お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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澤地久枝 『密約 外務省機密漏洩事件』(岩波現代文庫)2008/05/06

澤地久枝 『密約 外務省機密漏洩事件』(岩波現代文庫)
 5日と6日の奈良の旅。自宅との往復の電車のなかで、読んでしまいました。おもえば、この二日間は、一方で英気を養うためのお気軽な観光をしながら、他方で、澤地久枝さんの沖縄返還をめぐる日米密約にかかわる重い主題の本を読みきる・・・なんか二重生活のような二日間でした。
 私が、澤地さんの著作を読むのは、これがはじめてでした。
5月3日の憲法記念日の講演会でお話を聴いて、購入したこの本がそれだったのです。
 どんな内容か、どんな本を書く人なのか興味津々。
 権力犯罪の事件が男女の情事事件にすりかえられていくなかで、後者を無視して前者を追及するというのではなく、主舞台にされた男女関係のなかに、権力の介在を明らかにする、そういう手法で迫った著作だと思いました。
 大前提となる正義への執念のすさまじさ、自らをさらけだしながら、対象に迫る熱さ・・・。公正であろうという意思。
 ぎりぎりのところまで迫りながら、状況証拠では決して形にしない誠実さ・・・。
 そんな言葉がふさわしいのではないでしょうか。
 一方で、退屈で平板に思える法廷闘争を生き生きとした人間ドラマにかえ、他方で、検察側がつきだしてきた男女関係というおどろしい領域のなかに冷静なメスをいれることで権力の闇を照らす・・・もう一冊、読んでみたいと思いました。一冊というのは失礼かな。

沖縄でくりかえされた暴行事件2008/02/12

かつて米軍キャンプがあった御陵団地(道路から右手)
1995年の3名の米兵による少女暴行事件
のことを鮮明に覚えています。
沖縄の痛みに真剣に向かい合うきっかけの
事件でした。私が、はじめて、
沖縄の地を踏んだのも、このときでした。
それは、この事件への怒りを共有するため、
そして、沖縄の現実に向き合うためでした。

それから、10年以上がたったのです。
しかし、2008年、ふたたび少女暴行事件が
おきました。

この12年はなんだったのでしょうか。

基地があるゆえの痛みは、私にとって
他人事ではありませんでした。
大津市は、1945年に米軍が進駐しました。
市内の中心部に旧日本陸軍の基地が
あり、そこに米軍は占領軍として
やってきました。

もちろん、私は、そのころは生まれていません。
米軍がきたとき、女性はいっせいに隠れたと
いいます。
米軍は、経済の活性化とジャズなどの文化を
もたらしました。
経済の活性化・・・繁華街の賑わい。
米軍相手の接客をする女性が生まれました。
それらの女性は特別な名前で呼ばれました。

わが家のすぐ近所にその職業に女性が住む
家があり、米兵との混血の子どもと私は友人でした。
わたしが物心がつきはじめたことには、
米軍はすでに引き上げていました。

ですから、米兵が父として、その友人に接する
姿を、あるときまでは、見たことがありません。
その日は突然やってきました。
二階でその子と遊んでいると、下から
あがってくる足音がしました。
見ると巨大な黒人兵でした。

私はあまりのことに仰天。それでも、戦争
直後によくあった話でしょうけれど、
チョコレートをもらいました。
1960年代のことなのに。

その子は、周囲からいじめられ、好奇の目で
みられていたと思います。
あるとき事件が起こりました。
銭湯で、その子がなにを思ったのか、
ションベン小僧そのままのことをしたのです。
いまから考えると、抗議だったのかも
知れません。

私の頭髪のなかには、三角の傷があります。
その傷は、その子が投げた石によって
つけられた唯一の傷です。
私はその子をうらむ気持ちが残っていま
せんから、きっと、私が悪いことをしたのだと
思います。

その子は、やがてハワイに行きました。
米兵が迎えにきてくれたのです。
ほんとうによかったと思いましたが、
さびしく感じました。

米軍がいるということ、そしてこういう事件が
ふたたび起きたということにやりきれなさを
感じます。
1995年の怒り、そして、集団自決問題での
教科書の改変への怒り、辺野古でジュゴンを
守るためにがんばる人たち・・・なんども表明される
怒りや行動が報われる日本を!!

