お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その8 ~第二野戦病院経歴書、豼子窩、海城、小河沿~2011/08/26

 墓碑に刻まれた一見バラバラな日付と死亡場所を、第九聯隊と第二野戦病院の経歴と照らし合わせると、「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の死の具体的な状況が見えてきます。
 これまでも引用しましたが、第4師団第二野戦病院の経歴書の全体を整理すると、つぎのようになります。

■明治27(1904)年

 ○12月 3日 動員完了

■明治28(1905)年

 ○ 2月25日 衛戍地出発
 ○ 同日    廣島到着
 ○ 4月12日 宇品港で乗船
 ○ 4月23日 柳樹屯に上陸
 ○ 4月24日 劉家店に進む
 ○ 同日    劉家店避病室を開設
 ○ 4月26日 沙家屯に至る
 ○ 4月27日 沙家屯舎営病院を開設
 ○ 4月30日 半部を沙家屯に残し、豼子窩に至る
 ○ 同日    豼子窩舎営病院を開設
 ○ 5月14日 唐家屯に至る
 ○ 5月29日 唐家屯を出発
 ○ 6月 9日 海城に到着
 ○ 同日     海城舎営病院を開設
 ○ 6月27日 小河沿で海城分避病院を開設
 ○ 9月15日 海城分避病院を??
 ○12月14日 柳樹屯で乗船
 ○12月18日 宇品港に到着
 ○12月20日 衛戍地に帰還

 第二野戦病院が、4月24日に開設した「劉家店避病室」と同27日に開設した「沙家屯舎営病院」で亡くなった将兵については、これまでに名簿をつくりました。
 それ以後について、死亡した将兵を挙げておきます。
 4月30日に開設した「豼子窩舎営病院」で亡くなったと思われるのは、死亡場所が「豼子窩」と刻まれている以下の兵卒と下士官です。
 5月27日 豼子窩 一等卒 竹原 國吉(163)
 7月 6日 豼子窩 一等卒 伏木 清太郎(50)
 7月30日 豼子窩 一等卒 西川 為吉(54)
 8月 4日 豼子窩 一等卒 浅田 安之助(47)
 8月 8日 豼子窩 一等卒 比澤 兼松(68)
 8月25日 豼子窩 一等卒 安場 貝次郎(204)
 9月 6日 豼子窩 上等兵 小西 留蔵(21)
 9月 7日 豼子窩 二等卒 清水 健吉(75)
 9月12日 豼子窩 一等卒 中田 留吉(2)
 9月14日 豼子窩 二等卒 古田 栄次郎(209)
 9月15日 豼子窩 上等兵 山口 晋吉(112)
 9月18日 豼子窩 二等軍曹 山元 丑之助(B12)
 9月22日 豼子窩 二等卒 藤村 留蔵(193)
10月 4日 豼子窩 一等卒 田辺 平吉(180)
10月13日 豼子窩 二等卒 小谷 友治郎(40)
10月28日 豼子窩 二等卒 伊藤 栄之助(129)
11月 1日 豼子窩 一等卒 大垣 欽三郎(211)
 6月9日開設の「海城舎営病院」で亡くなったと思われるのは、死亡場所が「海城」と書かれている兵卒です。  これらの戦没者のうち、大橋卯三郎については、明治44年の『大津市志』の記述によって、海城舎営病院マラリアで亡くなったことがわかっています。それはすでに紹介したとおりでした。

 また墓碑に「小河沿」と死亡場所が刻まれた墓碑がありますが、これは6月27日に第二野戦病院が小河沿で開設した「海城分避病院」のことだと思われます。
 7月 2日 小河沿 一等軍曹 阪井 晸一郎(B14)
 7月 6日 小河沿 一等卒 善利 岩次郎(5)
 7月 6日 小河沿 上等兵 奥村 徳蔵(58)
 7月 6日 小河沿 輜重輸卒 細江 巳之助(130)
 7月10日 小河沿 上等兵 池辺 喜市(157)
 7月10日 小河沿 二等卒 梅本 門造(160)
 7月12日 小河沿 輜重輸卒 藤田 芳治郎(171)
 7月13日 小河沿 一等卒 井岡 奈良吉(153)
 7月17日 小河沿 一等軍曹 濱田 定一(B10)
 7月24日 小河沿 輜重輸卒 田中 市蔵(111)
 8月 1日 小河沿 一等卒 西口 末治郎(136)
 8月 6日 小河沿 輜重輸卒 北村 鶴吉(132)
10月 6日 小河沿 一等卒 友田 善三郎(119)
 連日、壮健な若者が死んでいっています。しかも、戦闘なしにです。野戦病院のスタッフが全力を尽くさないわけはなく、力が及ばない異常な事態が進行していたことがわかります。

「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 ~その7 金州半島兵站監部 編成表~2011/08/24

金州半島兵站監部 編成表
 「金州半島兵站監部 編成表」(明治28年7月)を、アジ歴で見つけました。これを見ると、第九聯隊が上陸した金州半島(遼東半島の先っぽ)のどこに、どれだけの規模をもつ医療機関を日本軍が配置していたのかが、わかります。
 「編成表」を見ながら、これまでの経過をもう一度、さらってみたいと思います。

 明治28年4月11日と13日に、第九聯隊は廣島の宇品港を出港します。遼東半島の先端の旅順口をへて、14日と16日に大連湾に到達したとあります。
 廣島や船中をのぞけば、最初の死者がでるのは、このときです。旅順口で17日が1名、21日が1名。大連湾で21日に1名。

 「編成表」を見ると、旅順口には、「旅順口兵站病院」がおかれていました。
 二等軍医正が1名、三等軍医が4名、雇医が2名、雇薬剤師が2名、二等看護長が3名、三等看護長が2名、看病人が56名という陣容でした。死亡場所が「旅順口」とされている2名(山本重太郎と駒澤榮太郎)は、旅順兵站病院に船から降ろされて、ここで亡くなったのではないでしょうか。

 大連湾には、「大連湾検疫所」がありました。
 検疫ですから、医療関係者だけではなく、憲兵も配属されていました。それを除くと、一等軍医1名、三等軍医3名、一等看護長1名、三等看護長3名、二等薬剤手1名、看護手7名、看護人17名という体制です。21日に亡くなった1名(隠岐四郎)は、ここで死亡したと思われます。

