お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「あなたのまちは、どんなまち?」に答えのあるまちづくりが必要だと思います ― 2009/09/27
私は大津市に住んでいます。高島郡の5町1村の合併が強行されるのも見てきました。志賀町の大津市への合併もそうです。
平成の大合併のあと、夢を抱いたり、賛成した人も「こんなはずではなかった」とか、「合併してなんにもいいことはない」という感想が出されるのが普通です。合併前の町村が、まちの伝統と自然環境を生かして、独自の施策を進めていたのに、それが中断されて無残な姿をさらす場合が目に付きます。
目に見える残骸は、旧庁舎です。その他、目に見えませんが、高齢者に対する厚い施策とか、過疎地対策とかは、真っ先にきり縮められていきました。
9月から10月は、甲賀市に毎日通うことになりしたが、ここでもそうですね。甲賀町の場合で目に付くのは、『花風香(かふか)の湯』がある『鹿深(かふか)夢の森』。
中心市街地から離れているので、交通の便などに問題があるのではないかと思いましたが、ここに『花風香の湯』、町役場、図書館などが集約されて、まちの中核をつくる予定だったそうです。それらを束ねる中心概念が「創健」(?!)でしょうか。要するに、健康づくりをまちづくりの中心テーマにしようということですね。
合併によって、町役場の建設は中止、『花風香の湯』は積み立てた改修費も合併の際に消えて、閉鎖に追い込まれました。町役場は、「創健館」と名前を変えて建物は規模を縮小して完成したみたいですが、いかにも中途半端で、まちの中核とはなりえません。
町役場が建設されず、お風呂も閉業。残るは図書館。この広大な敷地が、うらぶれて見えてきます。敷地内で雑草が刈られないで放置されているのは、先を暗示する気がします。
旧町時代の構想がそのまま成功したかどうかは、わかりません。しかし、何億か知りませんが、税金をつぎ込んだのですから、朽ちるに任せることなく、生かすことを考えるべきですね。
平成の大合併のあと、夢を抱いたり、賛成した人も「こんなはずではなかった」とか、「合併してなんにもいいことはない」という感想が出されるのが普通です。合併前の町村が、まちの伝統と自然環境を生かして、独自の施策を進めていたのに、それが中断されて無残な姿をさらす場合が目に付きます。
目に見える残骸は、旧庁舎です。その他、目に見えませんが、高齢者に対する厚い施策とか、過疎地対策とかは、真っ先にきり縮められていきました。
9月から10月は、甲賀市に毎日通うことになりしたが、ここでもそうですね。甲賀町の場合で目に付くのは、『花風香(かふか)の湯』がある『鹿深(かふか)夢の森』。
中心市街地から離れているので、交通の便などに問題があるのではないかと思いましたが、ここに『花風香の湯』、町役場、図書館などが集約されて、まちの中核をつくる予定だったそうです。それらを束ねる中心概念が「創健」(?!)でしょうか。要するに、健康づくりをまちづくりの中心テーマにしようということですね。
合併によって、町役場の建設は中止、『花風香の湯』は積み立てた改修費も合併の際に消えて、閉鎖に追い込まれました。町役場は、「創健館」と名前を変えて建物は規模を縮小して完成したみたいですが、いかにも中途半端で、まちの中核とはなりえません。
町役場が建設されず、お風呂も閉業。残るは図書館。この広大な敷地が、うらぶれて見えてきます。敷地内で雑草が刈られないで放置されているのは、先を暗示する気がします。
旧町時代の構想がそのまま成功したかどうかは、わかりません。しかし、何億か知りませんが、税金をつぎ込んだのですから、朽ちるに任せることなく、生かすことを考えるべきですね。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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