
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
雨に濡れるガクアジサイ ― 2008/06/21
雨にうるむ花 ― 2008/06/21
陸のいそぎんちゃく・・・みたいですね ― 2008/06/21
これは、ヒトデかな ― 2008/06/21
ユリ・・・ですか、これ ― 2008/06/21
小泉親司氏講演:《米軍再編、派兵恒久法と日本の軍事費》 ― 2008/06/21
最初の死亡者@陸軍歩兵第九連隊大津営所 ― 2008/06/21
これまでの記録を繰り返すことにもなるが、旧大津陸軍墓地の墓碑を1柱づつ検証していくことにしたい。
上の墓碑は、「舘源左衛門」の墓碑の右側面である。「明治8年7月15日」という日付が刻まれている。
実は、この兵卒個人のあり方よりも、この日付が注目される(1875年だから、いまから133年も前の日付である。しかしその旧さだけが問題ではない)。
この日付が注目されるのは、これが第九連隊の将兵の墓碑にみる最も旧い日付であるからに他ならない。
文書による記録が見つからないので、「最初の」というのは、問題がないわけではない。しかし、彦根市の大洞埋葬地から移葬された6基の墓碑を除けば、旧大津陸軍墓地最古の墓碑である。それは、大津営所に落ち着き、錬兵が開始されて最初の犠牲者の墓碑ということになる。
話のうえで必要なので、陸軍歩兵第九連隊(明治8年6月以降は、第四軍管大阪鎮台第九師管歩兵第九連隊)の起源について見てみる。
明治政府は、大政奉還後、独自の軍隊の編成にとりかかり、軍防事務局を設置。陸軍編成法をつくり、全国の諸侯に石高1万石毎に兵員10人と軍資金300両を出させることにした。この兵力で、京都の警備に当たらせた。軍防事務局は軍務官となり、明治元(1868)年10月に兵制を定めた。明治2(1869)年7月、軍務官は兵部省となり、本格的に常備軍の編成にむかう。明治3(1870)年12月、各藩常備兵編成法を定め、明治4(1871)年4月にニ鎮台(東山西海ニ道に)、同年8月に4鎮台(東京・大阪・鎮西・東北)に増やし、旧藩兵を招集して入営させた。
この4鎮台の時代、大津市は大阪鎮台第一分営(小浜)の管轄下にあった。ところが、明治4(1871)年12月に、小浜分営となるはずの建物が焼失。彦根に第一分営が移された。そこに入営したのが、壮兵からなる第十八大隊である(この第十八大隊の将兵の墓碑も、旧大津陸軍墓地にある。下の写真がそのうちの5基)。

明治5(1872)年2月、兵部省がなくなり、陸軍省と海軍省となり、同年11月に徴兵令が発せられ、国民皆兵となる。
明治6(1873)年1月に、4鎮台から6鎮台にかわる。大津は第四鎮台(大阪鎮台)の営所となる。だが、大津市には、城郭はなく、三井寺の土地を接収して、あらたに軍事拠点をつくることになった。したがって、その工事に期間が必要であった。このため、彦根分営は、5月まで営所として残された。5月、第十八大隊は、伏見に転営し、彦根営所はなくなった。大津が実質的に営所として機能しはじめるのは、明治8(1875)年3月からである。
明治6(1873)年9月、鳥取・豊岡・北條・足羽・石川の五県の壮兵(士族)で一大隊が編成される。これが予備兵とされ、大阪の備前邸に駐屯。これが第九連隊の起源とされている。この県名は、旧大津陸軍墓地の下士官の墓碑に出身地として刻まれている。
この大隊は、同年12月に歩兵第五大隊とされた。ちなみに、この名称も旧大津陸軍墓地の墓碑に刻まれた経歴のなかに見出すことができる。
第五大隊は、明治7(1874)年2月の佐賀の乱のときには、大津鎮台の警備の任務にあたっている。同年4月、伏見第一営に移動。 明治7(1874)年6月1日、大阪鎮台の各大隊の名称が変わる。すなわち、大阪鎮台は、第八連隊、第九連隊、第十連隊の3連隊からなるものとし、第九連隊は、第五大隊を第一大隊、徴兵からなる大隊を第二大隊とした。連隊長は、竹下彌三郎陸軍中佐。
同年12月に、軍旗の授与式が行われる。

新生第九連隊は、これより先の10月1日に伏見から京都の知恩院(上の写真)の仮兵舎に移る。
明治8(1875)年1月19日、ようやく大津営所の新築が終わる。同年3月18日、第二大隊が大津に移動してくることになる。ここが実質的な軍都としての大津の起点である。
なぜ、第ニ大隊だけなのか?
それは、明治政府が不満をかかえる士族からなる軍に不安をもったからである。このため、同年4月1日、壮兵(士族の志願兵)からなる第一大隊は解散を命じられ、伍長以上だけが京都から大津営所に移ることが許されたのである。ところで、こういう事情も、旧大津陸軍墓地の墓碑文に反映している。
第二大隊は二分され、第一大隊と第二大隊となった。こうして、第九連隊は(兵卒は)徴兵のみの軍隊となったのである。
これから先の歴史は後回しにするが、上の墓碑の日付=明治8年7月15五日は、第二大隊が大津営所へ移動(同年3月18日)後、わずか4ヶ月しかならないことが注目される。
明治8(1875)年の日付をもつ墓碑は、7基存在する。下の写真でいくと、真ん中手前から樹木まで縦にならぶ7基である。

