お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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遠藤雅子『赤いポピーは忘れない』から、今村昌平『カンゾー先生』へ2008/05/02

『ポピーは忘れない』と『カンゾー先生』と
 先日、図書館で二冊の本を借りてきました。
ひとつは、大貫恵美子『ねじ曲げられた桜 美意識と軍国主義』(岩波書店2003年)、もう一つは、遠藤雅子『赤いポピーは忘れない 横浜・もう一つの外人墓地』(グラフ社2002年)です。
 私は、ドキュメンタリー的な遠藤さんの本から読み始めました。
 この本でいくつかの発見をしました。それらすべてを書きつくせるものではないし、それが書きたいのではありません。
 著者は、『すべては、横浜・「外人墓地」との出会いから始まったような気がする』と述べていますが、この墓地の存在を知り、さらに女性の墓碑があることを知ったことから、次々と歴史の旅が始まるのです。
 女性捕虜は「ナンキン号」に乗っていて捕虜となる運命をたどるのですが、この「ナンキン号」は謎めいた船でした。それは、アメリカ、オーストラリア、ドイツそして日本が絡み合う暗号合戦のなかで、数奇な運命をたどるはめになるのです。
 その謎ときと福島の収容所の実際が明らかにされていくあたりは、息を呑みました。
 日本にいた外国人捕虜については、ほとんど語られていないし、実態が共通認識になっていません。そのことが強く頭をよぎりました。
 そして、思い出したのが、今村昌平監督『カンゾー先生』でした。
 ネットで『カンゾー先生』の紹介がありましたが、外国人捕虜の問題を取り上げた功績については、述べたものがなかったように思います。
 捕虜問題が私達の視野からはずれていることを思うとき、『カンゾー先生』の評価は、さらに高くてもよいと思いました。
 それで、この二つの作品を並べて写真を撮ったのです。
 ちなみに、『カンゾー先生』は中古レンタルビデオ販売で105円でした。気軽に見たのですが、心にひっかかる作品となりました。
 最後にですが、『赤いポピー』『ねじまげられた桜』を図書館で借りるきっかけは、スーザン・J・ネーピア『現代日本のアニメ 「AKIRA」から「千と千尋の神隠し」』(中公叢書)でした。
 ネーピアが、アニメの高畑勲監督『火垂るの墓』真崎守監督『はだしのゲン』などを取り上げるとき、「日本が犠牲者となった歴史(victim's history)」という言葉を用いて、批判的コメントを書き込んでいることが頭を離れなかったからです。
 また、別の機会に書いてみたいと思います。

まぶしい陽光と黄色の花を見ながら2008/05/02

まぶしい陽光と輝く黄色の花ですね
日差しがとても強くなりました。
陽光をあびて、黄色の花が輝いています。
いい季節になりましたね。

私は、もともと花や木に関心が薄かったのです。
競争社会のなかで育ったために、
10代半ばから、いろんなものを
切り捨ててきたんでしょうね。
役にたちそうにないものには、無関心でした。
そんなに急いでどうしようとしていたんでしょうか。

自然が目にしみると思ったのは、
まだ50代だった母の病気がきっかけでした。
私が9月に結婚。
次の年の2月に子どもができたことを
知らせたと同じ月に、母は入院する身とになりました。
二ヶ月ぐらいかけた、検査が終わり、
余命の短さをきかされました。
はじめての子どもの誕生までの楽しいはずの日々は
同時に、母が死に向かう秒読みの日々となりました。
誕生は間に合うのかという思いですごしました。



はじめて余命をきかされ、それを妹につたえに
走った道は、春まっさかりでした。
桜が散ったあと、新緑やいろんな花が
咲き乱れる季節でした。
不幸を伝える道は、命にあふれていたのです。

その落差をあまりに不条理だと私は感じました。
そして、無意識にぽつんとつぶやきました。
「もうどんなにしても、母は桜を見ることはできないのだ」
他人のように聞こえたこの声が、
母の運命と死を実感させました。
決して仲がよい親子ではありませんでしたが、
はじめて母のためにだれにも見られず泣きました。

9月の末日、病院で許可をもった母は、
産院へ点滴をぶらさげながら、やってきました。
そして、生まれたての赤子をだくことができました。
次の月、母は、最後まで生きたいと願いながら、
亡くなりました。
自然が美しい、さわやかな10月のことでした。

