お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
大津市歴史博物館にH氏を訪問したあとで ― 2007/09/06
前日に、中島峰夫氏から紹介されたH氏を、歴史博物館に訪問しました。
フロントで訪問趣旨を述べ、フロアーの長いすで待ちました。
短い時間でしたが、軍都問題(とくに陸軍墓地関係)と大津事件の資料(ロシア側の)について、自分なりにできることの見当をつけることもできました。
10月6日から始まる展示が終わるまで時間がとれないということでしたので、観たかった資料の閲覧は後日となりました。
陸軍墓地関係の研究をはじめとして、大津市として遣り残している分野はかなりありそうに思えました。専門家でなくても、なんらかの貢献ができたらと私は思い始めています。
●大津市に生まれて
そもそも、米軍が進駐した土地の近くに生まれ育ったこと、近所に米軍兵士との混血児が暮らしていたこと、米軍基地が撤退したあとでしたが米兵とその家でばったり衝撃的な出会いをしたことは、私の原体験。
●ロシア語を学んだものとして
さらに、大阪外大でロシア語を学んでいて、それをいまの生活のなかではなかなか生かせないという立場にあること、近くにロシア皇太子遭難の地(大津事件)がありながら、それが事実上うもれたままになっていることなどは、私になにかをせよといっているようにも思えます。
●現役時代はつづくけれど
しかし、まだまだ私の現役時代はつづきます。
それも相当バイタリティがいるときかも知れません。
仕事に力を傾けるのは当然のこと!!
プライベートな時間に、軍都問題だけではなく、琵琶湖の水質問題でも、岡本巌先生がお元気なうちに、もう一仕事お手伝いしたいとも思うのです。
(家族や子どもたちのことを忘れているわけではありません!
念のため)
●自分なりのプログラム
9月から10月にかけて、どうするかなぁとフロアで考えていました。
つぎの三つはやってみようと決めました。
①中島峰夫氏の業績の上に、「軍都大津」問題でなにができるかを考えること
②当面、陸軍墓地の調査をすること。
③大津事件のロシア語関係資料がどれだけ歴史博物館にあるかを見ること。少ないということだけれど、まずは実物を見たい。
●さて、今日はこれからどうするか?
資料を見る時間がないということですので、雨が心配でしたが、陸軍墓地にふたたび出かけることにしました。
今度は、車で行くことにしました。
前回は、場所さがしもあったので、バイクで向かいました。
ですから、車で行くのははじめてのことです。
それが終わったら、家のお掃除ですね。
そうそう、アヤハディオで書棚を買ってくるつもりです。
・・・カミさんが帰るまでに片付けないと。
明日は、「イオンモールとまちづくりを考える会」のために、チラシをつくる予定もあるので、準備もしておきたい・・・。
フロントで訪問趣旨を述べ、フロアーの長いすで待ちました。
短い時間でしたが、軍都問題(とくに陸軍墓地関係)と大津事件の資料(ロシア側の)について、自分なりにできることの見当をつけることもできました。
10月6日から始まる展示が終わるまで時間がとれないということでしたので、観たかった資料の閲覧は後日となりました。
陸軍墓地関係の研究をはじめとして、大津市として遣り残している分野はかなりありそうに思えました。専門家でなくても、なんらかの貢献ができたらと私は思い始めています。
●大津市に生まれて
そもそも、米軍が進駐した土地の近くに生まれ育ったこと、近所に米軍兵士との混血児が暮らしていたこと、米軍基地が撤退したあとでしたが米兵とその家でばったり衝撃的な出会いをしたことは、私の原体験。
●ロシア語を学んだものとして
さらに、大阪外大でロシア語を学んでいて、それをいまの生活のなかではなかなか生かせないという立場にあること、近くにロシア皇太子遭難の地(大津事件)がありながら、それが事実上うもれたままになっていることなどは、私になにかをせよといっているようにも思えます。
●現役時代はつづくけれど
しかし、まだまだ私の現役時代はつづきます。
それも相当バイタリティがいるときかも知れません。
仕事に力を傾けるのは当然のこと!!
プライベートな時間に、軍都問題だけではなく、琵琶湖の水質問題でも、岡本巌先生がお元気なうちに、もう一仕事お手伝いしたいとも思うのです。
(家族や子どもたちのことを忘れているわけではありません!
念のため)
●自分なりのプログラム
9月から10月にかけて、どうするかなぁとフロアで考えていました。
つぎの三つはやってみようと決めました。
①中島峰夫氏の業績の上に、「軍都大津」問題でなにができるかを考えること
②当面、陸軍墓地の調査をすること。
③大津事件のロシア語関係資料がどれだけ歴史博物館にあるかを見ること。少ないということだけれど、まずは実物を見たい。
●さて、今日はこれからどうするか?
資料を見る時間がないということですので、雨が心配でしたが、陸軍墓地にふたたび出かけることにしました。
今度は、車で行くことにしました。
前回は、場所さがしもあったので、バイクで向かいました。
ですから、車で行くのははじめてのことです。
それが終わったら、家のお掃除ですね。
そうそう、アヤハディオで書棚を買ってくるつもりです。
・・・カミさんが帰るまでに片付けないと。
明日は、「イオンモールとまちづくりを考える会」のために、チラシをつくる予定もあるので、準備もしておきたい・・・。
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/06/1775681/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。