お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
ダウンジャケットを忘れて外の散歩はお休みしました ― 2008/02/28
J.S.Bach:Toccata in C minor BWV911 / Angela Hewitt ― 2008/02/28
旧真田山陸軍墓地で西南戦争での第九連隊兵士の墓碑をさがして ― 2008/02/28
「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」の研究発表(3月23日)の準備をはじめることにします。
これまでの到達を思い出しながら、メモとして書いていきます。
●西南戦争と大津市の第九連隊
西南戦争は、近代日本が経験した最大の内戦でした。同時に、徴兵令以後の農民主体の陸軍の力が実戦で試される機会でもありました。
幕末の二度の長州戦争で、古色蒼然とした武士団では近代戦を戦うことができないことは明らかでした。同時に、戊辰戦争後成立した新政府にとって、改革のなかで特権と経済的なよりどころを失った旧士族の不満への対処は重大な問題でした。
ですから、国内制圧のためにも、旧藩兵と旧士族に依拠しない独自の軍隊を創り上げる必要があったわけです。
こういう流れのなかで、全国に四鎮台が置かれ、大阪鎮台の分営として大津に第九連隊の宿営地が築かれるのです。
こうして、明治の初めから、大津市は、数少ない新政府の軍事拠点のひとつになるのです。
そして、宿営地の付属した埋葬地が旧大津陸軍墓地の前身です。
第九連隊が本格的な戦争を経験する機会は、結成されてからわずか2、3年で訪れます。それが西南戦争です。
●西南戦争の兵士の犠牲者はどこに眠るか
多数の犠牲者をだしますが、その死者は、旧大津陸軍墓地には埋葬されていません。
戦死者の墓碑は、熊本や鹿児島などの戦場の官営墓地にあります。傷を受けたり、病気になった兵士は、大阪陸軍臨時病院に収容され、そこで死亡した場合は、旧真田山陸軍墓地に葬られます。
第九連隊としての記念碑は、大津市の三井寺の山中、御幸山に現在も人知れず聳えています。
●旧真田山陸軍墓地にて
私が大阪市の玉造にある旧真田山墓地を訪れた目的のひとつは、大津市に宿営地をもっていた第九連隊の西南戦争での兵士の墓碑をさがすことでした。
1月の末日に二度目の訪問をしました。
この日、最初に見つけたのは上の墓石です。
正面には、「大阪鎮台歩兵第九連隊第三大隊第四中隊 二等卒 鶴濱久右衛門墓」と刻まれ、左側面には、「明治十年鹿児島県賊徒征討之役九月二日罹病十月三日歿大阪陸軍臨時病院時二十三年十月」と刻まれています。
つまり、1877年9月2日に戦場で病気となり、大阪陸軍臨時病院に運ばれたが、一ヵ月後の10月3日に死亡。23歳10ヶ月の命だったということです。
(この墓碑は以前にも紹介したことがあります。)
これまでの到達を思い出しながら、メモとして書いていきます。
●西南戦争と大津市の第九連隊
西南戦争は、近代日本が経験した最大の内戦でした。同時に、徴兵令以後の農民主体の陸軍の力が実戦で試される機会でもありました。
幕末の二度の長州戦争で、古色蒼然とした武士団では近代戦を戦うことができないことは明らかでした。同時に、戊辰戦争後成立した新政府にとって、改革のなかで特権と経済的なよりどころを失った旧士族の不満への対処は重大な問題でした。
ですから、国内制圧のためにも、旧藩兵と旧士族に依拠しない独自の軍隊を創り上げる必要があったわけです。
こういう流れのなかで、全国に四鎮台が置かれ、大阪鎮台の分営として大津に第九連隊の宿営地が築かれるのです。
こうして、明治の初めから、大津市は、数少ない新政府の軍事拠点のひとつになるのです。
そして、宿営地の付属した埋葬地が旧大津陸軍墓地の前身です。
第九連隊が本格的な戦争を経験する機会は、結成されてからわずか2、3年で訪れます。それが西南戦争です。
●西南戦争の兵士の犠牲者はどこに眠るか
多数の犠牲者をだしますが、その死者は、旧大津陸軍墓地には埋葬されていません。
戦死者の墓碑は、熊本や鹿児島などの戦場の官営墓地にあります。傷を受けたり、病気になった兵士は、大阪陸軍臨時病院に収容され、そこで死亡した場合は、旧真田山陸軍墓地に葬られます。
第九連隊としての記念碑は、大津市の三井寺の山中、御幸山に現在も人知れず聳えています。
●旧真田山陸軍墓地にて
私が大阪市の玉造にある旧真田山墓地を訪れた目的のひとつは、大津市に宿営地をもっていた第九連隊の西南戦争での兵士の墓碑をさがすことでした。
1月の末日に二度目の訪問をしました。
この日、最初に見つけたのは上の墓石です。
正面には、「大阪鎮台歩兵第九連隊第三大隊第四中隊 二等卒 鶴濱久右衛門墓」と刻まれ、左側面には、「明治十年鹿児島県賊徒征討之役九月二日罹病十月三日歿大阪陸軍臨時病院時二十三年十月」と刻まれています。
つまり、1877年9月2日に戦場で病気となり、大阪陸軍臨時病院に運ばれたが、一ヵ月後の10月3日に死亡。23歳10ヶ月の命だったということです。
(この墓碑は以前にも紹介したことがあります。)
「二等卒 鶴濱久右衛門」の墓碑@西南戦争 ― 2008/02/28
庶民の立場から、日本陸軍形成の意味を見つめる ― 2008/02/28
私の基本的立場は、「庶民の立場から、近代陸軍形成の意味をみつめる」というものです。
具体的には、どういうことか?
