいました
ついさっきのことです。
事務所に顔見知りの方が訪ねてきました。
そして、このチラシを渡してくれました。
「こういう取り組みがあるのを知ってもらって、
力を貸していただければ幸いです」と。

日付を見ると、今日のこと。

オタマは空気をもとめて水面へ2009/07/30

オタマが水面に輪をつくっていました
オタマ=オタマジャクシのことです。

オタマって肺呼吸でしたっけ?

池の水面を見ていたら、方々で
小さな輪がひろがっていきます。
雨?
でもないです。

それで、じっと見つめていたら、
そこに生き物の姿がありました。
土色の水底から、透き通った水
のなかを、しっぽを振って浮上する姿は、
まさしく、オタマさん。



なんか、けなげです。
水中にはたくさんいる様子。
雨でもないのに、輪は
一つまた一つと生まれ、
池に広がっていました。

『大正四年乃至九年戦役戦病死者之碑』@旧大津陸軍墓地2009/07/30

大正四年乃至九年戦役戦病死者之碑
旧大津陸軍墓地には、
戦前に建設されたものとしては、
五つの合葬墓碑があります。
形状は、ほぼおなじ。

そのうち4柱は、日露戦争のものです。

「明治三十七・八年戦役将校同相當官戦病死者合葬碑」
「明治三十七・八年戦役准士官戦病死者合葬碑」
「明治三十七・八年戦役下士官戦病死者合葬碑」」
「明治三十七・八年戦役兵卒戦病死者合葬碑」

死後も階級区分を貫く姿勢が際だっています。
そして、合葬碑の大きさも位置も変えられています。

これらについては、これ以上の疑問はありません。

5つ目の合葬碑は、写真のものです。
「大正四年乃至九年戦役戦病死者之碑」
西暦でいくと、1915~1920年の戦争。
この年代から、旧日本軍も参戦した
第一次大戦とシベリア出兵の
犠牲者の墓碑と思いました。

あるとき、ネットを検索していて、
「大正三年乃至九年戦役從軍記章 」
というのを見つけました。
それで、疑問がわいたのです。
なぜ、大正三(1914)年が
含まれないのだろう?

この従軍記章は、「大正三年乃至四年戦役」
つまり、対独戦争のものだったのです。
しかし、戦争の長期化で名称も変わっていきます。
大正9(1920)年以降は、
「大正三年乃至九年戦役従軍記章」が
授与されるようになったそうです。

ここに眠る将兵たち(第九聯隊)が
現実に上記の戦闘に参加したのは、
大正四(1915)年以降ということを
表しているのでしょうか。

ちなみに、静岡陸軍墓地には、
「大正三・四年戦役戦病死下士兵卒碑」
というのがあるそうです。

全国的には、第一次世界大戦とシベリア出兵の
犠牲者の碑は少ないのでしょうか?
ちなみに写真の碑は、
「大正十一年六月 建之」

《村上春樹『1Q84』をどう読むか》(河出書房新社)2009/07/30

《村上春樹『1Q84』をどう読むか》(河出書房新社)
村上春樹の『1Q84』は、
発行部数100万部を突破。
さらに更新を続けています。

しかも、本の内容を知らない人が
これだけ多数本屋に殺到したのです。
私も、その一人。

ここまでくれば、社会現象・・・なんでしょうね。

小説だけではありません。
はやくも、35人の論客がいろんな角度から
アプローチする論集が新刊の書棚に登場。

無視できず、ページをくりました。

もともと、私はブームが嫌いで、
また、熱っぽくほめあげているものも、
好きではありません。

そういう人がいないわけではありません。
しかし、私が思いもしないような角度から論じている人。
たとえば、宗教と天皇制という領域から、
この小説を位置づけているモノなど、
とても刺激的に思えました。

それで、購入。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)