お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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Tさんへ、写真集の贈呈ありがとうございます2007/10/01

Tさんへ

私が昼休みに膳所公園で写真を撮っているときに、
偶然出会いました。
自然に、写真が話題になりました。
「ぼくも写真を撮っている」とおっしゃっていました。
その場は、時間がなくて、それ以上のお話ができませんでした。
あとでお電話をしたときに、

「ぼくの写真は人物を写したポートレート」
「写真集を出したんです。退職を機に、自腹を切って」

とおっしゃり、一部もっていきます。さしあげますとのことでした。

その日は、私が休日だったので、仕事場に行きませんでした。
翌日、仕事場にいくと、机の上にさっそく届いていました。
その早さに驚きました。そして、
私もお礼の電話を入れたのですが、留守でしたので、
奥さんにお伝えしていただくよう頼みました。

ですから、直接お話はしていません。

モノクロのポートレートと外国旅行でカラーのポートレート。
本格的な腕前に驚きました。
昭和30年代の下町の暮らしを写したモノクロ写真は、
どれもなつかしく、つつましく、あたたかいものでした。

写真集の最後に「ブレッソンのように」という文章がつけられています。

《僕もブレッソンのようにライカを愛用し、土門のように写真の記録性を追及し、ライティーグのように、撮ることに喜びを感じながら写真を大いに楽しみ続けたいと思っています。映像ばんざい。ライカばんざい。》

私は自分が写真を評価できるとは思っていません。
この最後の文章を読んでの感想ならいえます。
 
 人は、仕事をし、人とつきあい生きてきますが、自分にとって一番大切なものをすべての人と共有しているかというと、そうではありません。
 仕事の顔をその人の顔として固定的に見ている場合がほとんどです。
そんな関係に耐えながら(?)、自分の思いを持続し、仕事を退職したときに、その人自身の顔を取り戻す。そんな喜びが写真集と文章にあふれていると思いました。
 今後の活躍を期待します。
                            BIN★

ルドンの黒 武満徹「彩の記」2007/09/03

 azamikoさんのブログで「ルドンの黒」展が東京のBunkamuraで行われていたのを知りました。7月28日から8月26日まで。
http://d.hatena.ne.jp/azamiko/20070829
 展示されていたのは、ルドンの版画とデッサン。
 ネットで見る限り、マックロクロスケや目玉の親父風のグロテスクでユーモラスな生き物が描かれています。
 それらは、岐阜県美術館のコレクション。
 岐阜なら、まだ近くですので、見に行くことができます。
 
 ついでに、Bunkamuraのザ・ミュージアムの今後のラインナップを調べていると、来年夏にモスクワ市近代美術館(1999年創立!!)所蔵のロシア・アヴァンギャルドたちの作品展(シャガールからマレーヴィチまでという仮称で)が行われる予定です。
 この美術館のコレクションの展示は、日本初とのことです。
 これは、見たいと思いました。
 商品なら、いまやどこに住んでいても、簡単に手に入ります。しかし、こういう催しについては、地方都市と中央の格差はどうにもなりません。

 ところで、武満徹さんが、ルドンの黒について書いています。

 1985年に出版された『音楽を呼びさますもの』(新潮社)という著作(上の写真)のなかの「彩(いろどり)の記」です。

 『ルドンの木炭や石版による作品を観ると、暗い陰鬱なヴィジョンと謂うより、昼の陽光を充分に吸い尽くした後の大地の温もりのような、官能的な感触を、反ってその深い黒の世界に感じる。すべての夢がそこでは呼び醒まされ、育まれているように思える。そこから、「予感」のような永遠の信号が送られ続けているのを感じる』

 ぜひ、こういう黒に出会ってみたいと思いました。

・・・これが琵琶湖めぐりのポスター・・・でしたか2007/08/25

琵琶湖で舟遊び・・時代を感じさせるポスターですが、風景の写真ばかりが多い最近のものとちがって新鮮な気がします。

銅鐸の絵が好きになりました2007/08/24

 琵琶湖博物館で、第15回企画展示「琵琶湖のフナ・コイ物語」を見て回りましたが、いまひとつ・・・私は魚が好きではないので・・・興味を惹かれませんでした。研究者の顔やその作業などが紹介されていて、地味な仕事にも光が当たっていい企画だとは思ったのですけれど。
 私が立ち止まったのは、銅鐸の前。
 古代から、人間は、フナやコイなどを飼っていたことがわかる・・という例示なのですが、私が目を凝らしたのは、文様。
 教科書などでも、見てはいましたが、おお、シンプルで美しい線画だ!と感動したのです。
 亀の絵もいいですね。