 第九聯隊全体は、大連湾で船に待機させられ、しばらく柳樹屯に上陸できませんでした。上陸したのは、22日と23日。大連湾に到達してから、一週間以上後のことです。

 柳樹屯には、「柳樹屯兵站病院」がありました。ここが金州半島で最大規模の病院でした。
 二等軍医正1名、兼務の一等軍医1名、三等軍医2名、雇医4名、雇薬剤師2名、一等看護長2名、二等看護長4名、三等看護長2名、看護手8、看護人70名。
柳樹屯兵站病院の文字
 上の墓碑は旧真田山陸軍墓地の第八聯隊の兵卒の墓碑です。病院名が刻まれています。第四師団は第七聯隊(姫路)、第八聯隊(大阪)、第九聯隊(大津)の三つから構成されていました。私が墓碑から明らかにできるのは、第九聯隊だけです。そこだけで、多数の死者を「柳樹屯」で出しています。実際は、3倍程度になったのではないでしょうか。

 墓碑に「柳樹屯」と死亡地が書かれている墓碑の最初は、4月6日の森田阪松ですが、この日付はいまの資料では解明できません。つぎの日付は4月16日(増岡竹治郎)です。下の写真がそれです。
四月十六日柳樹屯歿と刻まれた増岡竹治郎の墓碑
上陸した日付もしくはその2日後ですから、船から降ろされ、ただちに「柳樹屯兵站病院」に運ばれて、治療の甲斐なく亡くなったものと思われます。
 以下、4月17日に木村市太郎、20日に森田友次郎と中川周太郎、21日に津崎辰之助、23日に前川藤市郎、24日に森田徳太郎と吉田市松と田井中重吉、25日に元武勇、26日に菊本萬次郎、27日に川富吉之がなくなりました。
 すべてこの病院だと思われます。金州最大といっても、医者は7人。ほかの聯隊の患者もかかえて、戦場のような有様だったことでしょう。

 なお、第九聯隊は柳樹屯を出発し、24日に沙家屯に到着しています。日程から見て、柳樹屯を経て、ただちに沙家屯にいく予定だったのでしょう。柳樹屯に重篤病人を残し、さらに沙家屯への途中で第二野戦病院が開設した「劉家屯避病室」に病人をあずけて、24日に沙家屯に到着したと思われます。「避病室」は「編成表」に載っていませんから、あくまで臨時的なもの(もともと野戦病院)で、4月29日以降は死者は出ていませんから、そのころに閉鎖したものと思われます。

 「編成表」を見ると、沙家屯には、病院がありません。
 第二野戦病院の「経歴書」には、24日に「沙家屯舎営病院」を解説したとあります。死亡場所が「沙家屯」と刻まれている兵卒らは、この病院で亡くなったと思われます。その規模は、わかりません。

 墓碑の中には、4月24日に「金州」でなくなったと刻まれているものがあります。「金州」にはなにがあったのか。
 「金州兵站病院」がありました。
 一等軍医1名、三等軍医3名、雇医3名、雇薬剤師2名、二等看護長3名、三等看護長2名、看護人50名。
 金州半島には、これ以外には、「大孤山兵站病院兼検疫所」と「営口兵站病院兼検疫所」があっただけでした。

 人間が密集して行動する軍隊という性格を考えたとき、伝染病は最悪の事態です。大連湾からすぐ上陸できなかったのは、医療の受け入れ態勢が整わなかったのかも知れません。しかし、狭い部屋に押し込まれている船中はさらに条件が悪いはずでした。赤痢、腸チフス、コレラなどの事態のもとでは、これら小規模の病院では力不足であったと思いました。

「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その6 ~タイトルの意味~2011/08/24

 『「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争』というタイトルの意味について、書きたいと思います。
 「1名の・・・」は、旧大津陸軍墓地に存在する日清戦争で亡くなった将兵の墓碑の数を意味しています。その一人ひとりが日清戦争でどういう亡くなり方をしたのか知りたいと思いました。それで、2007年に調べ始めました。今回あらためて、その続きをしたいと思ったのは、亡くなった兵卒の一人、中村林蔵さんの関係者の方から、連絡をいただいたことがきっかけでした。資料も写真で送っていただきました。感謝します。
 それらを見ながら、一人の兵卒には、実際の死の物語と死後の物語があることに気がつきました。
 実際の死の物語とは、自らの行動を自ら決める立場にない兵卒が、国が望むままに動かされ、無残な死をどうして迎えたのかという物語です。お気づきでしょうけれど、それは英雄譚ではありません。
 死後の物語とは、本人ではなく、国家や社会が家族をまきこんで、つくりだす物語です。いいかえれば、兵卒ではなく、「英霊」もしくは「軍神」の物語です。
 この二つの物語は、(すべての人がそうだとは言えませんが)、旧大津陸軍墓地にある墓碑と民間墓地に存在する墓碑によって象徴されています。前者は、腰の高さにも及ばない良質とはいえない素材の墓碑です。後者は、巨大で「軍神」にふさわしいものです。
 私は、これら二つを一つの流れとして書きたいと思っています。
 最初に戻りますが、亡くなった人の墓碑の数はタイトルのとおりですけれど、一人ひとりの死の意味は、数ではかれるません。私は、それぞれの死の状況を、可能なかぎり具体的に追いたいという思いをもっています。私の手掛かりは、墓碑に刻まれた死亡場所と死亡年月日だけでした。情報をよせていただける方ができたことで、探究は前に進み始めました。
 戦病死された方に失礼のないように心がけるつもりでいます。以上のよな点をご理解いただき、今後ともご協力をお願いします。
C06061821000

「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その5 ~国家の動きと末端の兵卒の死~2011/08/24

 国家間の動きと末端の兵卒の死がどうからみあっているのかを、あらためて整理することにしました。
 文章ばかりで申し訳ありません。
 明治28年3月19日に李鴻章が下関に到着し、交渉が始まりました。ところが、24日には、日本人の暴漢が、李鴻章を襲撃するという事件が起こり、日本政府は決着を優先することになります。
 それで、3月30日には、休戦条約が結ばれます。第九聯隊が大津市から出征して2日後のことでした。第九聯隊が所属する第4師団は、中国へ深く侵攻する作戦の主部隊として、近衛聯隊とともに、清国にむかうことになっていました。4月11日と13日、第九聯隊は廣島の宇品港から旅順に向けて出港します。
 彼らが遼東半島に向かう途中の17日に、下関講和条約が締結されました。遼東半島、台湾、澎湖列島の割譲、賠償金の支払い、最恵国待遇などの内容でした。あとはその批准でした。
 4月22日と23日に、第九聯隊は柳樹屯に上陸します。それは、「三国干渉」と呼ばれる事件の起こった日にあたります。翌24日に日本政府はそれへの対応を協議します。三国以外の国の干渉の可能性、清国が条約を批准を拒否する可能性などが検討されました。
 一方、第九聯隊は、柳樹屯から沙家屯へ移動しました。その附近を舎営地としました。
 第九聯隊が、遼東半島の沙家屯付近に駐留している間に、政府内で議論がつめられ、5月4日にその放棄が閣議決定されました。翌5日には、干渉した三国にその意図が伝えられました。同8日に清国との間で下関条約が批准されます。
 第九聯隊に移動の命令が下り、豼子窩付近に集合するために、第二大隊と第三大隊は沙家屯を5月12日に出発、13日に王家屯に到着します。27日には、あらたな任務をあたえられて出発し、6月6日に海城に到着しています。そして、その地の防衛を命じられました。第一大隊は別の場所の防衛にあたりました。
 さて国家間の動きに戻ります。日本は三国に放棄は伝えましたが、清国との関係が残っていました。清国との関係では、ただで遼東半島を放棄する意図はありませんでした。交渉を重ねて、11月8日に遼東還付条約をむすび、賠償金をえています。賠償金をもぎとるために、第九聯隊は遼東半島に居座り続けていたことになります。
 遼東半島を放棄する代償をえた日本政府は、撤退命令を下し、11月23日に、第九聯隊は海城を出発し、日本への帰国の道につきました。
 いわば外交のカードを確保するために、遼東半島に駐留したというのが、第九聯隊の「日清戦争」といえると思いました。
 旧大津陸軍墓地の兵卒の墓碑には、様々な中国の地名が刻まれていますが、死亡年月日と場所を照らし合わせれば、第一大隊、第二大隊、および第三大隊の動きに照合していることがわかってきます。
 問題は、戦闘のない駐留がなぜ、これほどの死につながったということです。
 「これほど」と書きましたが、聯隊の規模と照らし合わせてみれば、実感がわくと思います。明治23年11月1日の「陸軍定員令」によれば、平時の聯隊の定員は、おおまかにいえば、将校70名、准士官下士が145名、兵卒1,440名とされています。兵卒の墓碑は、204(台湾を除くと)です。戦時と平時はちがうでしょうけれど、14%ということになります。
 いずれにせよ、遺族の無念さを考えると、軍の医療体制がどうであったのか、十分の手当がうけられたのか---それに目を向けないわけにはゆきません。

「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その4 ~腸カタル、赤痢、マラリヤ、腸チフス~2011/08/23

旧真田山陸軍墓地の墓碑には死亡した病院名が明記されている
 清国との戦争は終わり、中国深く侵攻する予定だった歩兵第九聯隊は、その任務を解除され、下関条約で獲得した遼東半島の守備の任務につきました。しかし、戦闘がないのに、壮健なはずの20代前半の若者がつぎつぎと死亡していきました。
 兵卒だけで見れば、4月には65名、5月には23名、6月には11名、7月には25名、8月には22名、9月には34名、10月には15名、11月には5名が亡くなりました。いよいよ日本に帰還することが許された12月にも、4名。合計204名。将校は1名、下士官は14名。
 歩兵第九聯隊は一部を除いて、明治28年12月の末に、凱旋帰国を果たします。そのなかには、歓呼の声に送られた高島市出身の中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市そして富田媒吉の姿はありませんでした。
 さて、旧大津陸軍墓地の墓碑には、「沙家屯」とだけ刻まれて、それが戦場なのか、病院なのかわからないよういなっています。戦死なのか、戦病死なのか、病死なのかもわかりません。
 一方、旧真田山陸軍墓地には、ほぼ同じ行動をとった第4師団第八聯隊の墓碑があります。碑の側面には、亡くなった病院名がはっきり刻まれています。

 私は、なんとかして、第九聯隊の220名の若者の直接の死因を確認したいと思いました。それを、明治44年の『大津市志』のなかに見つけました。
 「沙家屯」で4月27日に亡くなった兵卒に、大津市出身の井上友次郎がいます(碑文は上の写真)。『大津市志』では、つぎのように書かれています。
大津市下百石町二十一番屋敷
陸軍歩兵上等兵 井上 友治郎
明治三年八月一日生れ
明治二十三年徴兵出身予備役として歩兵第九連隊に属し二十七八年戦役従軍。腸加答留症に罹り清国沙家屯舎営病院に於て明治二十八年四月二十九日死亡。
 同じく9月1日に「大孤山」で亡くなった大津市出身の竹村安次郎。
大津市川町六十八番屋敷
陸軍歩兵一等卒 竹村安治郎
明治二年二月四日生
明治二十二年徴兵出身予備役として歩兵第九連隊に属し、二十七八戦役従軍。赤痢病に罹り明治二十八年九月一日清国大弧山兵站病院に於て死亡。
同じく9月13日に「海城」で亡くなった大橋卯三郎。
大津市玉屋町四番地
陸軍歩兵一等卒 大橋卯三郎
明治六年十月二日生
明治二十六年徴兵出身にして現役として歩兵第九連隊に属し二十七八年戦役従軍。マラリア病に罹り明治二十八年九月十三日清国海城舎営病院に於て死亡。
10月16日に「海城」で亡くなった歩兵一等軍曹・太田末次郎。
大津市和泉町二十五番屋敷
陸軍歩兵軍曹 太田末次郎
明治四年七月二十五日生
明治二十四年徴兵現役として歩兵第九連隊に属し、二十七八年戦役従軍。腸窒扶斯症に罹り、明治二十八年十月十六日清国海城舎営病院に於て死亡。
 すべてがそうだどは言えないかも知れませんが、腸カタル、赤痢、マラリヤ、腸チフス・・・これらが、若者の命を奪った正体でした。