明治政府の立場からいけば、旧藩兵や士族にたよらない陸軍の形成は、「富国強兵」の不可欠な要素でした。ですから、明治6年からの徴兵令は、その前提の形成となります。
しかし、庶民の立場からいえば、徴兵令は(学制令と同じく)大切な労働力の徴発と最悪は死を意味します。ですから、徴兵逃れが広がります。これへの対策に政府が苦しむのは当然です。そして、強制力だけでは維持できませんから、国のために命をささげることを自らの願いとさせるような仕掛けが生まれるのです。
軍隊へ、そして戦争へと庶民がからめとられていく過程が、近代陸軍(日本軍)形成のもうひとつの重要な面です。その面が、旧陸軍墓地の墓碑に映し出されている、それを再構成しようというのが、私の意図です。
ですから、無名の兵士の墓碑から、その人の生きた姿を読み取ろうとしているのです。
さて、旧真田山陸軍墓地に眠る陸軍歩兵第九連隊の若者の墓碑をひとつひとつ見ていきます。
●脚気病で亡くなった兵士
上の写真は、「大阪鎮台歩兵第九連隊第三大隊第二中隊 有井政吉墓」を右側面を中心にみたものです。「明治十年鹿児島県賊徒征討之役八月一日罹脚気病日向国野尻九月一日没大阪陸軍臨時病院時二十三年一月」と刻まれています。
「明治十年鹿児島県賊徒征討之役」とは、いうまでもなく西南の役のことです。
上の兵士は脚気で亡くなったと刻まれています。意外な気がしますが、脚気といえども科学的な治療方法が確立していなかった当時(軍医・森鴎外も間違った見解を維持していた)は、死に至る恐ろしい病気でした。
23歳になったばかりで亡くなったこの若者は、大阪まで搬送されながら、そこで命を落としたことになります。
少しでも生きた姿に迫るために、個人的履歴を(次に)見てみます。
具体的には、どういうことか?