スクラップ&ビルド:琵琶湖文化会館は残りました2007/07/28

 1961年に建設された琵琶湖文化館。水族館と美術館を兼ね備えたお城の形をしたビルは、湖岸にこれといって目立つものがなかった時代、ランドマークとなっていました。
 なぜかわかりませんでしたが、トンボの形をしたものが建物の頂上についていました。
 しかし、琵琶湖博物館が1996年にオープンする際に、取り壊される話になりました。議会でも保存が訴えられて、現在のように存続されたのです。

こんな街でいいのかという写真=写らないものを写したくて2007/06/19

●ヘタな写真

少し開いた時間。
自分が以前に写した写真に目を通していました。

シャガール展の写真を見つけました。
ミクシに書いた日記を思い出し、ほとんどそのまま
「過去の日記」(2005年9月30日)を書いてみました。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/06/16/1582809

おなじホルダーにピンボケのチケットとJR大津駅前が
写っている写真がありました。
上のアップした写真です。

自分の手でチケットをもって、背景と同時に写すって
難しいですね。
ですから、ひどい出来。

でも・・・思い出しました。
腹立ちを表現したかったんです。

チケットと対比してお見せしたかったのは、
サラ金の看板。
「ほのぼのレイク」「アイフル」「プラム」「プロミス」「ディック」「レタス」
写っていない側にもまだまだあります。

●京都駅から大津駅を眺めて

この日は、月末で仕事がとても忙しいときに、
どうしようかと迷い迷って30分間だけ、
たった一人でシャガール展を見に行きました。
そのときに、美術館が駅にある便利さを
どれほど感じたか知れません。

JR京都駅には、美術館「駅」があり、
私が見たかったシャガール展を開いていました。
ところが、大津の戻ったとたん目に飛び込んでくるのは、
「文化」ではなく、「サラ金」の看板の乱立だったからです。
見慣れている風景が、みすぼらしく、なさけなく感じたのです。

ほかにどういう表現もできなくて、チケットといっしょに
写しこんだという訳でした。

そこに存在するものは、写すことができます。
しかし、そこにあってほしいと願うものを写すことはできません。
チケットはその代用物としては、うまくありませんでした。
・・・これだけの説明が必要になるのですから。

ワダ・エミさんの衣装に心をうたれました。2007/05/07

ワダ・エミさんは、有名なデザイナー。
しかし、私がこの方を知ったのは、黒澤明監督の「乱」以降のことです。

ご高齢(失礼!)にもかかわらず、きらびやかで豪華な色彩が
衣装に踊っています。
その新鮮で先鋭な感覚に不思議な気持ちをいだきました。

つぎにワダ・エミさんを意識したのは、
チャン・イーモウ監督の「HERO」でした。
DVDを買ったら、メイキングの特典映像がありました。
そこで、この映画の成り立ちに重要な役割を演じられたことを
知りました。

なにより驚いたのは、ご自分で衣装を染色されていることです。
この映画は、赤、青など、色彩で区別された物語からなっています。
芥川龍之介の「藪の中」のように。
そして、黒澤監督の「羅生門」のように。
たとえば、赤の物語。
このなかに赤の衣装をまとう多数の登場人物がいますが、
そのすべての色合いが違うのです。
同じ赤でも。
私は、そのプロとしてのこだわり。一人一人の人物としての
扱い(衣装という立場から)に胸を打たれました。

三度目は、「国宝・彦根城築城400年祭」の会場。
そのつもりで来たわけではない彦根城で、
ワダ・エミさんの衣装展をされているのを知り、うれしく思いました。

エディプス王というオペラの衣装を見ると、
派手なものだけではありません。
しかし、一枚一枚、ひとひだひとひだがちがい、
個であることを主張しています。

展覧会の要員の方すら、ワダ・エミさんの作った衣装を着ておられました。
そのことが驚きでしたし、そのことによって、衣装とはなにか、
ワダ・エミさんの衣装というものへのこだわりとはなにかを
教えられる気がしたのです。

展覧会場は、撮影禁止。
撮影が許されている会場で写した写真にワダ・エミさんのものが
写っていました。
それが上のものです。

無言館の窪島誠一郎氏の講演を聞いて2007/05/03

●無言館

「無言館」という美術館がある。 若くして戦争で命を奪われた画学生の遺作を集めた美術館である。 今日は、その館長・窪島誠一郎氏の話を聞いた。
滋賀9条の会の集まりでである。

●窪島氏の話

窪島氏は、無言館に飾られている若い画家について語った。それはまだ画家ともいえない飛翔まえの若者のことである。
憧れの美術学校に入学した18や19歳の画学生。 しかし、戦争の最中で、入学証書と卒業証書が同時に届いたように、まともに学生としての生活を送ることも画家として大成することもできずに、戦地に狩り出された若者。
 出征の日、あと5分、あと10分でいいから、この絵を描かせてくれといって恋人の姿を描いていた若者。
 命を奪われる最後のときに、自分の愛する人の姿を描いて逝った若者。
 その絵を集めたのが無言館だという。

●愛する絵、愛する人との別れ

戦争とは、愛する人との別れであること、愛する絵との別れであることを突きつけられたひとときであった。
無言館の館長は、「千の風になって」という歌を強く否定したある女性の話をしていた。わずか3ヶ月という新婚生活のあと、戦地に送られ死んだ若い夫の思い出は残された若い妻の胸に繰り返し悲しみとして宿り、うずまき、消えることがない。 風となってまってはいないと。

●無言の絵が語るもの

いろんな思いを抱いて死んでいった人たちが日本では300万人。アジアをはじめ全世界では数千万人。悲しみの記憶は薄れ、語り部は死に絶えようとしている。悲しみと苦しさを二度とくりかえさない歯止めとなっている貴重な遺産(憲法九条)は、時代遅れのそしりをうけるまでとなった。
 おりしもTVでは、国民投票シミュレーションと題するドラマ。もはや国民投票は避けがたいという印象を広げているように見える。

無言館は、まさに無言の絵の集まり。しかし、この無言は沈黙ではない。
絵はなにかを語っている。愛する人の姿に、愛する風景のなかに、なにを聴き取るかはその人の生き方にかかわるものなのだと私は、思った。

巌谷國士 『シュルレアリスムとは何か』2006/08/26

ブックオフで見つけて買いました。
巌谷國士さんの
『シュルレアリスムとは何か』(筑摩学芸文庫)
という本です。

キリコやルネ・マグリット、
そして、ダリなど、ときに抵抗を感じながらも、
目が離せない画家達がいます。
その魅力を思うとき、
《シュルレアリスムとはなにか》を
知りたくなったのです。

高階秀爾さんの『近代絵画史』(中公新書)では、
記述が簡単すぎて(客観的すぎて)不満が残りました。
もっと、シュールレアリスムに入れ込んでいる人の
本が読みたいと思ったのです。

そこで、巌谷國士さんの本を選びました。

この本は、語り言葉で書かれているし、
体系的に教えるというよりは、
「自動記述」的であるのがいい。

自分としては、距離を感じる世界だけれど、
気になって、脇道にそれるように、見入ってしまうのです。

美術館「駅」KYOTOのシャガール展にいってきました2005/09/30

最終日での駆け込み鑑賞でした

●赤くも青くもないシャガールもありました

1950年代以降の、赤もしくは青を基調にした
シャガールの絵が並ぶなか、異色の絵がありました。

1914年の絵です。
今回の展覧作品をあつめたパンフがないので、
いただいた作品リストで確認すると、

《わが村(夕べの通り)》 というタイトル。
インク・グワッシュ/厚紙に張った絵
基調は黒もしくはくすんだ灰色です。

もうひとつ。
《ヴィテプスクの上空で》
グワッシュ・水彩/カミ
基調は、灰色がかった薄茶色もしくは茶色。

一周して、全体がわかったので、もう一度
そこに戻りました。
なぜかというと、1910年代はこれだけ。
1920年代も30年代も40年代もありません。

二つの絵のところは、あまり人が立ちどまらない様子。
そこでじっと見ると、ロシア語の文字を見つけました。
ДОМ ЗАЛ (=集会所)と旧字体で書いてありました。
その下に、シャガールという名前がありましたが、
これはロシア文字ではありませんでした。

私には、この二つの絵から、いわゆるシャガールの絵に
どのように変貌していったのかという点に
興味を惹かれましたが、その間の展示物を
見ることはできませんでした。

そこを離れて別のところへいこうとすると
比較的年配の女性と比較的お若い女性が
顔を寄せて、その絵を見始めました。
なにか盛んに話しておられます。
そして、ロシア語とその意味を
説明されている声が聞こえました。

●すばらしい挿絵画家としてのシャガール

シャガールの挿絵が並んでいました。
ダフネスとクローエ。
私には、この連作がとてもとても気に入りました。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)