桜と赤いポピーの運命2008/05/02

赤いポピーと桜の運命を描いた本
 どういうことだったのか思い出せませんが、県立会館の小ホールのようなところへ、母によく連れて行かれて、くりかえし映画を見ました。その映画は、戦争を描いた映画で、モノクロームでした。
 今から思い出すと、日露戦争で旅順攻撃の映画でしたし、特攻攻撃を描いたものもありました。映画に登場する歌を覚えていて、口ずさむこともありました。
 どのように考えても、それは反戦のための集会ではありませんでした。軍隊に徴用されるシーン、そして、戦場に向かう直前、桜舞い散る広場で、それぞれの兵士が家族と過ごす悲しいシーン。それらはとても美しく描かれていました。



 大貫恵美子『ねじ曲げられた桜 美意識と軍国主義』の以下の記述を読むとき、戦後生まれの私には、それなりのリアリティが感じられるのです。それは、このような映画を幼いときに繰り返し見たせいだと思うのです。

 明治の初期以来、日本の政府は、戦争または戦死を視覚的にも観念的にも美化してきた。桜の花の美的価値はさまざまな方法で利用されてきたが、一番顕著な例は天皇、即ち日本に対する兵士の犠牲の象徴としてのものであった。・・・靖国神社の桜の樹は元来、その花の美しさによって維新の際命を落とした倒幕派の志士の鎮魂のために植えられたものだが、軍国化が加速するにつれて、政府によって桜の象徴的意味が変えられていった。散る桜の花は命を犠牲にした兵士を表象するものとされた。と同時に、靖国神社に咲く桜は戦死した兵士の生まれ変わりとされていったのである。


 ちなみに、新版Kizurizumというブログに、大貫恵美子『ねじまげられた桜 美意識と軍国主義』という日記がアップされていましたので、ご紹介しておきます。

 赤いポピーは、桜とはちがった道のりをへて、命の象徴となりました。
 お恥ずかしいことですが、遠藤雅子『赤いポピーは忘れない 横浜・もう一つの外人墓地』を読むまで、そういう位置にある花であることを、私は知りませんでした。



  第一次世界大戦のとき、カナダの従軍医師のジョン・マクレーが戦場の光景をみて、戦争が終われば原野で倒れた兵士のことを人々は忘れるだろう、「人々が原野で目にするのは、5月の風にそよぐ赤いポピーだけであろう」と詩にそえて雑誌に送ったことが発端となりました。  雑誌には返事が殺到。内容は、「祖国のために倒れた兵士のみなさんのことを、どうして私達が忘れるでしょうか」というものでした。  戦争の終わった11月11日は、「リメンバランス・デー(追憶の日)」となり、犠牲者と犠牲者への感謝を忘れないことの象徴に「赤いポピー」がなっていきました。そして、この日は「赤いポピーの日」とも呼ばれることになったのです。

 『自転車&映画備忘録 HONK de BONK』というブログに、「赤いポピー」という日記がアップされていて、造花でつくられた追悼のための赤いポピーを見ることができます。

カテゴリーを変えるのが大変!「記事の編集・削除」でもカテゴリーが使えるようにしてほしい。2008/05/02

 ご覧の通り、カテゴリーが限界の100まで並んでいます。ほとんど考えることなく、つくったためにこうなりました。
 花のカテゴリーの記事が5月2日で350に達したので、これは分割しようと思いました。花を検索するのに便利なように。
 限界までカテゴリーを作ったので、どれかを削除しなければいけません。
 しかし、記事があるかぎり、カテゴリーを削除できません。そのカテゴリーに含まれている記事を探すのが大変です。
 ブログ画面では、カテゴリーをクリックすればすみますが、実際に編集しなおそうと思えば、「記事の編集・削除」画面にいくことになります。記事の編集では、カテゴリーごとに、出てきません。出てくるのは、日付順、しかも月単位で昇順か降順だけ。
 これは、一日に数記事アップしている(やりすぎですが)場合は、見つけ出すのに時間がかかります。
 編集画面も、カテゴリー別にでるように、アサブロ管理人さんにお願いしたいのです。よろしく。

5弁の紫の花2008/05/02

5弁の紫の花
 今日は県庁内を歩き回ったあと、山越えをすることにしました。
 藤尾学区に用事があったのです。
 「小関越え」というルートをたどれば、大津市から京都市へ抜けることができます。国道沿いを歩くのではなく、その山道をえらびました。長等公園から、旧びわこ学園跡地(現在は高齢者施設)を通り抜けて、小関越えの道に入りました。
 との途中で出会った花です。
 真正面から見るとどうなっているのか、興味がありましたので、その写真も撮りました。

地面に張り付いたような赤い花2008/05/02

地面にはりついて咲いている赤い花です
お寺を囲む土手に咲いていました。
緑のなかに鮮やかな赤でした。
上の写真は、土手に登って接写したものです。
満開状態でしょうか。
下の写真は、つつましさが感じられるつぼみですね。


                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)