明治政府の立場からいけば、旧藩兵や士族にたよらない陸軍の形成は、「富国強兵」の不可欠な要素でした。ですから、明治6年からの徴兵令は、その前提の形成となります。
しかし、庶民の立場からいえば、徴兵令は(学制令と同じく)大切な労働力の徴発と最悪は死を意味します。ですから、徴兵逃れが広がります。これへの対策に政府が苦しむのは当然です。そして、強制力だけでは維持できませんから、国のために命をささげることを自らの願いとさせるような仕掛けが生まれるのです。
軍隊へ、そして戦争へと庶民がからめとられていく過程が、近代陸軍(日本軍)形成のもうひとつの重要な面です。その面が、旧陸軍墓地の墓碑に映し出されている、それを再構成しようというのが、私の意図です。
ですから、無名の兵士の墓碑から、その人の生きた姿を読み取ろうとしているのです。
さて、旧真田山陸軍墓地に眠る陸軍歩兵第九連隊の若者の墓碑をひとつひとつ見ていきます。
●脚気病で亡くなった兵士
上の写真は、「大阪鎮台歩兵第九連隊第三大隊第二中隊 有井政吉墓」を右側面を中心にみたものです。「明治十年鹿児島県賊徒征討之役八月一日罹脚気病日向国野尻九月一日没大阪陸軍臨時病院時二十三年一月」と刻まれています。
「明治十年鹿児島県賊徒征討之役」とは、いうまでもなく西南の役のことです。
上の兵士は脚気で亡くなったと刻まれています。意外な気がしますが、脚気といえども科学的な治療方法が確立していなかった当時(軍医・森鴎外も間違った見解を維持していた)は、死に至る恐ろしい病気でした。
23歳になったばかりで亡くなったこの若者は、大阪まで搬送されながら、そこで命を落としたことになります。
少しでも生きた姿に迫るために、個人的履歴を(次に)見てみます。
脚気で病死「二等卒 有井政吉」(23歳)の墓@西南戦争 ― 2008/02/28
グレン・グールドのバッハ・トッカータ集&インヴェンションとシンフォニア ― 2008/02/28
花を撮らせてください ― 2008/02/28
イオンモール出店反対とまちづくりを考える会の「公開質問状」@2008大津市長選挙 ― 2008/02/28
「イオン出店反対とまちづくりを考える会」(代表世話人=池端武士、小西喜代次、馬杉光則)が、2008年1月の大津市長選挙(1月13日告示、20日投票)の3人の候補者に1月8日付けで送った公開質問状の全文です。
選挙そのものはすでに終わっていて、現職の目片信氏が当選されました。
その結果はともかくとして、イオンモールやまちづくりの問題など、今後も焦眉の問題であることはまちがいありません。これらに関心をもっておられる方の参考になればと思い、3名の候補者の回答ともども掲載します。
ちなみに、会に対して、1月10日の期限までに3候補とも回答が寄せられました。ありがとうございます。回答は以下にあります。
●目方信氏の回答
●井上敏一氏の回答
●黄瀬紀美子氏の回答
選挙そのものはすでに終わっていて、現職の目片信氏が当選されました。
その結果はともかくとして、イオンモールやまちづくりの問題など、今後も焦眉の問題であることはまちがいありません。これらに関心をもっておられる方の参考になればと思い、3名の候補者の回答ともども掲載します。
まちづくりについての公開質問状
波乱含みの200年の幕開けとなりました。市民にとっては、税金や各種保険料などの公的負担や福祉や医療費の負担増がますます増えるだけでなく、原油高騰、資材高騰など大きな不安の中での新年となっています。それだけに、市民の暮らしを守る先頭にたつ市長選挙への関心も高まっています。
ご存知のように大津市内には3つの巨大商業施設が駆け込み出店し、大津市の中心市街地や商店街、そして、大津市の今後のまちづくりに大きな影響を与えるのは必至の情勢です。また、交通渋滞や治安・青少年の非行など住環境についての不安も広がっています。
そこで、大型店出店とまちづくり、住環境について立候補者皆さんの方針をお聞きしたく下記の点を質問させていただきます。告示を数日後に控えてのお忙しい時だと存知ますが、10日午後5時までに回答いただきますようお願い致します。尚、ご回答については可能な限り広報し、市民の選択に役立つようにしたいと思っております。
1.イオンモールや守山リゾートSCは大津市外での開業ですが、イオンモールによって大津市の中心市街地の膳所、石山、瀬田地域が、守山リゾートSCによっては堅田地域が直接の大きな影響を受け、また、大津市全体の小売業も影響を受けることは必至です。
イオンモール、守山リゾートSCから大津市の中心市街地や商店街を守る施策をお聞きしたい。また、2社に対し「大津市の権限外」とか「広域行政は件の責任」などの制約はありますが、大津市の街や住環境を守るため2社と直接交渉なども含め、どう対応されるのかお聞きしたい。
2.イオンモール、守山リゾートSC、フォレオ大津・一里山店の出店による深刻な交通渋滞に不安が広がっています。予想される交通渋滞についての認識と対策をお聞きしたい。