●上の写真は、大津市の御陵団地。
 かつて米軍キャンプがあった場所。
 居住者でそれを知る人がなんにんいるだろうか。

沖縄のFさんへ 平和記念資料館にて2008/01/22

沖縄で活躍中のFさんへ

連絡いただきまして、
ありがとうございます。
「同級生の」と事務所でいわれて
ピンときました。

これは、2002年3月に
長男のK君の卒業記念に
沖縄に行ったときに、
平和記念資料館前で撮った写真です。
入館できず、手持ち無沙汰となり
後ろ手を組んでいるところを
撮られてしまいました(笑)。

私が最初に沖縄に行ったのは、
県民集会が行われた
1995年のことです。
問題が起きたことを契機に、
議員団に随行して訪問して、
県や町の当局者の方と懇談をしました。

二度目が、この旅行でした。
ともに、平和祈念資料館に行ったのですが、
家族といっしょに行ったときは、
運悪く(私の曜日の設定が悪く)、
閉館日でしたので、
入ることができませんでした。
仕方なく、平和の礎を眺め、
公園を散歩してすごしました。
あいにくの雨でしたので、
家族には気の毒なことをしました。

Fさんがこの祈念資料館の設計に
かかわっていおられたことを
誇りに思っています。

私のブログには、ともに過ごした
大津市の風景が多数載っています。
大津に戻られる機会が少ないのなら、
見ていただけたらと思います。

今日は、一日休日にしていただきました。
午前中に、チェリストのヨーヨー・マの
Inspired by Bachというシリーズの
映像作品を見ました。
バッハの無伴奏チェロ・ソナタは、
全部で6つの組曲から成っていますが、
それぞれに異なる芸術家との共同作業を
演奏とともに、映像化しています。
第一番は、自然を連想させる曲ということで、
「ミュージカル・ガーデン」を100万ドルの
寄付をつのって、友人の造園家と共同で
造るというコンセプト。
音楽を庭という形にする作業は、音楽への
感性、それを形にする創造的な設計能力と
資金調達、つまり現実化する企業家としての
能力が求められます。
一度破局しながら、実現されていくプロセス
はとても興味深く、「不可能を可能にする」と
いう言葉どおりの仕事でした。
私は、都市を設計するのも、これ以上に
創造的で、また「不可能を可能にする」
プロセスのように思います。
とても、やりがいがあることですから、
やってみたいと思いました。

そういうお話ができたら、いいですね。

お元気で今後もよいお仕事をしてください。
お会いすることを楽しみにしています。

沖縄県民大会への卑劣な攻撃2007/10/16

 沖縄の怒りの根本に癒せない実体験が横たわっています。
 県民大会の直後などは、政府すら前向きの対応をするようにも、見えました。
 しかし、福田内閣の支持率が安倍内閣時代よりも急上昇し、解散総選挙に追い込まれる危機を脱したように、見えたとたん、卑劣な人身攻撃ともいえるような論調や、数字の問題(県民大会の参加者数)にすりかえた論調が目立つようになりました。
 真実は、一人が主張しても、百万人が主張しても、価値はかわりません。
 それらの論調が恥ずかしげもなく、表に出られるのは、沖縄以外の本土で本格的な米軍との戦闘が行われなかったことと無関係ではないと私は思います。
 そして、戦後、米軍統治下におかれるのを許し、基地がおおう状態を戦後60年以上も続けさせてきた問題も、同じような根があるように思います。
 沖縄は本土から遠く、地続きでもありません。人口も多くはありません。
 そのことが、平和を根本において願っている国民の目から沖縄の問題を遠ざけてきた、自分の問題として、胸の痛みとして、反芻しつづけることを妨げてきたと思います。
 自分の周りの歴史さえも、意識していなければ、見失ってしますのですから、ありえる話です。
 悲惨な歴史を改ざんし、軍隊を美化し、ふたたび戦争ができる国にしようという人たちがいるから、なおさらです。
 多くの国民が沖縄でおきた事件の全体を知らないことをいいことに、そこに国民の側のスキを見つけて、県民大会をバッシングすることは、何重にも、沖縄を裏切ることになります。
 私は、それらは、「アウシュビッツの嘘」同様に裁かれるべきだと思いますし、清算されるべきだと思います。
 以下に引用するのは、そのような卑劣な攻撃のひとつといえます。

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米軍施政下「沖縄戦の真実」封印 検定撤回は将来禍根            
10月16日8時1分配信 産経新聞

 高校日本史教科書の沖縄戦集団自決に関する記述で、「日本軍に強いられた」と書いた教科書に検定意見がつき修正された問題をめぐり、沖縄県の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」実行委員長を務める仲里利信県議会議長は15日、大野松茂官房副長官を首相官邸に訪ね、記述の回復を要請した。一方、有識者らによる「教科書検定への政治介入に反対する会」は同日、再書き換え反対決議を採択した。検定は「軍が命令したかどうかは明らかといえない」と指摘したにすぎず、政府が検定を撤回すれば、将来に禍根を残す。県側が過敏ともいえる反応を示したのはなぜか、背景と事情を探った。(阿比留瑠比、小田博士)

 ■県内からも異論

 昭和20年の渡嘉敷島の集団自決をめぐっては昨年8月、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄氏(83)が産経新聞の取材に対し、「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにした」と証言し、「軍命令」説を否定した。

 照屋氏はこの発言後、「相当な嫌がらせを受けた」(関係者)というが、同様の認識を示す人は沖縄県内にもいる。

 元宜野湾市議の宮城義男氏(83)は「同年配の各市町村の幹部らとの私的な会合では、『軍命令はなかった』『遺族年金をもらうために軍命令にしたということだ』といった話をよく聞いた。しかし、こういう話は表に出ない」と話す。

 宮城氏自身も、陸軍病院などで傷病兵らの看護にあたる「ひめゆり学徒」だった妹を沖縄戦で亡くした経験を持つが、「軍の関与はまぎれもない事実だが、軍命令は推論にすぎない」との立場だ。

 また、泣き声で米軍に見つからないよう、「日本軍により幼児が殺された」とする教科書記述にも異説がある。

 匿名を条件に取材に応じたある地方議員は「老人会でのひそひそ話に耳を疑ったことがある。子供が軍命令で殺されたとして遺族年金をもらっている人について『あの人、本当は自分で殺したんだよね』と話し合っていた」と語る。

 ■米軍施政の呪縛


 集団自決の「軍命令」説を最初に報じたのが、地元紙、沖縄タイムス編の「鉄の暴風」(朝日新聞社、昭和25年初版発行)。作家、大江健三郎氏の「沖縄ノート」など、軍命令を事実と断定する著作の多くは、この「鉄の暴風」の記述・内容を引用したものだ。

 ただ、明星大戦後教育史研究センターの勝岡寛次氏は「この本は全然実証的ではない」と強調する。

 確かに、同書は集団自決の現場での取材は行っていない上、生存者について「不明死を遂げた」としたり、事実関係が違っていたりするなどの不備が少なくない。

 勝岡氏は、同書が米軍施政下の沖縄でラジオ朗読されて広まった経緯や、当初は米軍の「高いヒューマニズム」をたたえていたことなどを例示。連合国軍総司令部(GHQ)が日本人に戦争に対する罪悪感を植えつけた宣伝工作「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」との共通点を指摘し、こう語る。

 「この本の歴史的意味は、沖縄県民の敵を、米国から日本軍へと置き換えさせたことだろう」

 沖縄在住のジャーナリスト、恵隆之介氏は「沖縄では、軍命令を疑う意見は地元紙に一切掲載されず、今も言論統制が行われているのに等しい。戦後、米陸軍第8心理作戦部隊が『沖縄県民は日本国民に差別された。その帰結が沖縄戦の悲劇だ』と反日宣伝を徹底したが、それが定着してしまった」と話す。

 ■慰安婦問題との類似

 今年3月の教科書検定では、集団自決での日本軍の「強制」を示す記述は削除修正されたものの、軍の関与自体はそのまま残っている。

 にもかかわらず、批判が相次ぐことに対しては、「慰安婦問題のときと同じだ」(自民党議員)との指摘がある。

 慰安婦問題では、当初は強制連行の有無が争点だったのに、強制連行の証拠が見つからないと、今度は軍関与自体が問題だとすり替えられた。「『従軍慰安婦』という言葉は戦後の造語であり、当時はなかった」と指摘した学者や議員は、「従軍慰安婦(の存在)を否定する人たち」(土井たか子元衆院議長)とレッテルを張られた。

 平成17年度の高校教科書検定の慰安婦記述では、旧日本軍による強制連行に検定意見が付いたものの、主語のない強制連行の記述は認められた。文部科学省内には「軍の強制性が争われた意味では構図が同じ。今回の政府対応次第で、慰安婦についての軍命令復活を訂正申請する出版社が出てくるだろう」(幹部)との危惧(きぐ)もある。

 ■検定制度揺るがす

 渡海紀三朗文科相は、記述訂正の可否を審査する教科書検定審議会について、検定意見の修正にも柔軟な構えだ。ただ、これには「中国や韓国から同様の働きかけがあったら拒否できるのか」と懸念する声が出ている。中立・公正という検定制度の趣旨をないがしろにすれば、今後、中韓の教科書訂正要求をはねつける根拠は失われかねない。

 「すべての集団自決に軍が関与したというのは不正確だ。大臣に(検定を)撤回する権限があるほど日本は怖い国ではない」

 前文科相の自民党の伊吹文明幹事長はこう指摘し、政治介入はしない方針を貫いていた。一方、後任の渡海氏は「(沖縄県民大会には)あらゆる党派、階層が参加した。従来とは違う。(訂正申請には)真摯(しんし)に対応したい」と方針を転換した。

 教科書執筆者の一人は「沖縄戦の犠牲に対する共感や配慮は必要だが、検定とは分けて考えるべきだ。政府の介入は教育行政において『不当な支配』を禁じた教育基本法第16条に抵触するのではないか」と批判する。

 一方、検定撤回運動を続けてきた沖縄県の教職員組合が6月に作成した資料は「撤回は文科相の政治判断であれば可能。執筆者が訂正申請すれば(撤回の)可能性が生ずる。その時、世論が関係する」と記していた。現実はこのシナリオ通りに進んでおり、政府が対応を誤れば将来に重大な影響を与えることになる。

沖縄県「教科書検定意見撤回を求める県民集会」上京し要請2007/10/16

15日に、沖縄から県民集会の代表が、首相官邸を訪問して、要請文を手渡した。この行動が、マスコミや新聞紙上で大きく取り上げられていないことに、憤りを感じる。

以下は、沖縄タイムスの記事。

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政府、具体策言及せず/教科書検定 再要請

 【東京】沖縄戦「集団自決(強制集団死)」への日本軍の強制を削除した教科書検定問題で、十一万人が参加した県民大会の要請団約百七十人が十五日上京し、仲里利信実行委員長(県議会議長)ら代表十一人と県関係国会議員が首相官邸で大野松茂官房副長官と会談した。検定意見の撤回と記述の回復を含めた四項目を要望。大野副長官は「要望の一つ一つを認識しながら重いものとしてしっかり受け止める」と述べる一方、具体的な対応策に言及しなかった。
 会談は非公開で行われ、仲里委員長は会談後、記者団に「正直なところ、前回の要請とあまり変わりがなかった」と失望感を表明。大野氏が「県民の多くが(大会に)集まったことを政府として重く受け止める」と述べた三日の会談から、官邸の対応に進ちょくがなかったことを強調した。仲里委員長は「(大野氏から)具体的な回答があれば『何回答』『何%』と言えるが、そういうことを言っていないので…」と述べ、実質的な“ゼロ回答”だったとの認識を示した。
 一方で、大野氏から「渡海紀三朗文部科学相に皆さんの意をくんだ形で対処してほしいと伝える」との発言もあったと紹介。これに対しては「大変、ありがたく思う」と謝意を表した。
 要請団の要望は(1)検定意見の撤回と記述の回復(2)教科用図書検定調査審議会の速やかな再開催(3)審議の公開と審議会への沖縄戦研究者の参加(4)沖縄条項の確立―の四点。いずれにも、明確な回答はなかった。
 会談に同席したのは県PTA連合会の諸見里宏美会長、沖縄の未来を語る会(二十二の旧制学校同窓会で構成)の大浦敬文事務局長らと、県関係国会議員九人。諸見里会長は、東中学校の生徒が検定意見の撤回を求める意見書可決を東村議会に要望したことをきっかけに、PTAが活動に加わった経緯を説明。「最初に声を上げた子どもたちの指摘で運動が盛り上がった」として、県民運動の広がりを強調した。大浦事務局長は「沖縄戦の体験者の声を聞いてほしい」と訴えた。
 仲村正治氏(自民)、照屋寛徳氏(社民)、赤嶺政賢氏(共産)の各衆院議員と喜納昌吉氏(民主)、山内徳信氏(社民)、糸数慶子氏(無所属)の各参院議員も発言した。要請団は十六日、数グループに分かれて各政党や教科書会社などを訪ねる。

県、九州知事会に決議案

 沖縄戦での「集団自決(強制集団死)」への日本軍の強制を削除した高校歴史教科書検定問題で、仲井真弘多知事が十八日に那覇市内で開かれる九州地方知事会(会長・金子原二郎長崎県知事)に、県が政府に要望している検定意見の撤回と記述回復などについて、「県の要望に対して真摯な対応」を国に求める決議案を提案することが十五日、分かった。
 決議案では、教科書検定問題をめぐって、県議会や県内全市町村議会で、検定意見の撤回と記述回復を求める意見書が可決されたことや、県内の各界・各層を網羅した超党派による県民大会が開かれたことなどを明記。
 その上で九州地方知事会として、国に対し「沖縄県の教科書検定意見に関する要望に対して真摯な対応」を要望している。同案は全会一致で可決される見込み。
 同知事会には山口県を含む九州各県の知事が参加する予定。