「1名の将校と14名の下士官、そして206名の兵卒」の日清戦争 その3 ~沙家屯と沙家屯舎営病院~2011/08/23

兵卒の墓碑に「沙家屯歿」の文字が見える
 第四師団野戦第二病院は、23日に柳樹屯、24日に劉家店、26日に沙家屯と移動しながら、それぞれの地点で病院を開設していきました。それは、本隊の動きに従って移動していたはずです。
 実際、同じ師団の第九聯隊も、上陸地の柳樹屯から沙家屯近くの舎営地にむけて、移動していました。その都度、野戦病院(柳樹屯兵站病院、劉家店避病室、沙家屯舎営病院)に重篤な下士官と兵卒を残していったものと思われます。
 第九聯隊の「戦役経歴書」には、病死した将校、下士官や兵卒のことは一切触れていません。書かれているのは、つぎの文章です。
・・・金州半島ニ上陸スルノ命令ニ依リ四月二十二日柳樹屯上陸(但シ第一大二大隊ハ・・・二十三日柳樹屯上陸)○二十四日聯隊ノ宿営予定地沙家屯付近ニ在ル西築家屯附近ノ舎営地ニ至ル(但シ第一第二大隊ハ四月二十五日ニ着ス)
 4月24日と25日に、第九聯隊全体が沙家屯付近に到着しました。その直後から、「沙家屯」で死亡する将兵が次々現れます。24日には1名、27日に3名、28日に4名、29日には9名が死亡しています。
 4月24日 沙家屯 二等卒 松本 嘉十郎(41)
 4月27日 沙家屯 一等卒 駒澤 榮太郎(79)
 4月27日 沙家屯 一等卒 西川 一茂(91)
 4月27日 沙家屯 二等卒 井上 友次郎(大津市)(76)
 4月28日 沙家屯 一等卒 小笹 定吉(31)
 4月28日 沙家屯 一等卒 宮本 為蔵(33)
 4月28日 沙家屯 二等卒 福知 虎吉 (97)
 4月28日 沙家屯 一等軍曹 松宮 寅治郎(B06)
 4月29日 沙家屯 一等卒 中嶋 留治郎(伊香郡)(23)
 4月29日 沙家屯 一等卒 藤井 常吉(27)
 4月29日 沙家屯 一等卒 上田 竹之助(36)
 4月29日 沙家屯 一等卒 森 巳之助(大津市)(65)
 4月29日 沙家屯 上等兵 瀧本 金治郎(135)
 4月29日 沙家屯 一等卒 草山 安次郎(137)
 4月29日 沙家屯 一等卒 掛田 三治郎(161)
 4月29日 沙家屯 一等卒 日置 卯市(高島市)(176)
 4月30日 沙家屯 上等兵 村田 捨吉(105)
 4月30日 沙家屯 上等兵 岸田 安太郎(165)
 5月 1日 沙家屯 二等卒 中村 林蔵(高島市)(19)
 5月 1日 沙家屯 一等卒 藤井 政次郎(16)
 5月 1日 沙家屯 上等兵 内田 検次郎(高島市)(39)
 5月 1日 沙家屯 二等卒 奥村 久米蔵(高島市)(139)
 5月 2日 沙家屯 一等卒 岸 駒次郎(52)
 5月 2日 沙家屯 一等卒 石垣 房次郎(77)
 5月 3日 沙家屯 江福 安次郎(174)
 5月 5日 沙家屯 二等卒 井上 嘉市郎(101)
 5月 5日 沙家屯 一等卒 井上 寅松(208)
 5月 5日 沙家屯 一等卒 小林 尚輝(172)
 5月 6日 沙家屯 輜重輸卒 廣瀬 助松(115)
 5月 7日 沙家屯 中尉 伊藤 兼太郎(A15)
 5月 8日 沙家屯 一等卒 川西 吉松(34)
 5月12日 沙家屯 一等卒 吉川 竹松(20)
 5月13日 沙家屯 一等卒 清水 留吉(151)
 5月17日 沙家屯 二等卒 木谷 勇吉(伊香郡)(156)
 その数、4月に18名、5月に14名、合計32名。内訳は、将校1名、下士官1名、兵卒30名でした。
 「その1」で、中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市、そして富田媒吉という旧高島郡出身の若者の名前を挙げました。最後に言及したのは、3月28日、大津営所を市民の歓声で送られるところでした。それから、1カ月と少ししか経ちません。しかし、そのうちの何名の名前がここに出てきます。
 そのうち4名の「日清戦争」は、5月始めまでに、その生涯とともに、終わりました。それを、まとめると、つぎのようになります。

 中村林蔵、日置卯市、内田検次郎および奥村久米蔵は、3月28日に清国との戦争に出征し、4月11日もしくは13日に広島の宇品港を出港。4月22日もしくは23日に金州半島の柳樹屯に上陸。4月24日もしくは25日に沙家屯付近の舎営地に到着。まもなく、沙家屯舎営病院に入院。日置卯市は同29日に、中村林蔵<、内田検次郎および奥村久米蔵は5月1日に亡くなりました。彼らにとっての「日清戦争」は、上陸して10日足らず。無念の最後としかいいようがありません。

(日置卯市の墓碑@旧大津陸軍墓地)
(中村林蔵の墓碑@旧大津陸軍墓地)
(内田検次郎の墓碑@旧大津陸軍墓地)
(奥村久米蔵の墓碑@旧大津陸軍墓地)

 私が彼らの名前を知ったのは、旧大津陸軍墓地にある腰の高さほどの小さな墓碑からでした(上の写真)。
 本人の生きた物語は終わりましたが、実は、死後の物語があります。それについては、あらためて書くことにします。
 「その4」では、死因について見てみたいと思います。

「1名の将校と14名の下士官、そして204名の兵卒」の日清戦争 その2 ~旅順口、大連湾、柳樹屯そして劉家店~2011/08/22

柳樹屯で死亡した陸軍歩兵一等軍曹元武勇の墓碑がある下士官の墓地
 4月11日と13日に分かれて廣島の宇品港を出港した歩兵第九聯隊は、4月14日と16日に大連湾に到達します。しかし、そこに上陸はしませんでした。
 翌17日には、日清講和条約、いわゆる下関条約が締結され、清国は巨額の賠償金を払い、遼東半島と台湾を日本に割譲する約束をしました。大連湾の第4師団(第九聯隊を含む)が、戦うべき戦争は終わっていたのです。
 第九聯隊は中国の心臓部へ向かわず、そのまま遼東半島の守備につくことになり、柳樹屯に上陸しました。そこに着くまでに、さらに3名が亡くなりました。
 4月17日 旅順口 一等卒 山本 重太郎(181)
 4月21日 旅順口 一等卒 駒澤 榮太郎(79)
 4月21日 大連湾 一等卒 隠岐 四郎(44)
 柳樹屯への到着は、公式には、22日と23日になっていますが、墓碑を見ると、その日付よりも早く、亡くなっている兵卒がいます。それは、この場所に、柳樹屯兵站病院があり、そこに重篤患者が運ばれためだと思われます。
 上陸して一週間、「柳樹屯」だけで、一等軍曹を含む13名の若者が病死しています。
 4月 6日 柳樹屯 一等卒 森田 阪松(199)
 4月16日 柳樹屯 上等兵 増岡 竹治郎(166)
 4月17日 柳樹屯 二等卒 木村 市太郎(117)
 4月20日 柳樹屯 一等卒 森田 友次郎(45)
 4月20日 柳樹屯 二等卒 中川 周太郎(141)
 4月21日 柳樹屯 一等卒 津崎 辰之助(83)
 4月23日 柳樹屯 二等卒 前川 藤市郎(62)
 4月24日 柳樹屯 一等卒 森田 徳太郎(123)
 4月24日 柳樹屯 二等卒 吉田 市松(195)
 4月24日 柳樹屯 一等卒 田井中 重吉(198)
 4月25日 柳樹屯 一等軍曹 元武 勇(B05)
 4月26日 柳樹屯 一等卒 菊本 萬次郎(43)
 4月27日 柳樹屯 上等兵 川富 吉之(15)
 上陸地である柳樹屯だけではありません。
 「劉家屯」で、4月22日から4月29日までのわずかの間に、17名が次々と亡くなっています。
 4月21日 劉家店 一等卒  吉川 源一郎(128)
 4月22日 劉家店 二等卒  宮嶋 作彌(69)
 4月25日 劉家店 一等卒  浦谷 亀太郎(6)
 4月25日 劉家店 一等卒  中川 安次郎(53)
 4月25日 劉家店 二等卒  木村 忠氏(60)
 4月25日 劉家店 一等卒  山本 松之助(92)
 4月25日 劉家店 二等卒  西嶋 卯之助(95)
 4月25日 劉家店 輜重輸卒 高橋 伊之助(伊香郡片岡)(113)
 4月25日 劉家店 上等兵  村田 喜治郎(118)
 4月25日 劉家店 一等卒  鎌田 辰治郎(162)
 4月26日 劉家店 一等軍曹 矢杉 安太郎(B09)
 4月26日 劉家店 一等卒  西村 小太郎(89)
 4月28日 劉家店 上等兵  坂口 房吉(11)
 4月28日 劉家店 二等卒  平岩 作次郎(56)
 4月29日 劉家店 二等卒  木下 京松(147)
 4月29日 劉家店 一等卒  里内 松太郎(107)
 4月29日 劉家店 一等卒  中澤 忠右衛門(67)
 なぜ「劉家店」なのか、そこには、なにがあったのか。
 もちろん、戦闘ではありません。病院があったのです。
 「第四師団野戦病院経歴書」には次のような記述が見つかりました。
第四師団第二野戦病院 明治二十七年十二月三日動員完成 第四師団中ニ在テ二十八年二月二十五日衛戍地ヲ出発同日広島ニ到リ四月十二日宇品ニ於テ乗船同月二十三日柳樹屯ニ上陸 四月二十四日劉家店ニ進ミ同日劉家店避病室開設四月二十六日沙家屯ニ至ル 同日沙家屯舎営病院開設 同月三十日皮子窩ニ至リ皮子窩舎営病院開設・・・」

 第九聯隊の兵卒・下士官は、出発前から、または船中から、重大な病気に犯されていたと思われます。出発前に3名、船中で1名、宿営地への上陸をまたずに3名、上陸地点の柳樹屯で13名(4月)、さらに進んで劉家店で17名が亡くなり、次回紹介しますが、宿営地の沙家屯でも4月だけで16名が亡くなっています。
 それ以外の場所でも、4月24日から29日の間に、二等軍曹をふくむ9名が亡くなりました。
 4月24日 金州 上等兵 川勝 善吉(84)
 4月26日 金州 二等卒 胡内 梅太郎(81)
 4月26日 花家屯 一等卒 稲生 竹蔵(177)
 4月27日 花家屯 二等軍曹 中川 彌三郎(B01)
 4月27日 林家屯 一等卒 宇野 治良吉(109)
 4月27日 林家屯 一等卒 阪口 吉松(152)
 4月28日 孫家屯 二等卒 石田 嘉市(93)
 4月28日 孫家屯 一等卒 小嶋 房吉(108)
 4月29日 蔡家店 一等卒 向井 二助(42)
(さらに続く)

「1名の将校と14名の下士官、そして204名の兵卒」の日清戦争 その1 ~大陸到着前の病死者~2011/08/21

「明治廿八年四月十一日於征清戦役軍船中歿」
 旧大津陸軍墓地は陸軍歩兵第九聯隊附属の埋葬地です。日清戦争期に亡くなった将兵を祀る219基の墓碑があります。内訳は、将校1名、下士官14名、兵卒204名です。合計219名の足取りをたどってみます。
 よけいな解説は省きたいと思いますが、日清戦争の場合、戦病死者・病死者が、戦死者の10倍に達した事実を念頭においていただきたいと思います。風邪などではなく、コレラ、腸チフス、赤痢などきわめて感染力の強い伝染病です。
 さて、219名というだけでは、あまりに抽象的です。
   大津市に営所をおく陸軍歩兵第九聯隊のなかには、高島市出身の兵卒も多数入営していました。そのなかに、中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市そして富田媒吉
これらの20代の若者を頭に描きながら、お読み下さい。

 ときは日清戦争期。明治27(1894)年7月23日に戦闘は始まrり、8月1日に、清国と日本が宣戦布告をします。
 宣戦布告までに第5師団、第6師団が動員を終え、8月4日には第3師団、同30日には第1師団、10月上旬には第2師団が動員を終えます。
大津の第九聯隊が所属した第4師団が動員を終えたのは、12月2日のことでした。その頃には、黄海海戦も終わり、旅順口の占領も終わっていました。
 第九聯隊の出征は、さらに遅れ、翌明治28年3月28日のことでした。中村林蔵、福井乙吉、内田検次郎、奥村粂蔵、井花長次郎、大塚長治郎、日置卯市そして富田媒吉は、このときに、多くの市民に送られて大津営所を離れました---そして、二度と戻りませんでした。
 3月はどういう時期だったのか。それは、清国から全権大使・李鴻章が下関に到着し、休戦協議が行われている最中のときでした。出発して2日後に、日清休戦条約が締結されました。それは、第九聯隊が大津を離れて廣島に向かっている途中のことでした。
 中村林蔵らは、まもなく廣島到着にします。廣島で10日間待機したのち、宇品港から4月11日と13日に大陸に向けて出港しました。
 しかし、大陸にむけて船出するまえに、犠牲者が生まれたことが、墓碑の日付からわかります。
4月 6日 一等卒 岩田 夛吉(78)
4月 6日 一等卒 幾田 幾之助(121)
4月11日 二等卒 吉田 清次郎(25)
 これら三つの墓碑には共通して、死亡場所の記述がありません。それは偶然ではないと思います。下の写真は、岩田夛吉の墓碑。

 話はもどります。11日には、第九聯隊第一大隊と第二大隊が出港。13日には同第三大隊が出港しました。
 出港したその日(11日)に、船中で亡くなった下士官がいました。それは、陸軍歩兵特務曹長・尾嵜常人でした。その墓碑(B12)の写真をこの記事のトップに載せました。吉田清次郎には死亡場所が刻まれていませんが、明白に「征清戦役軍航海船中歿」と刻まれています。

 日本軍は、一方で清国と講和条約の交渉を行いながら、4月以降、直隷作戦を第九聯隊を含む第4師団と近衛師団を主力として行う予定でした。第4師団は、廣島にも、船中にも病死者を出しながら、遼東半島に向かいました。しかし、その先には、さらなる不幸が待っていました。