3.イオンモール、守山リゾートSC、フォレオ大津・一里山店の深夜営業による青少年の教育環境や治安への心配も広がっています。このことへの認識と対策をお聞きしたい。
4.昨年11月30日から新まちづくり3法が施行され、多くの自治体で新たなまちづくりが検討されています。今後の大津市のまちづくりについてお聞きしたい。
以上4点について、勝手なお願いで申し訳ありませんが、広報の関係で簡潔にお願い致します。ご回答につきましてはFAXでお願い致します。
ちなみに、会に対して、1月10日の期限までに3候補とも回答が寄せられました。ありがとうございます。回答は以下にあります。
●目方信氏の回答
●井上敏一氏の回答
●黄瀬紀美子氏の回答
公開質問状への回答@2008大津市長選挙 目片信氏 ― 2008/02/28
「イオンモール出店反対とまちづくりを考える会」が、2008年1月、大津市長選挙にあたって、候補者・目片信現市長に「まちづくりについての公開質問状」を送りました。その回答です。
以上でした。
公開質問状へのご協力・ご回答ありがとうございました。
平成20年1月10日
イオン出店反対とまちづくりを考える会
代表世話人様
目片信
まちづくりについての公開質問状に対する回答
商業施設の出店についてのお尋ねに対し、大津をもっと元気にし、誰もががずっとすみ住み続けたいとを思うことのできるようなまちづくりを目ざす立場から次のとおり回答します。
1.「中心市街地や商店街を守る施策」をよび「イオンモール草津、守山リゾートSCへの対応」
中心市街地や商店街を守るため、近く、国に対し「中心市街地活性化基本計画」の認定申請を行う予定であり、民間主体の「まちづくり会社」を設立して、にぎわい創出の取組を進めるとともに、引き続き、商店街が実施する活性化事業を積極的に支援します。
また、「イオンモール草津」および「守山リゾートSC」の出店について、これまで、指導権限を持つ県、さらには事業者との協議を重ねてきましたが、今後、大規模小売店舗立地法の手続きの中で、まちづくり3法改正の趣旨を踏まえ、本市の生活環境を守るため、しっかりと意見を述べていきます。
さらに、大規模小売店舗の<事業者が地域と連携してまちの活性化に取り組むなど、企業としての社会的責任を十分に果たしていただくためのシステムづくりにも力を入れていきたいと考えています。
2. 「予想される交通渋滞についての認識と対策」
大規模店舗は、主としてマイカーによる来店を見込んでおり、出店にともなって周辺道路の渋滞が懸念されることから、私としては、地域の皆さまの立場に立って、周辺環境に悪影響を及ぼさないよう、様々な手法を用いて適切な対応をしていく考えです。
まず、「フィレオ大津・一里山」については、開発協議に基づき、事業者が、必要な道路整備を実施しています。また、地元説明会で住民の方々が要望された道路整備については、事業者と協議を進め、実現されるよう指導しています。
「イオンモール草津」および「守山リゾートSC」は、市外への立地であり、本市には指導権限がありませんが、今後とも、権限をもつ滋賀県と協議するとともに、事業者に対しても、直接、交通渋滞対策等、地元への誠意ある対応を強く求めていきます。
また、イオンモール草津の渋滞対策に関しては、主要地方道近江八幡大津線の円滑な交通の流れを確保するため、右折レーンの設置をいたします。
3.「深夜営業による青少年の教育環境や治安についての認識と対策」
次代を担う青少年の健全育成は、私たち大人の責務であり、社会全体で取り組むべき重要なことと考えており、深夜営業については、事業者と協議して理解と協力を求め、青少年が健やかに成長できる環境を守っていきます。
また、治安の維持については、周辺道路の証明設備を整備や、事業者において営業終了後、駐車場を閉鎖していただく等の具体策を講じるとともに、各地域の自主防犯活動を積極的に支援するなど、安心・安全のまちづくりを進めます。
4.「新まちづくり3法の施行を踏まえた今後の大津市のまちづくり」
まちづくり3法改正の主要な目的は、市街地が無秩序に郊外へ広がることを抑制し、都市機能をまちなかに集中させることにより、コンパクトで活力ある都市形成を促進しようというもので、大津市も、こうした趣旨を踏まえ、少子高齢化が進む中、持続可能なまちづくりを進めていきたいと考えています。
そこで、平成19年度からスタートした「大津市国土利用計画」において、①水と緑にあふれた自然環境の魅力の向上、②歴史資源や特性を活かした地域の個性化、③活力ある交流の舞台となる中心市街地づくり、④暮らしやすいコンパクトな生活圏づくり、という4つの基本方向を定めたもので、今後、元気と魅力にあふれたまちづくりをめざし、「決断と実行」で様々な施策に取り組んでいきます。
以上でした。
公開質問状へのご協力・ご回答ありがとうございました。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント