お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


Google
WWW を検索 このブログ内を検索

河鍋暁斎 《武四郎涅槃図》 友人である松浦武四郎のために描いた図2008/06/11

河鍋暁斎 《武四郎涅槃図》
 京都国立博物館で見た河鍋暁斎の絵のなかで、強い印象を受けたものの一つに《武四郎涅槃図》があります。
 武四郎とは、松浦武四郎のことです。絵の前にあった解説に、この名前を見出したとき、はっとする思いでした。
 松浦武四郎は、北海道の名付け親で探検家でもあります。私がこの名前を知ったのは、三井寺観音堂の上にある「なべの碑」からです。奇妙な名前の碑ですが、文字通り、なべが納められている碑なのです。その持ち主が、松浦武四郎。
 松浦武四郎を知らなかった私は、この人物の業績に瞠目。アイヌの言葉や文化を大切にする人物であり、北海道をはじめ全国を渡り歩いた人だったのです。
 でも、なぜ、滋賀県大津市の三井寺に、しかも「なべ」が碑になっているのでしょうか?知りたいものですが、答えがありません。
 それはさておき、こういう経過から、松浦武四郎を知った私ですが、まさか河鍋暁斎展を見ていて、その名前が登場するなんて思いませんでした。しかも、生前に釈迦の死の場面を描いた涅槃図を模して、描かれた絵があるなんて!恐れ多くないのでしょうか(笑)?
 河鍋暁斎と松浦武四郎の間に交流があったことはあとで知りました。この大胆な絵を描かせた武四郎は相当なタマだと思いましたが、そのとおり描いた暁斎も同様ですね。二人の会話はさぞ興味深かったことと思います。

コメント

_ kiki ― 2009年10月26日 15時37分56秒

武四郎と鍋ですか、初耳です。
涅槃図の検索から来ました。武四郎については少し勉強しましたが、鍋とは・・・・。
また聞いてみる機会があれば、学芸員さんに聞いてみようと思います。
涅槃図を描かれた方のことも知りませんでしたので勉強になりました、ありがとうございます。

_ BIN★→Kikiさん ― 2009年10月26日 16時48分06秒

コメントありがとうございました。
「なべの碑」の文字は読み取りが困難な状態にあります。
テキストがどこかに保存されていれば、もう少し
詳しい事情がわかるのにと残念です。
この碑の成立などについて、私も
知りたいところです。
どうぞ、また起こしください。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://nostalghia.asablo.jp/blog/2008/06/11/3573034/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。

_ BIN★の「この記なんの記」 - 2008年06月12日 00時59分51秒

河鍋暁斎に「武四郎涅槃図」を描かせた松浦武四郎。
その愛用のなべの供養のために建てられたのが、
大津市の三井寺観音堂御幸山にある「なべの碑」
以前にも記事を書いた記憶が

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)