お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
ボランティア・カフェにて 高齢者さんたちといくさ話 ― 2009/07/04
事務所の近くに、ボランティアさんたちが
交代でやっているカフェがあります。なんでも一杯100円。
会議の合間の10分間に、飛び込みで
アイス・コーヒーを頼みました・・・猫舌なので。
「あ、忙しいんですね、はいはい」と
出てきたのは、ホットコーヒー。
仕方なく、腰を下ろして、飲むことにしました。
そこには、高齢者が3人ほど、談笑中。
私が入るなり、「女の人が来たかと思った」と
高齢者の女性が一言叫びました。
ボランティアさんと私が固まりそうになります。
どこから見ても、間違う余地がないのに・・・。
しかし、高齢者さんたちは、おかまいなしで
別の話題へ戻っていきます。
・・・どうも戦争にかかわる思い出話の様子。
男性の高齢者は、
「ウチには、中国の写真がいっぱい貼ったアルバムが
あったけど、燃やしてしまった。中国でひどいことをしたので、
家にあったら、まずいからといって。終戦後に・・・・。」
白髪の女性の高齢者は、
「ウチの人は、ぎりぎり助かった。頭がよかったんで、
飛行機乗りを志願したら、いっぱつで合格した。
練習しにいったら、地上におかれている木の飛行機。
それで、一ヶ月過ぎたら、終戦やったって」
興味を覚えた私が割って入りました。
「それは、どこの飛行隊だったんですか?」
「う~ん、なんやらいってたけど、忘れた。」
「いま、おいくつなんですか?」
もう一人の女性の高齢者がすかさず、
「あんた、女性に年きいたらだめよ~」
「あ、すみません」と謝ると、白髪の女性は、
「こう見えても、私昭和生まれ、ハハ」
「あんたは?」と男性の高齢者に話がふられた。
「わしは戦争はいっとらん。あとすこしの年やった。」
琵琶湖上はB29編隊の通過経路でした。
しかし、大津が爆撃されたのは2度。
そのうち、一箇所は東レ工場で、死者も出たはずでした。
「大津の東レ工場に爆弾が落とされての知っていますか?」
と質問してみました。すると、白髪の女性は、
「ああ、知っている。あの電器屋やっているOさんの
お父さん、あの人が怪我しはって・・・。」
と、Oさんの説明がしばらく続く。
「わしの家にも破片があった。ウチの父親は技師やったから。
東レに努めていた。」と男性の高齢者。
「工場では、魚雷つくっとったんや、だから爆撃された」
まさか、その近くにいた人たちとは思いもしませんでした。
時計を見ると、10分が過ぎていました。
お礼をいって、あわてて、その場を去りました。
「また、くるから、続きを話してください。」というと、
「ああ、そのころにはもう死んどるかもしれんで~」
と元気な声。
・・・・ところで
大津市の歴史博物館で、7月25日から、
「戦争と市民」展が開催される予定です。
事務所にむかう途中でポスターを見かけました。
(上の写真です)
今日の高齢者さんたちの話と重なる企画ですね。
交代でやっているカフェがあります。なんでも一杯100円。
会議の合間の10分間に、飛び込みで
アイス・コーヒーを頼みました・・・猫舌なので。
「あ、忙しいんですね、はいはい」と
出てきたのは、ホットコーヒー。
仕方なく、腰を下ろして、飲むことにしました。
そこには、高齢者が3人ほど、談笑中。
私が入るなり、「女の人が来たかと思った」と
高齢者の女性が一言叫びました。
ボランティアさんと私が固まりそうになります。
どこから見ても、間違う余地がないのに・・・。
しかし、高齢者さんたちは、おかまいなしで
別の話題へ戻っていきます。
・・・どうも戦争にかかわる思い出話の様子。
男性の高齢者は、
「ウチには、中国の写真がいっぱい貼ったアルバムが
あったけど、燃やしてしまった。中国でひどいことをしたので、
家にあったら、まずいからといって。終戦後に・・・・。」
白髪の女性の高齢者は、
「ウチの人は、ぎりぎり助かった。頭がよかったんで、
飛行機乗りを志願したら、いっぱつで合格した。
練習しにいったら、地上におかれている木の飛行機。
それで、一ヶ月過ぎたら、終戦やったって」
興味を覚えた私が割って入りました。
「それは、どこの飛行隊だったんですか?」
「う~ん、なんやらいってたけど、忘れた。」
「いま、おいくつなんですか?」
もう一人の女性の高齢者がすかさず、
「あんた、女性に年きいたらだめよ~」
「あ、すみません」と謝ると、白髪の女性は、
「こう見えても、私昭和生まれ、ハハ」
「あんたは?」と男性の高齢者に話がふられた。
「わしは戦争はいっとらん。あとすこしの年やった。」
琵琶湖上はB29編隊の通過経路でした。
しかし、大津が爆撃されたのは2度。
そのうち、一箇所は東レ工場で、死者も出たはずでした。
「大津の東レ工場に爆弾が落とされての知っていますか?」
と質問してみました。すると、白髪の女性は、
「ああ、知っている。あの電器屋やっているOさんの
お父さん、あの人が怪我しはって・・・。」
と、Oさんの説明がしばらく続く。
「わしの家にも破片があった。ウチの父親は技師やったから。
東レに努めていた。」と男性の高齢者。
「工場では、魚雷つくっとったんや、だから爆撃された」
まさか、その近くにいた人たちとは思いもしませんでした。
時計を見ると、10分が過ぎていました。
お礼をいって、あわてて、その場を去りました。
「また、くるから、続きを話してください。」というと、
「ああ、そのころにはもう死んどるかもしれんで~」
と元気な声。
・・・・ところで
大津市の歴史博物館で、7月25日から、
「戦争と市民」展が開催される予定です。
事務所にむかう途中でポスターを見かけました。
(上の写真です)
今日の高齢者さんたちの話と重なる企画ですね。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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