「集団自決」問題で文部科学省が検定見直しを開始2007/10/02

 9月29日の沖縄県民の11万人が参加する大会が、政府を揺るがし、軍の関与を認める方向で検討が開始されました。
 これは、参議院選挙での自民・公明政権の大敗北、
安倍政権の無残な週末と無関係ではないと思われます。
 世論が政治を正していく、この流れをさらに広げたいものです。

「集団自決」の実際を語る生存者の方の話は、衝撃的でした。
それに突き動かされない人はいないと思われます。
軍は、他国民を聖戦の名のもとに虐殺しただけではなく、
自国民をいかに追い詰めていくものなのか。
これらの人たちの体験は、
動かすことのできない事実の重みがあります。

その事実を、教科書検定という形で抹殺することと、
靖国神社の公式参拝、
防衛庁の防衛省への昇格、
憲法改悪、
イラク特措法などは、一連のものです。

現在の日本軍は、かつて激しく戦った米軍とともに、
なぐりこみ戦略のもとで海外派兵を
主任務にするように変質しました。
政府は、国民の納得と参加をえるために、
執拗に歴史を改ざんするのです。

2018年にはこれらの生き証人が
いなくなるといわれてます。
同じ過ちを繰り返さないためにも、
教科書からの削除は
許されることではありません。

沖縄の熱い大会を見て、
私は、戦争の真実を明らかにし、
過去の戦争を美化し、
新たな犠牲者を生み出そうという流れを
追い詰めていくために、
少しでも役立ちたいと思うのです。

ソーキそばが食べたくて2007/09/30

木曜日にTV番組を見ていたH君が
「ソーキそば食べたい」と言い出した。
でも、それは無理と言った私が心のなかで「(食べたい)」

沖縄の県民大会もあることだし(そばとは関係ないけれど)
なんとか食べようと、金曜日の夕方、
まもなく仕事が終わるカミさんにメールを送った。

カミさんは、ネットで調べたらしい。
滋賀県で大津市やその近辺には(少なくともネットで見る限り)、
ソーキそばを食べさせてくれるところがない!!
見つけたのは、県境を越えて京都の山科。
20分で行ける距離。

H君はこの日は、塾。帰りは午後10時。
お店の閉店時間は、午後11時。
「よし、間に合う」ということで、おなかをすかした4人が車に乗って出発。

沖縄の匂いがするお店に満足。
無事、写真にあるソーキそば(お店のスペシャル版)に
ありつくことができました。

いろんな食べ物があったけれど、
名前からはどんな食べ物か想像がつかなくて、
いちいち聞いて、注文しました。

おなかがすいていたので、カメラを持っていくのを忘れる不始末。
ケータイで撮ったうえに、ピンボケ。
そばに申し訳ない。

沖縄の県民大会が成功2007/09/29

 軍による「集団自決」の強要の事実を教科書から抹殺する政府に対する県民の怒りを示す県民大会が、過去最大規模で成功したようです。
 沖縄のみなさんのがんばりに敬意を表します。
 政府は、この怒りを真正面から受け止め、削除を撤回すべきです。

環境省がはじめてジュゴンを絶滅危惧1A類に分類。琵琶湖のニゴロブナは1B類。2007/08/03

 環境省がこの3日に、重い腰を上げた。
 ジュゴンが絶滅危惧1Aにはじめてランクされたのだ。日本では、沖縄本島の周辺にわずか数十頭しかいない。辺野古のたたかいに少しでも力になればいいと思う。
 調査の際の問題点なども指摘されていたようだ。
 このランクづけの意味などわかる人がいたら、コメントをお願いします。

 わが琵琶湖の固有種ニゴロブナは、フナ寿司の材料。外来種に押されて、絶滅の危機にあるとされた。
 実は、私はフナ寿司を食ったことがないのだけれど。

辺野古での事件:平良夏芽さんからの緊急声明を読んでください2007/07/27

辺野古で、非暴力をつらぬいて海をまもっている平良夏芽さんの身に重大な事件がおきました。それについて、夏芽さん自身が声明をだされています。ぜひお読みください。
私は、ばるたんさんから送っていただいた平良さん講演を収めたDVDを見て、だまっていられず、平良あてにメッセージを書きました。身勝手な行動ではありましたが、それにわざわざコメントを送っていただきました。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/06/09/1567352
 その身におきた事件だけに、他人事ではありえないのです。

緊急声明は

http://henoko.jp/info/2007/07/26_000717.html

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)