お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
坂本地域から見た比良山@大津市 ― 2008/02/29
大津市は、合併を繰り返して細長いまちをさらに細長くしてきた経過があります。合併する大津市の核となったのは、大津町。そこに膳所、石山、滋賀、坂本などが合併。昭和30年代に堅田、瀬田を合併し、2006年に志賀町を呑み込みました。
旧い人が「大津」といえば、三井寺があり、県庁や市役所があるところ。浜大津港や菱屋町・丸屋町商店街などが浮かぶのでしょう。膳所は膳所藩で有名であり、土塀のある城下町。石山は石山寺を中心とする門前町。坂本は、信長が焼き討ちした延暦寺がある門前町。
これらが合体して、統一したまちが生まれたとは思われません。
それはともかく、大津市では北部にあたる坂本地域は、田畑が残るなかに住宅建設が進む地域です。
そこから、雪をかぶった比良山がきれいに見えました。
こういう風景は、旧大津の北隣の滋賀に入れば、すぐに見られたものですが、いまは、マンション林立ですっかり様相が変わりました。
旧い人が「大津」といえば、三井寺があり、県庁や市役所があるところ。浜大津港や菱屋町・丸屋町商店街などが浮かぶのでしょう。膳所は膳所藩で有名であり、土塀のある城下町。石山は石山寺を中心とする門前町。坂本は、信長が焼き討ちした延暦寺がある門前町。
これらが合体して、統一したまちが生まれたとは思われません。
それはともかく、大津市では北部にあたる坂本地域は、田畑が残るなかに住宅建設が進む地域です。
そこから、雪をかぶった比良山がきれいに見えました。
こういう風景は、旧大津の北隣の滋賀に入れば、すぐに見られたものですが、いまは、マンション林立ですっかり様相が変わりました。
サクラが咲くのが待ち遠しいです ― 2008/02/29
屋根の上のネコ① ― 2008/02/29
屋根の上のネコ② ― 2008/02/29
大津市長「今屋友次郎」と陸軍歩兵第九連隊長としての「今屋友次郎」 ― 2008/02/29
●なぜ、今屋友次郎なのか?
なぜ、いきなり、今屋友次郎が登場するのかですが、旧大津陸軍墓地には、「今屋花子」という墓碑があるのです。1910(明治43)年6月22日に、わずか1歳で亡くなった気の毒な赤子の墓です。
私は、この赤子の墓が、今屋友次郎という人と関係があるはずだと思うのです。なぜなら、この人は、1909(明治42)年から、大津にあった陸軍歩兵第九連隊の連隊長の任にあったからです。
●歴代大津市長のリスト
つぎのリストは、歴代大津市長です。データ提供のつもりで掲載したのではなく、「9代 今屋友次郎」に注目したからです。
私は、陸軍歩兵第九連隊長としての「今屋友次郎」しか知らなかったからです。
●今屋友次郎
大正6年12月1日に予備役ですから、その次の年(大正7年)に大津市長になっているということです。大正7年9月11日から同11年9月10日まで、一期勤めただけで終わっています。なお、娘は、河辺正三(陸軍大将)に嫁いでいます。
なぜ、いきなり、今屋友次郎が登場するのかですが、旧大津陸軍墓地には、「今屋花子」という墓碑があるのです。1910(明治43)年6月22日に、わずか1歳で亡くなった気の毒な赤子の墓です。
私は、この赤子の墓が、今屋友次郎という人と関係があるはずだと思うのです。なぜなら、この人は、1909(明治42)年から、大津にあった陸軍歩兵第九連隊の連隊長の任にあったからです。
●歴代大津市長のリスト
つぎのリストは、歴代大津市長です。データ提供のつもりで掲載したのではなく、「9代 今屋友次郎」に注目したからです。
私は、陸軍歩兵第九連隊長としての「今屋友次郎」しか知らなかったからです。
初代 西村文四郎 明治32年1月24日
大津町長から転身
2代 酒井岩造 明治34年8月29日
3代 村田虎次郎 明治35年4月9日
4代 西川太治郎 明治41年4月9日
5代 田村善七 明治44年2月18日
6代 小川静次郎 大正2年1月16日
7代 藤沢弥三郎 大正4年11月1日
8代 服部慶太郎 大正6年7月25日
9代 今屋友次郎 大正7年9月11日
10代 中井荘七 大正11年10月7日
11代 奥野英太郎 大正15年11月6日
12代 西田与三郎 昭和5年11月22日
13代 堀田義次郎 昭和8年6月21日
14代 早川清三 昭和17年11月19日
15代 森建一 昭和21年12月14日
16代 森田象一 昭和22年4月7日
17代 佐治誠吉 昭和24年9月9日
18代 上原茂次 昭和27年10月14日
19代 西田善一 昭和39年10月6日
20代 山田耕三郎 昭和47年10月6日
21代 山田豊三郎 昭和55年6月15日
22代 目片信 平成16年1月26日
●今屋友次郎
慶応3年2月 生
明治20年7月21日 陸軍少尉
明治42年5月29日 陸軍歩兵大佐・歩兵第9聯隊長
大正1年11月30日 歩兵第30聯隊長
大正4年2月15日 陸軍少将・歩兵第12旅団長
大正6年8月6日 待命
大正6年12月1日 予備役
昭和20年4月 歿
大正6年12月1日に予備役ですから、その次の年(大正7年)に大津市長になっているということです。大正7年9月11日から同11年9月10日まで、一期勤めただけで終わっています。なお、娘は、河辺正三(陸軍大将)に嫁いでいます。
今屋花子の墓(正面)@旧大津陸軍墓地 ― 2008/02/29
今屋花子の墓(左側面)@旧大津陸軍墓地 ― 2008/02/29
今屋花子という赤子が、亡くなった日付と歳が刻まれている痛ましい墓碑です。
旧大津陸軍墓地には、兵士や将校だけが眠っているのではありません。将校の妻、娘、息子なども、ともに眠っています。
将校たちは、生地を離れて日本各地で軍隊に勤務していきます。日本国内にとどまらないかも知れません。そうしたとき、帰るあてもない故郷にではなく、住み慣れた任地の陸軍墓地に自らと縁戚者の墓を置いたのではないでしょうか。
今屋友三郎の場合は、第九連隊長のあと、第30連隊長も経験しています。それは、大津ではないはず。なのに、退役したとき、大津で市長になっています。
なぜ、なんでしょうか?
