お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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橋下知事は、全体像を示すことが大切2008/02/19

橋下知事をめぐって、たくさんの記事がネット上で出ています。
しかも、「キレル」「朝令暮改」「机上の空論」など刺激的な
内容になっていますし、NHKだけではなく、フジテレビでも、
マスコミとの激論が報道されています。
しかし、私は、橋下さんの個人的資質や言動について、
これ以上書く気にはなれません。ご本人の問題ですから。

しかし、個人の立ち振る舞いのよしあしにとどまらない、
重要な問題があると私は、思いました。

私が危惧するのは、府庁そのものの機能がたちゆくのか、
そして、市町との関係はうまくいくのか、ということです。
そもそも、橋下さんが目指す改革とはなにかということ
につながる問題かも知れません。

過激な改革をしようということを一概に否定するものでは、
ありません。 しかし、職員に改革の全体像が示されず、
刺激的な発言とその撤回のくりかえしでは、
府庁の政策立案機能がうまくいくはずはないと思います。

また、暫定予算をめぐり、市長・町長とのやりとりが
報道されましたが、予算執行のプロセスや府民の生活
などを考えると、「財政再建」一本やりの姿勢は、
人のためにこそ政治があるという根本から、はずれかね
ません。

国と地方自治体との関係をめぐる議論も重要です。
事は、岩国市にかかわる問題だけにとどまりません。

経験不足と自認するならば、もっと謙虚になるべきですし、
180万府民が期待したものがなにかに立ち返って、
奮闘されることだと思いました。

歴史の小さなピースを集めて2008/02/19

国道から見える「旧逢坂山ずい道東口」の看板
テレビ番組の「熱中時間」を久しぶりに見ました。
古い時代のマンホールに熱中されている方の
姿が映っていました。他人には、「だからなに?」
という世界なのでしょうけれど、その姿は、
とてもユーモラスでもあり、魅力的でもありました。

一緒に見ていた息子のK君が
「お父さんと同じ」といって笑っています。

たぶん、去年の夏から熱中している旧陸軍墓地
戦争の遺跡探しのことを言っているのだと思いました。
K君が、どういう意味をこめて言っているのかは、
別にして、私には、うれしく思いました。

熱中できるものがある人生ほど、すてきなものは
ないと思うからです。

熱中という尊敬できる側面と、他人にとっては
「だからなに?」という側面が結びついている
ことがとても個性的であり、人間的なのです。

私も、このブログで、訪問していただく人の都合など
お構いなしに、熱中して記事をかくことがたびたび
ありますが、それでいいのか、悪いのか?
いずれにしても、書かずにはいられないことを
書くのが私にとって、ブログの意味かも知れません。

「歴史の小さなピースを集めて」というタイトルは、
私のブログでの楽しみをあらわしています。

私は、旧大津陸軍墓地の墓碑をいくつかを
このブログで掲載しています。
それを見ていただいた方から、葬られている方の
貴重な情報が寄せられました。中国の方の墓碑
でしたが、なぜ、旧大津陸軍墓地に葬られている
のか、出身地や没年月日まで知ることができました。
ほぼ同時に、「旧逢坂山ずい道」の写真を見て
いただいて方から、このトンネルの由来などを
教えていただきました。

この二つは、すぐには、結びつきませんでした。

墓碑に眠る人たちは俘虜として大津市に連れて
こられましたが、降りた駅が「馬場駅」でした。
なぜ、収容所に近い大津駅じゃないのかと
思っていましたら、1894年の時点では、
大津駅とは現在の京阪浜大津駅のことであり、
収容所にもっとも近いのは「馬場駅」つまり、
現在の膳所駅でした。
しかも、東海道線は、現在のルートではなく、
京都から伏見にむかい、そこからはるか南を
迂回して、トンネルをこえて大津市に入って
いたのです。

そのトンネルこそ「旧逢坂山ずい道」でした。

二人の方の情報がなければ、旧大津陸軍墓地
眠る中国人俘虜の足取りをリアルにたどること
ができなかったでしょうし、旧逢坂山ずい道
いろんな感慨をもって見ることができなかった
と思うのです。

ごく些細なことであり、「だからなに?」の世界
ですが、私には、ブログに感謝する十分な理由
なのです。

ちなみに上の写真は、旧逢坂山トンネル=旧逢坂山ずい道東口

水準点(ベンチマーク)見っけ!2008/02/19

大津市唐崎神社前に水準点がある
第1等水準点を、またひとつ見つけました。
大津市の唐崎神社の入り口です。

国土交通省国土地理院が2キロメートル置きに
設置したもののひとつですから、珍しくもありません。
全国で第1等・第2等あわせて2万箇所だそうです。

近づいてみましょう。

小石(?)がガードする水準点2008/02/19

小石にガードされた水準点
水準点は、水準測量で高さの基準となるもの。
石の場合もあれば、金属の場合もあるそうです。
破損しないように、柵や石でガードされています。

このガードは、小さな石?

これは金属の水準点ですね2008/02/19

唐崎神社前の水準点は金属です
唐崎神社前にある第1等水準点は、
石ではなくて、金属ですね。

私が大津市で最初に見つけた水準点は
このように↓石でした。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2007/09/16/1801620

柱石の破壊など機能を損ねる行為をする者は、
測量法の規定により2年以下の懲役又は
100万円以下の罰金に処せられる・・・らしいですよ。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)