
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
墓碑の大きさと形の均一さ@現比治山陸軍墓地 ― 2011/09/25
たしかに、陸軍墓地の戦死者・戦病死者の墓碑は、一定の規格をもって造られています。それでも、時代により、かかわった戦争により、違いが見えました。旧真田山陸軍墓地でも、旧大津陸軍墓地でも。それと比較すると、比治山陸軍墓地の兵卒らの墓碑の大きさ、形の均一さは際立っています。
上の写真を見るとおわかりでしょうけれど、軍役夫も砲兵も近衛兵も輜重兵卒もほぼ同じ大きさ、同じ碑文の形式です。それが、都道府県別に並べるという配置を可能にしたともいえます。
墓碑の文字に、墨を入れてあるのは、たしかに見やすいのですが、違和感があります。刻んでいる内容を見やすくするというのなら、後列の墓碑でも、せめて正面全体が見えるようにしなければ、意味がありません。最前列とその後ろでは、扱いが違ってしまいます。
それらの墓碑の名簿はつくられているそうですが、見学者には、あとで問い合わせるという方法でしかわかりません。
西南戦争以降の墓碑があると書いてありますが、きっと当初は、亡くなった順番に、戦争ごとに領域をかえて、墓地がつくられていたのではないかと思います。ところが現在は、あらゆる年代、あらゆる階級を秩序なく並べられている。そういう形では、陸軍墓地から、なにかを感じ、なにかを考える---日本の行った戦争についてですが---のは、困難になります。
それらは、旧真田山陸軍墓地、旧大津陸軍墓地を見てきた私が、比治山陸軍墓地に対して感じる最大の問題点です。
上の写真を見るとおわかりでしょうけれど、軍役夫も砲兵も近衛兵も輜重兵卒もほぼ同じ大きさ、同じ碑文の形式です。それが、都道府県別に並べるという配置を可能にしたともいえます。
墓碑の文字に、墨を入れてあるのは、たしかに見やすいのですが、違和感があります。刻んでいる内容を見やすくするというのなら、後列の墓碑でも、せめて正面全体が見えるようにしなければ、意味がありません。最前列とその後ろでは、扱いが違ってしまいます。
それらの墓碑の名簿はつくられているそうですが、見学者には、あとで問い合わせるという方法でしかわかりません。
西南戦争以降の墓碑があると書いてありますが、きっと当初は、亡くなった順番に、戦争ごとに領域をかえて、墓地がつくられていたのではないかと思います。ところが現在は、あらゆる年代、あらゆる階級を秩序なく並べられている。そういう形では、陸軍墓地から、なにかを感じ、なにかを考える---日本の行った戦争についてですが---のは、困難になります。
それらは、旧真田山陸軍墓地、旧大津陸軍墓地を見てきた私が、比治山陸軍墓地に対して感じる最大の問題点です。
隙間なく並べられた兵卒らの個人墓碑@現「比治山陸軍墓地」 ― 2011/09/24
現「比治山陸軍墓地」のコンクリート製の土台 ― 2011/09/24
「不明墓碑五百余柱 供養碑」@比治山陸軍墓地 ― 2011/09/24
現「比治山陸軍墓地」の入口の右手に「不明墓碑五百余柱 供養碑」がおかれています碑の下の説明ボードに書かれている言葉を写しました。
この説明ボードを読んでいまだに見つからない墓碑があることに驚き、憤りを感じました。同時に、これからの世界、とくにアジアで日本が尊敬される位置を得ようとしたら、戦争の加害責任に目をつむるわけにはゆきません。徹底的な反省を土台にしてECに確固とした地位を築いたドイツといまだに謝罪の言葉を公には表明していない日本の違いは歴然としています。日本の朝鮮半島、中国、フィリピン、ベトナムなどへの軍事行動によって、一千万人規模でアジアの人たちの命が失われました。碑文を書いた方の思い(上の説明ボードの「23、24の」以下の)はわかりますが、客観的には日本人だけしか目に入らない---身びいきでしかありません。
私は違う意味で心が痛みました。
数奇の運命に弄ばれた陸軍墓地の現存の墓碑数は戦前に五百余柱が不足して現在行方不明となりました。23、4の若い尊命を国難に捧げて散った五百余柱の英魂いまいずこを彷徨しておられるか思うだに悲涙禁じ得ないのであります。参拝の皆様過去帳に眠る英魂に暖かい慰めのお言葉を賜わるようにお願い申し上げます。
昭和52年4月 比治山陸軍墓地保存協賛会
この説明ボードを読んでいまだに見つからない墓碑があることに驚き、憤りを感じました。同時に、これからの世界、とくにアジアで日本が尊敬される位置を得ようとしたら、戦争の加害責任に目をつむるわけにはゆきません。徹底的な反省を土台にしてECに確固とした地位を築いたドイツといまだに謝罪の言葉を公には表明していない日本の違いは歴然としています。日本の朝鮮半島、中国、フィリピン、ベトナムなどへの軍事行動によって、一千万人規模でアジアの人たちの命が失われました。碑文を書いた方の思い(上の説明ボードの「23、24の」以下の)はわかりますが、客観的には日本人だけしか目に入らない---身びいきでしかありません。
私は違う意味で心が痛みました。
再建された「比治山陸軍墓地」へ ― 2011/09/24
現在の「比治山陸軍墓地」の「墓碑配置図」 ― 2011/09/24
現在の「比治山陸軍墓地」が当初の墓地とは別物であることがわかりました。また、公ではなく、民間の有志によって再建されたこともわかりました。政府や米軍の仕打ちと無責任さには、怒りを覚えます。再建に携わった方々の苦労には、心からの敬意を表します。
では、どういう基準で、再建されたのでしょうか。
現在の配置図が参考になります。
再建の方針は、時代の異なる墓碑を時代(戦争)別ではなく、出身地別に並べるというものです。昭和39(1964)年4月の「比治山墓地略誌」には、西南戦争にはじまり、15年戦争(日中戦争・太平洋戦争)にいたるまでの墓碑があると書かれています。そういう時代別の形態をとっていないのが特徴でした。
実際に再建された墓地を見て、考え込まずにはいられませんでした。それは、つぎの記事で書きます。
では、どういう基準で、再建されたのでしょうか。
現在の配置図が参考になります。
再建の方針は、時代の異なる墓碑を時代(戦争)別ではなく、出身地別に並べるというものです。昭和39(1964)年4月の「比治山墓地略誌」には、西南戦争にはじまり、15年戦争(日中戦争・太平洋戦争)にいたるまでの墓碑があると書かれています。そういう時代別の形態をとっていないのが特徴でした。
実際に再建された墓地を見て、考え込まずにはいられませんでした。それは、つぎの記事で書きます。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)









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