手前から奥へ。
○明治8年 7月15日 舘源左衛門
○明治8年 7月22日 喜多圭三郎
○明治8年 8月29日 荒木彌兵衛
○明治8年10月20日 生田 高基(陸軍伍長)
○明治8年12月 7日 堀田 音吉
○明治8年12月16日 三浦 末吉
○明治8年12月29日 田中米次郎(陸軍伍長)
少なくとも、実際の戦闘行為によらず、これだけの犠牲者が3月から12月の9ヶ月間に出たことになる。
上の墓碑は、「舘源左衛門」の墓碑の右側面である。「明治8年7月15日」という日付が刻まれている。
実は、この兵卒個人のあり方よりも、この日付が注目される(1875年だから、いまから133年も前の日付である。しかしその旧さだけが問題ではない)。
この日付が注目されるのは、これが第九連隊の将兵の墓碑にみる最も旧い日付であるからに他ならない。
文書による記録が見つからないので、「最初の」というのは、問題がないわけではない。しかし、彦根市の大洞埋葬地から移葬された6基の墓碑を除けば、旧大津陸軍墓地最古の墓碑である。それは、大津営所に落ち着き、錬兵が開始されて最初の犠牲者の墓碑ということになる。
話のうえで必要なので、陸軍歩兵第九連隊(明治8年6月以降は、第四軍管大阪鎮台第九師管歩兵第九連隊)の起源について見てみる。
明治政府は、大政奉還後、独自の軍隊の編成にとりかかり、軍防事務局を設置。陸軍編成法をつくり、全国の諸侯に石高1万石毎に兵員10人と軍資金300両を出させることにした。この兵力で、京都の警備に当たらせた。軍防事務局は軍務官となり、明治元(1868)年10月に兵制を定めた。明治2(1869)年7月、軍務官は兵部省となり、本格的に常備軍の編成にむかう。明治3(1870)年12月、各藩常備兵編成法を定め、明治4(1871)年4月にニ鎮台(東山西海ニ道に)、同年8月に4鎮台(東京・大阪・鎮西・東北)に増やし、旧藩兵を招集して入営させた。
この4鎮台の時代、大津市は大阪鎮台第一分営(小浜)の管轄下にあった。ところが、明治4(1871)年12月に、小浜分営となるはずの建物が焼失。彦根に第一分営が移された。そこに入営したのが、壮兵からなる第十八大隊である(この第十八大隊の将兵の墓碑も、旧大津陸軍墓地にある。下の写真がそのうちの5基)。

明治5(1872)年2月、兵部省がなくなり、陸軍省と海軍省となり、同年11月に徴兵令が発せられ、国民皆兵となる。
明治6(1873)年1月に、4鎮台から6鎮台にかわる。大津は第四鎮台(大阪鎮台)の営所となる。だが、大津市には、城郭はなく、三井寺の土地を接収して、あらたに軍事拠点をつくることになった。したがって、その工事に期間が必要であった。このため、彦根分営は、5月まで営所として残された。5月、第十八大隊は、伏見に転営し、彦根営所はなくなった。大津が実質的に営所として機能しはじめるのは、明治8(1875)年3月からである。
明治6(1873)年9月、鳥取・豊岡・北條・足羽・石川の五県の壮兵(士族)で一大隊が編成される。これが予備兵とされ、大阪の備前邸に駐屯。これが第九連隊の起源とされている。この県名は、旧大津陸軍墓地の下士官の墓碑に出身地として刻まれている。
この大隊は、同年12月に歩兵第五大隊とされた。ちなみに、この名称も旧大津陸軍墓地の墓碑に刻まれた経歴のなかに見出すことができる。
第五大隊は、明治7(1874)年2月の佐賀の乱のときには、大津鎮台の警備の任務にあたっている。同年4月、伏見第一営に移動。 明治7(1874)年6月1日、大阪鎮台の各大隊の名称が変わる。すなわち、大阪鎮台は、第八連隊、第九連隊、第十連隊の3連隊からなるものとし、第九連隊は、第五大隊を第一大隊、徴兵からなる大隊を第二大隊とした。連隊長は、竹下彌三郎陸軍中佐。
同年12月に、軍旗の授与式が行われる。

新生第九連隊は、これより先の10月1日に伏見から京都の知恩院(上の写真)の仮兵舎に移る。
明治8(1875)年1月19日、ようやく大津営所の新築が終わる。同年3月18日、第二大隊が大津に移動してくることになる。ここが実質的な軍都としての大津の起点である。
なぜ、第ニ大隊だけなのか?
それは、明治政府が不満をかかえる士族からなる軍に不安をもったからである。このため、同年4月1日、壮兵(士族の志願兵)からなる第一大隊は解散を命じられ、伍長以上だけが京都から大津営所に移ることが許されたのである。ところで、こういう事情も、旧大津陸軍墓地の墓碑文に反映している。
第二大隊は二分され、第一大隊と第二大隊となった。こうして、第九連隊は(兵卒は)徴兵のみの軍隊となったのである。
これから先の歴史は後回しにするが、上の墓碑の日付=明治8年7月15五日は、第二大隊が大津営所へ移動(同年3月18日)後、わずか4ヶ月しかならないことが注目される。
明治8(1875)年の日付をもつ墓碑は、7基存在する。下の写真でいくと、真ん中手前から樹木まで縦にならぶ7基である。

手前から奥へ。
○明治8年 7月15日 舘源左衛門
○明治8年 7月22日 喜多圭三郎
○明治8年 8月29日 荒木彌兵衛
○明治8年10月20日 生田 高基(陸軍伍長)
○明治8年12月 7日 堀田 音吉
○明治8年12月16日 三浦 末吉
○明治8年12月29日 田中米次郎(陸軍伍長)
少なくとも、実際の戦闘行為によらず、これだけの犠牲者が3月から12月の9ヶ月間に出たことになる。

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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