お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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まぶしい陽光と黄色の花を見ながら2008/05/02

まぶしい陽光と輝く黄色の花ですね
日差しがとても強くなりました。
陽光をあびて、黄色の花が輝いています。
いい季節になりましたね。

私は、もともと花や木に関心が薄かったのです。
競争社会のなかで育ったために、
10代半ばから、いろんなものを
切り捨ててきたんでしょうね。
役にたちそうにないものには、無関心でした。
そんなに急いでどうしようとしていたんでしょうか。

自然が目にしみると思ったのは、
まだ50代だった母の病気がきっかけでした。
私が9月に結婚。
次の年の2月に子どもができたことを
知らせたと同じ月に、母は入院する身とになりました。
二ヶ月ぐらいかけた、検査が終わり、
余命の短さをきかされました。
はじめての子どもの誕生までの楽しいはずの日々は
同時に、母が死に向かう秒読みの日々となりました。
誕生は間に合うのかという思いですごしました。



はじめて余命をきかされ、それを妹につたえに
走った道は、春まっさかりでした。
桜が散ったあと、新緑やいろんな花が
咲き乱れる季節でした。
不幸を伝える道は、命にあふれていたのです。

その落差をあまりに不条理だと私は感じました。
そして、無意識にぽつんとつぶやきました。
「もうどんなにしても、母は桜を見ることはできないのだ」
他人のように聞こえたこの声が、
母の運命と死を実感させました。
決して仲がよい親子ではありませんでしたが、
はじめて母のためにだれにも見られず泣きました。

9月の末日、病院で許可をもった母は、
産院へ点滴をぶらさげながら、やってきました。
そして、生まれたての赤子をだくことができました。
次の月、母は、最後まで生きたいと願いながら、
亡くなりました。
自然が美しい、さわやかな10月のことでした。

コメント

_ (未記入) ― 2008年05月02日 03時27分23秒

私の大好きな「ヤマブキ」の八重咲きです。
いつかは庭に植えたいと思いながら、けっこう大きく茂ってくる木なので、植える場所がないのです・・・

おかあさま、お若かったのですね。
赤ちゃんを抱くことが叶ったのはせめてもの救いでしたね。
随分とお辛かったことでしょう。
うちの義母の場合はケガなので、確実に快方には向かうはずですが、この年になってこの世のものとは思えない痛みを経験せざるをえなかったことがとてもかわいそうでした。

_ にゃこりん ― 2008年05月02日 10時43分32秒

あらら、名前を入れ忘れてますね↑
おっちょこちょいの、にゃこりんでした^^;

_ BIN★→にゃこりんさん ― 2008年05月02日 13時46分28秒

(未記入)でしたけれど、内容でわかりました。
でも、レスの仕方にすこし困りました。
「ヤマブキ」は、やわらかい黄色ですねぇ。
同じ黄色でも、雰囲気がちがいます。
私の母の場合は、お医者さんが配慮して、
すぐには病名を伝えず、検査をゆっくりと繰り返す
うちに、家族の心の整理がつくようにしてから、
結論を伝えてくれました。
積極治療をしなかったことで、最後の月日を
伸ばすことができました。

_ にゃこりん ― 2008年05月03日 08時47分53秒

なんてすばらしいお医者さまなのでしょう。
病人本人以上にカウンセリングが必要なのは家族ですものね。

本人不在のまま、その人の人生の最後のページに筆を加える判断を
せまられるのですから。

積極治療をなさらなかったのは最良の判断だったのだと思います。

_ BIN★→にゃこりんさん ― 2008年05月03日 21時33分33秒

おっしゃるとおりです。
それは、あとで気がついたことなのです。
人間の生命を扱うお仕事ですし、家族のこころまでケアーしながらやっていただいたことに感謝しています。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)