お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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痕跡2008/06/25

この痕跡はおだやかに見ることができますが
 何気ない痕跡が化石となり、数万年後に伝わる・・・ロマンがありますね。
 屋久島で見た生痕化石「ズーフィコス」がそうでした。たまたま泥地で生命活動をする。それが、どういうわけか、現代まで残っている・・・不思議です。
 上の写真も、もしかして化石になるかも?
 団地をつくるために盛土をし、その糊面にコンクリートの壁が造られます。それは、子どもたちの格好のキャッチボールの相手となります。壁に転々とつくボールの痕跡。いつ、だれがつけた痕なのか、わかりませんし、どれほど、この痕跡が残るのかも、わかりません。
 子どもたちの遊んだ姿の化石として1万年後まで残ったら面白いですね。



 でも、おなじタマの痕でも、二つ目の写真はちがいます。
 鹿児島市の城壁に残る西南戦争の銃痕。子どもたちのボールの痕跡を眺めているうちに、普段は考えもしないのですが、今日はこの壁を連想していました。

グランド・ゼロに咲く「ハナミズキ」2008/06/25

グランド・ゼロに咲く「はなみずき」
 YOUTUBEで、一青窈のライヴを見る。
 9・11事件の衝撃で、この歌(「はなみずき」)を創ったことを知る。

本人の語り(←クリック)

 もちろん、歌詞のどこにも、9・11は登場しない。「はなみずき」が返礼という花言葉をもち、日米の間で「サクラ」とともにある役割を果たしたことも書かれていない。なにも知らなくても、胸を打ち、事情を知ればさらに深いものとして聴こえる。
 一青窈を知ったのは、主演映画。プロフィールに、台湾人と日本人のハーフとある。すべての年代でそうだったとはいわないが、いまの彼女はこれをパワーと創造力の源泉にしていると私は感じる。
 「はなみずき」以外にも、「もらいなき」「風車」「お江戸ポルカ」「金魚」・・・どれも気に入っている。本人が、インタビューで”言葉フェチ”と自称しているが、言語感覚は鋭く特異。歌詞はオリジナリティに富む。
 ところで、そのメンタリティは、母親世代に近く、”濃さ”を感じる。昭和の歌謡曲メドレーや井上陽水「ジェラシー」などを聴くとあまりにぴったりなので驚く。

・・・ファンだといえば一言ですむ話なのだけれど(笑)。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)