この幼子の墓と関係があるのでしょうか?
旧大津陸軍墓地には、兵士や将校だけが眠っているのではありません。将校の妻、娘、息子なども、ともに眠っています。
将校たちは、生地を離れて日本各地で軍隊に勤務していきます。日本国内にとどまらないかも知れません。そうしたとき、帰るあてもない故郷にではなく、住み慣れた任地の陸軍墓地に自らと縁戚者の墓を置いたのではないでしょうか。
今屋友三郎の場合は、第九連隊長のあと、第30連隊長も経験しています。それは、大津ではないはず。なのに、退役したとき、大津で市長になっています。
なぜ、なんでしょうか?
この幼子の墓と関係があるのでしょうか?
バックハウス・バッハ・リサイタル(1956) ― 2008/02/29
mixiでマイミクの川さんが、バックハウス(Wilhelm Backhaus、1884年3月26日ライプツィヒ - 1969年7月5日フィラッハ)のイタリア協奏曲を話題にしていました。
私は、その録音を聴いていませんが、かなり自在な演奏だそうです。
このバッハアルバムは、イギリス組曲第6番ニ短調BWV811とフランス組曲第5番ト長調BWV816、そして平均率クラヴィーア曲集から2曲入っています。
1956年の録音ですが、前へ前へと突き進む力強さがあり、ベーゼンドルファーのやわらかく太い音色が心地よく感じます。
バックハウスさんは、ベートーヴェンの直系(ベートーヴェン→チェルニー→リスト→ダルベール→バックハウス)のピアニスト。ただ、ヒトラーがバックハウスさんのファンであったこともあり、宣伝に利用され、戦後アメリカで入国拒否があったとか。
バックハウスさんのバッハ録音は、いったいどれだけあるのでしょうか?
私は、その録音を聴いていませんが、かなり自在な演奏だそうです。
このバッハアルバムは、イギリス組曲第6番ニ短調BWV811とフランス組曲第5番ト長調BWV816、そして平均率クラヴィーア曲集から2曲入っています。
1956年の録音ですが、前へ前へと突き進む力強さがあり、ベーゼンドルファーのやわらかく太い音色が心地よく感じます。
バックハウスさんは、ベートーヴェンの直系(ベートーヴェン→チェルニー→リスト→ダルベール→バックハウス)のピアニスト。ただ、ヒトラーがバックハウスさんのファンであったこともあり、宣伝に利用され、戦後アメリカで入国拒否があったとか。
バックハウスさんのバッハ録音は、いったいどれだけあるのでしょうか?
陸軍中将・村治敏男の経歴 ― 2008/02/29
旧大津陸軍墓地に眠る村治重厚二等軍医正の墓碑には、建立者として、「村治敏男」という文字が刻まれている。
では、いったい、村治敏男とは、どういう人物か?
では、いったい、村治敏男とは、どういう人物か?
村治敏男の経歴大正2年5月26日 陸軍士官学校卒業
大正2年12月25日 陸軍少尉
大正8年12月1日 陸軍大学校入校
大正11年11月29日 陸軍大学校卒業
昭和12年8月2日 陸軍歩兵大佐
昭和12年8月7日 関東軍野戦鉄道参謀
昭和13年6月4日 関東軍野戦鉄道参謀長
昭和13年7月15日 歩兵第22聯隊長
昭和14年8月1日 陸軍少将・第1鉄道輸送司令官
昭和15年6月26日 参謀本部附
昭和15年12月2日 壱岐要塞司令官
昭和17年6月26日 第2野戦鉄道司令官
昭和19年10月26日 陸軍中将
昭和20年2月20日 東部軍司令部附
昭和20年4月1日 大邱師管区司令官
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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