 続きは次回です。

旧大津陸軍墓地のEブロック(日清戦争戦病死兵卒の墓地)名簿~戦病死年月日と場所~2011/08/21

日清戦争の個人墓碑@旧大津陸軍墓地
 旧大津陸軍墓地のEブロックにある207柱(IDは212まで)に刻まれている死亡年月日と死亡場所です。68までは作っていましたが、今回新たに墓碑の写真と照らし合わせながら残りの作業を終えました。改定し、氏名の名簿と合わせていきます。

墓碑の配置が上の方の図で、下の図はそれに大津市が連番を与えたもの。墓地の正面は上です。正面から日清戦争の兵卒の墓地を眺めれば、最前列だけが14基、それ以降は18基づつ並んでいる。トップの写真の最前列の3基は、左から14、13、12の番号の墓碑。

連番 死亡年月日 死亡場所
1 明治28年 9月13日 柳樹屯
2 明治28年 9月12日 豼子窩
3 明治28年 9月 8日 折木城
4 明治28年 7月26日 海城
5 明治28年 7月 6日 小河沿
6 明治28年 4月25日 劉家店
7 明治28年11月 7日 営口
8 明治28年 8月21日 営口
9 明治28年 9月28日
10 明治28年 9月16日 折木城
11 明治28年 4月28日 劉家店
12 明治28年 7月 9日 大弧山
13 明治28年 6月27日 海城
14 明治28年 9月 2日 柳樹屯
15 明治28年 4月27日 柳樹屯
16 明治28年 5月 1日 沙家屯
17 明治28年 8月17日 海城
18 明治28年 8月 7日 海城
19 明治28年 5月 1日 沙家屯
20 明治28年 5月12日 沙家屯
21 明治28年 9月 6日 豼子窩
22 明治28年11月 6日 営口
23 明治28年 4月29日 沙家屯
24 明治29年 2月14日 台湾
25 明治28年 4月11日
26 明治28年11月 1日 営口
27 明治28年 4月29日 沙家屯
28 明治28年 9月 1日 金州
29 明治28年 9月18日 折木城
30 明治28年 8月 9日 海城
31 明治28年 4月28日 沙家屯
32 明治28年 9月11日 金州
33 明治28年 4月28日 沙家屯
34 明治28年 5月 8日 沙家屯
35 明治28年 5月 3日 沙家屯
36 明治28年 4月29日 沙家屯
37 明治28年 7月24日 大孤山
38 明治28年 7月24日 海城
39 明治28年 5月 1日 沙家屯
40 明治28年10月13日 豼子窩
41 明治28年 4月29日 沙家屯
42 明治28年 9月16日 蔡家店
43 明治28年 4月26日 柳樹屯
44 明治28年 4月21日 大連湾
45 明治28年 4月20日 柳樹屯
46 明治28年 9月 6日 大孤山
47 明治28年 8月 4日 豼子窩
48 明治28年 7月26日 海城
49 明治28年12月11日 金州
50 明治28年 7月 6日 豼子窩
51 明治28年 8月18日 柳樹屯
52 明治28年 5月 2日 沙家屯
53 明治28年 4月25日 劉家店
54 明治28年 7月30日 豼子窩
55 明治28年 4月29日 沙家屯
56 明治28年 4月28日 劉家店
57 明治28年 5月 3日 沙家屯
58 明治28年 7月 6日 小河沿
59 明治29年 3月25日 台湾台北
60 明治28年 4月25日 劉家店
61 明治28年 8月11日 海城
62 明治28年 4月23日 柳樹屯
63 明治28年 9月 1日 折木城
64 明治28年 9月25日
65 明治28年 4月29日 沙家屯
66 明治28年12月 6日
67 明治28年 4月29日 劉家店
68 明治28年 8月 8日 豼子窩
69 明治28年 4月25日 劉家屯
70 明治28年 4月22日 読み取り困難
71 明治28年 9月19日 海城
72 明治28年 9月 4日 営口
73 明治28年 9月 8日 金州
74 明治28年 6月24日 柳樹屯
75 明治28年 9月 7日 豼子窩
76 明治28年 4月27日 沙家屯
77 明治28年 5月 2日 沙家屯
78 明治28年 4月 6日
79 明治28年 4月18日 旅順口
80 明治28年 7月13日 営口
81 明治28年 4月26日 金州
82 明治28年 8月23日
83 明治28年 4月21日 柳樹屯
84 明治28年 4月24日 金州
85 明治28年 5月 1日 金州
86 明治28年10月23日 海城
87 明治28年 4月25日 劉家屯
88 明治25年10月30日 折木城
89 明治28年 4月26日 劉家屯
90 明治28年 5月23日 金州
91 明治28年 4月27日 沙家屯
92 明治28年 4月25日 劉家店
93 明治28年 4月28日 孫子屯
94 明治28年 4月28日 沙家屯
95 明治28年 4月25日 劉家屯
96 明治28年 5月10日 杢家屯
97 明治28年 5月 5日 沙家屯
98 明治28年 8月11日
99 明治28年12月 3日 金州
100 明治28年 7月16日 海城
101 明治28年 5月 1日 沙家屯
102 明治28年10月 5日 海城
103 明治28年 7月20日 破廠八重河子
104 明治28年 9月 3日 金州
105 明治28年 4月30日 沙家屯
106 明治28年 9月18日 海城
107 明治28年 4月29日 劉家屯
108 明治28年 4月18日 孫家屯
109 明治28年 4月27日 林家屯
110 明治28年 8月29日 金州
111 明治28年 7月24日 小河沿
112 明治28年 9月15日 豼子窩
113 明治28年 4月25日 劉家屯
114 明治28年 9月21日 海城
115 明治28年 5月 6日 沙家屯
116 明治28年 9月21日
117 明治28年 4月17日 柳樹屯
118 明治28年 4月25日 劉家屯
119 明治28年10月 6日 小河沿
120 明治28年 8月29日 豼子窩
121 明治28年 4月 6日
122 明治28年 4月20日 ??屯
123 明治28年 4月24日 柳樹屯
124 明治28年 7月19日 柳樹屯
125 (墓地の空き地)
126 (士官候補生の墓碑)
127 (墓地の空き地)
128 明治28年 4月25日 劉家屯
129 明治28年10月28日 豼子窩
130 明治28年 7月 6日 小河沿
131 明治28年10月 4日 柳樹屯
132 明治28年 8月 6日 小河沿
133 明治28年 6月20日 折木城
134 明治28年 6月23日 海城
135 明治28年 4月29日 沙家屯
136 明治28年 8月 1日 小河沿
137 明治28年 4月29日 沙家屯
138 明治28年 5月14日 勝家屯
139 明治28年 5月 1日 沙家屯
140 明治28年10月18日 海城
141 明治28年 4月20日 柳樹屯
142 明治28年 7月13日 海城
143 (墓地の空き地)
144 (墓地の空き地)
145 (墓地の空き地)
146 明治28年 8月20日 海城
147 明治28年 4月29日 劉家屯
148 明治28年10月10日 柳樹屯
149 明治28年 6月 8日 林家屯
150 明治28年 6月 8日 柳樹屯
151 明治28年 5月13日 沙家屯
152 明治28年 4月27日 林家屯
153 明治28年 7月13日 小河沿
154 明治28年 9月19日 海城
155 明治28年11月 1日 柳樹屯
156 明治28年 5月17日 沙家屯
157 明治28年 7月10日 小河沿
158 明治28年 6月16日 柳樹屯
159 明治28年 7月24日 海城
160 明治28年 7月10日 小河沿
161 明治28年 4月29日 沙家屯
162 明治28年 4月25日 劉家店
163 明治28年 5月27日 豼子窩
164 明治28年 8月 9日 柳家屯
165 明治28年 4月30日 沙家屯
166 明治28年 4月16日 柳樹屯
167 明治28年 7月29日 大孤山
168 明治28年 7月23日 柳樹屯
169 明治28年 4月25日 劉家屯
170 明治28年 9月 1日 大孤山
171 明治28年 7月12日 小河沿
172 明治28年 5月 5日 沙家屯
173 明治28年10月 6日 海城
174 明治28年 5月 3日 沙家屯
175 明治28年 9月14日 海城
176 明治28年 4月29日 沙家屯
177 明治28年 4月26日 花家屯
178 明治28年 8月10日 金州
179 明治28年 9月 8日 折木城
180 明治28年10月 9日 豼子窩
181 明治28年 4月17日 旅順口
182 明治28年 9月 8日 柳樹屯
183 明治28年 7月10日 海城
184 明治28年10月28日 普蘭店
185 明治28年 8月 4日 営口
186 明治28年 4月27日 孫家屯
187 明治28年10月11日 折木城
188 明治28年 5月 7日 金州
189 明治28年12月 8日 旅順口
190 明治28年 8月10日 営口
191 明治28年 7月15日 海城
192 明治28年10月 5日 営口
193 明治28年 9月22日 豼子窩
194 明治28年 8月11日 金州
195 明治28年 4月24日 柳樹屯
196 明治28年 8月25日
197 明治28年 6月18日 柳樹屯
198 明治28年 4月24日 柳樹屯
199 明治28年 4月 6日 柳樹屯
200 明治28年 9月13日 海城
201 明治28年 5月 1日 金州
202 明治28年 8月 5日 破廠八重河子
203 明治28年 9月 9日 海城
204 明治28年 8月25日 豼子窩
205 明治28年 7月17日 海城
206 明治28年10月 8日 金州
207 明治28年10月11日 折木城
208 明治28年 5月 5日 沙家屯
209 明治28年 9月14日 豼子窩
210 明治28年 8月18日
211 明治28年11月 1日 豼子窩
212 明治28年 7月24日 破廠八重河子
旧大津陸軍墓地Eブロック墓碑名簿

墓地は、琵琶湖側を正面に並べられている。001は、最前列の一番右手の墓碑であり、順次左手に移る。

最前列(向かって右から左へ)

001 二等卒 山本清九郎
002 一等卒 中田 留吉
003 一等卒 丸山 文吉
004 二等卒 吉村 広吉
005 一等卒 善利 岩次郎
006 一等卒 浦谷 亀太郎
007 一等卒 今井 源松
008 一等卒 伊庭 米二郎
009 二等卒 中尾 萬次郎
010 一等卒 新畑 音吉
011 上等兵 阪口 房吉
012 一等卒 上田 猶治
013 一等卒 中村 竹次郎
014 一等卒 楠浦 権之助

二列目

015 上等兵 川富 吉之
016 一等卒 藤井 政次郎
017 一等卒 竹内 栄次郎
018 一等卒 川崎 利吉
019 二等卒 中村 林蔵 滋賀県旧高島郡出身
020 一等卒 吉川 竹松
021 上等兵 小西 留蔵
022 一等卒 井上 幸太郎
023 一等卒 中嶋 留次郎 滋賀県旧伊香郡出身
024 一等卒 小泉 彌太郎
025 二等卒 吉田 清太郎
026 一等卒 勝見 市蔵
027 一等卒 藤井 常吉
028 二等卒 岩井 音松
029 上等兵 横田 勝次郎
030 二等卒 山田 元次郎
031 一等卒 小笹 定吉
032 二等卒 福井 乙吉 滋賀県旧高島郡安曇川町出身

三列目

033 一等卒 宮本 為蔵
034 一等卒 川西 吉松
035 一等卒 北川 十次郎
036 一等卒 上田 竹之助
037 一等卒 三木 房吉
038 一等卒 阪本 竹松
039 上等兵 内田 検次郎 滋賀県旧高島郡出身
040 二等卒 小谷 友治郎
041 二等卒 松本 嘉十郎
042 一等卒 向井 ニ助
043 一等卒 菊本 萬次郎
044 一等卒 隠岐 四郎
045 一等卒 森田 友次郎
046 二等卒 森本 栄三郎
047 一等卒 浅田 安之助
048 二等卒 大伴 圓蔵 滋賀県大津市出身
049 一等卒 宮島 岩松
050 一等卒 伏木 清太郎

四列目

051 一等卒 小和田 三次郎
052 一等卒 岸 駒次郎
053 一等卒 中川 安治郎
054 一等卒 西川 為吉
055 一等卒 矢野 久吉
056 二等卒 平岩 作治郎
057 二等卒 平川 幸造
058 上等兵 奥村 徳蔵
059 一等卒 北川 長松
060 二等卒 木村 忠氏
061 一等卒 六條 伊蔵
062 二等卒 前川 藤市郎
063 一等卒 中川 力蔵 滋賀県旧伊香郡出身
064 一等卒 松田 善松
065 一等卒 森 巳之助 滋賀県現大津市大石学区出身
066 一等卒 土井 友吉
067 一等卒 中澤 忠右衛門
068 一等卒 比澤 兼松

五列目

069 二等卒 宮嶋 作彌
070 一等卒 大橋 政次郎
071 二等卒 青山 伊之助
072 一等卒 宮村 多治郎
073 一等卒 波多野 藤次郎
074 二等卒 大倉 菊次郎
075 二等卒 清水 捨吉
076 二等卒 井上 友次郎 大津市出身
077 一等卒 石垣 房次郎
078 一等卒 岩田 多吉
079 一等卒 駒澤 栄太郎
080 一等卒 梅山 竹二郎
081 ニ等卒 胡内 梅太郎
082 上等兵 久保 槌松
083 一等卒 津崎 辰之助
084 上等兵 川勝 善吉
085 二等卒 有山 信太郎
086 一等卒 宮田 梅吉

六列目

087 二等卒 岩嶋 幸之助
088 一等卒 西田 柳吉
089 一等卒 西村 小太郎
090 二等卒 竹村 藤吉
091 一等卒 西川 一茂
092 一等卒 山本 松之助
093 二等卒 石田 嘉市
094 一等卒 中尾 幸太郎
095 二等卒 西嶋 卯之吉
096 二等卒 森本 民蔵
097 二等卒 福知 虎吉
098 二等卒 森本 徳松
099 一等卒 寺田 吉太郎
100 一等卒 菅井 宇吉
101 二等卒 井上 嘉市郎
102 一等卒 吉原 寅吉
103 二等卒 植田 菊蔵
104 一等卒 安本 仙之助

七列目

105 上等兵 村田 捨吉
106 二等卒 太田 竹松
107 一等卒 里内 松太郎
108 一等卒 小嶋 房吉
109 一等卒 宇野 治良吉
110 一等卒 田尾 栄次郎
111 輜重輸卒 田中 市蔵
112 上等兵 山口 晋吉
113 輜重輸卒 高橋 伊之助 滋賀県旧伊香郡出身
114 二等卒 奥田 亀吉
115 輜重輸卒 廣瀬 助松 滋賀県近江八幡市出身
116 一等卒 稲田 岩太郎 滋賀県大津市出身
117 二等卒 木村 市太郎
118 上等兵 村田 喜治郎
119 一等卒 友田 喜三郎
120 二等卒 堀口 市松
121 一等卒 幾田 幾之助
122 上等兵 井上 市次郎

八列目

123 一等卒 森田 徳太郎
124 二等卒 畠中 熊次郎
125 欠
126 *別の墓碑
127 欠
128 一等卒 吉川 源一郎
129 二等卒 伊藤 栄之助
130 輜重輸卒 細江 巳之助
131 一等卒 村上 米治郎
132 輜重輸卒 北村 鶴吉
133 輜重輸卒 本田 政治郎
134 輜重輸卒 清水 常吉
135 上等兵 瀧本 金治郎
136 一等卒 西口 末治郎
137 一等卒 草山 安次郎
138 一等卒 山田 鶴吉
139 二等卒 奥村 久米蔵 滋賀県旧高島郡出身
140 一等卒 田中 時松

九列目

141 二等卒 中川 周太郎
142 一等卒 坪田 石之助
143 欠
144 欠
145 欠
146 一等卒 松本 岩吉
147 二等卒 木下 京松
148 一等卒 萩野 治三郎
149 輜重輸卒 松村 定吉
150 輜重輸卒 堀居 留治郎
151 一等卒 清水 留吉 滋賀県旧伊香郡出身
152 一等卒 阪口 吉松
153 一等卒 井岡 奈良吉
154 一等卒 前田 繁二郎
155 一等卒 今堀 欽次郎
156 二等卒 木谷 勇吉 滋賀県旧伊香郡出身
157 上等兵 池辺 喜市
158 一等卒 田中 興吉

十列目

159 二等卒 井誥 嘉吉
160 二等卒 梅本 門造
161 一等卒 掛田 三治郎
162 一等卒 鎌田 辰治郎
163 一等卒 竹原 國吉
164 上等兵 前川 常治郎
165 上等兵 岸田 安太郎
166 上等兵 増岡 竹治郎
167 一等卒 松澤 鐵蔵
168 輜重輸卒 丸岡 嘉一郎
169 二等卒 藪内 駒吉
170 一等卒 竹村 安次郎 大津市出身
171 輜重輸卒 藤田 芳治郎
172 一等卒 小林 尚輝
173 一等卒 井花 長太郎 滋賀県旧高島郡マキノ町出身
174 二等卒 江龍 安次郎
175 一等卒 田畑 富蔵
176 一等卒 日置 卯市 滋賀県旧高島郡安曇川町出身

十一列目

177 一等卒 稲生 竹蔵
178 一等卒 松本 鉄次郎
179 一等卒 田辺 長造
180 一等卒 田辺 平吉
181 一等卒 山本 重太郎
182 一等卒 利田 鶴吉
183 一等卒 高橋 彌三吉
184 二等卒 笹井 利三郎
185 二等卒 山田 藤吉
186 二等卒 西尾 丈吉
187 一等卒 今井 久吉
188 二等卒 川上 定吉
189 一等卒 大塚 長治郎 滋賀県旧高島郡新旭町
190 一等卒 谷 傳蔵
191 二等卒 西川 十太郎
192 一等卒 恒木 丈太郎
193 二等卒 藤村 留蔵
194 上等兵 田中 廉次郎

十二列目

195 二等卒 吉田 市松
196 一等卒 森田 定吉
197 輜重輸卒 冨田 楳吉 滋賀県旧高島郡出身
*「高島郡誌」では、「楳」が「梅」と誤記されている。
198 一等卒 田井中 重吉
199 一等卒 森田 阪松
200 一等卒 大橋 卯三郎 大津市出身
201 二等卒 吉田 健吉
202 一等卒 佐々木 藤吉
203 二等卒 井上 直蔵
204 一等卒 安場 貝次郎
205 一等卒 小走 音松
206 一等卒 松本 由之助
207 一等卒 山口 萬吉
208 一等卒 井上 寅松
209 二等卒 古田 栄次郎
210 一等卒 森本 浅吉
211 一等卒 岡崎 藤吉
212 一等卒 大原 欽三郎

陸軍墓地にも朽木村にも墓碑がある「陸軍歩兵一等卒 川崎利吉」2010/11/26

「陸軍歩兵一等卒川崎利吉之墓」@旧大津陸軍墓地
やつしろさんから、コメントをいただきました。
朽木の足利庭園興聖寺の墓地に、「川崎利吉」さんの墓碑があり、墓標によると、日清戦争の戦没者らしく思いました。
  この人の名簿は、日清にも日露にもありません。どうなんでしょうね。
 旧大津陸軍墓地Eブロックに墓碑があるのを見つけました。墓碑につけたID番号は、E018です。→名簿
 このことにより、川崎利吉さんが、陸軍歩兵第九聯隊に所属していたこと、出身地は朽木村であること、そして、日誌戦争期に戦病死したことが判明しました。
 亡くなられた事情は、聯隊の動きを追跡した記事がありますが、とりあえず、明治28年8月7日に海城で亡くなられたことがわかります。

 残る問題は、朽木村出身(のはず)なのに、なぜ、『高島郡志』の日清戦争の戦病死者名簿にないかということです。
 単純に、「もれ」でいいのかも知れませんし、別に理由があることなのかも知れません。判断材料が不足しています。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)