お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
旧真田山陸軍墓地と旧大津陸軍墓地の墓碑のちがい ― 2008/02/21
申し訳ありませんが、関心のない方には、マニアックと思われるような記事を書きます。3月23日に研究発表をするために、いくつか問題を整理しておきたいのです。
旧真田山陸軍墓地は、墓碑数からいけば、旧大津陸軍墓地の10倍の規模にあたります。
私にとって印象的だったのは、①軍夫の墓地があること、そして、②全国各地から参戦した西南戦争の犠牲者の墓碑があることでした。もちろん、そのなかに、大津市に営舎をもっていた陸軍歩兵第九連隊の兵士の墓碑も見ることができます。
日清戦争以降は、大阪に営舎をもつ陸軍歩兵第四師団第八連隊の墓碑が主になっていきます。ですから、大津の第九連隊の墓碑はないと思われます。
日清戦争は、第八連隊も第九連隊も同じ第四師団ですから、ほぼ同じように出征し、同じような地点で守備任務につき、同じような形で犠牲者を出しています。
しかし、二つの墓地に眠る日清戦争の墓碑を見ると、旧真田山陸軍墓地と旧大津陸軍墓地では、表記の仕方がちがいます。
旧真田山墓地のほうが詳しく刻まれています。
旧大津陸軍墓地を調べていて、戦死なのか、病死なのかわからないこともあったり、亡くなった場所が、戦場なのか、それとも病院なのかがわからないことがありました。
たとえば、大津市では「於営口」とだけあるおですが、真田山では、病院名が記されいます。
以上の点を以下何枚かの写真で紹介しておきたいと思います。
旧真田山陸軍墓地は、墓碑数からいけば、旧大津陸軍墓地の10倍の規模にあたります。
私にとって印象的だったのは、①軍夫の墓地があること、そして、②全国各地から参戦した西南戦争の犠牲者の墓碑があることでした。もちろん、そのなかに、大津市に営舎をもっていた陸軍歩兵第九連隊の兵士の墓碑も見ることができます。
日清戦争以降は、大阪に営舎をもつ陸軍歩兵第四師団第八連隊の墓碑が主になっていきます。ですから、大津の第九連隊の墓碑はないと思われます。
日清戦争は、第八連隊も第九連隊も同じ第四師団ですから、ほぼ同じように出征し、同じような地点で守備任務につき、同じような形で犠牲者を出しています。
しかし、二つの墓地に眠る日清戦争の墓碑を見ると、旧真田山陸軍墓地と旧大津陸軍墓地では、表記の仕方がちがいます。
旧真田山墓地のほうが詳しく刻まれています。
旧大津陸軍墓地を調べていて、戦死なのか、病死なのかわからないこともあったり、亡くなった場所が、戦場なのか、それとも病院なのかがわからないことがありました。
たとえば、大津市では「於営口」とだけあるおですが、真田山では、病院名が記されいます。
以上の点を以下何枚かの写真で紹介しておきたいと思います。
旧真田山陸軍墓地で第15回研究報告会 ― 2007/12/08
11月24日に、旧大津陸軍墓地の見学会をしたときに、小田康徳理事長に来ていただいたこともあり、12月8日の「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」の第15回研究報告会には、時間を割いて出席することにしました。
研究報告会では、「第一次世界大戦史下の日独戦争と大阪俘虜収容所」と題して大阪市史編纂所長の堀田暁生氏が報告しました。
旧真田山陸軍墓地には、ドイツ人俘虜の墓碑が2基建てられています。今見ることのできる墓碑は、氏名だけが刻まれていて、仔細を知る手がかりはそこにはありません。
そもそも大阪の俘虜収容所は、大正区にありました。今日、堀田暁生氏の報告の裏づけとなったのは、俘虜となったドイツ人自身の日記や手紙、そして俘虜であったテェオドール・エアハルトの写真(180枚ぐらい残っている)でした。とくに、エアハルト・アルバムは、本国で偶然発見されたものです。入手した藤井さんのお話では、藤井さんとの出会いがなければ、やがでゴミ箱に捨てられる運命にあったかも知れない記録でした。
私が俘虜の生活を具体的に知るのは、これが初めてであり、どの内容も、興味深いものでした。
研究報告会では、「第一次世界大戦史下の日独戦争と大阪俘虜収容所」と題して大阪市史編纂所長の堀田暁生氏が報告しました。
旧真田山陸軍墓地には、ドイツ人俘虜の墓碑が2基建てられています。今見ることのできる墓碑は、氏名だけが刻まれていて、仔細を知る手がかりはそこにはありません。
そもそも大阪の俘虜収容所は、大正区にありました。今日、堀田暁生氏の報告の裏づけとなったのは、俘虜となったドイツ人自身の日記や手紙、そして俘虜であったテェオドール・エアハルトの写真(180枚ぐらい残っている)でした。とくに、エアハルト・アルバムは、本国で偶然発見されたものです。入手した藤井さんのお話では、藤井さんとの出会いがなければ、やがでゴミ箱に捨てられる運命にあったかも知れない記録でした。
私が俘虜の生活を具体的に知るのは、これが初めてであり、どの内容も、興味深いものでした。
清国陸軍学生教育の件(2)明治42年12月17日 ― 2007/11/22
希望兵科第一第二姓名希望兵科第一第二姓名砲憲王鴻郷憲歩成功騎憲竇家?砲憲呉樹栄憲歩景有輜憲裕文歩憲海福憲騎恩勲憲騎忠興希望経理及各科学生表四名希望兵科第一第二姓名希望兵科第一第二姓名歩経漆英歩経劉文藻経歩高冠英騎経周澂希望測量及各科学生表二十七名希望兵科第一第二姓名希望兵科第一第二姓名測輜張履乾砲測文?宸砲測師瑞章測測陳斑測測陳樹掌歩測張宗福測測張彦臣測測普治測測趙慶瀛測測李済川測測王?言測測鍾毓霊測砲崔振基測測王耀光測測何厚?測測王?希望兵科第一第二姓名希望兵科第一第二姓名測騎欧陽権測砲劉錫田測砲薫漢川測砲任天錫測砲韓復違測砲張泰昌砲測訥全測測岳亮歩測増栄測測文中測測盛業測憲張穆駿 送第三四九号明治四十二年十二月十七日
C04014692900
C04014692900
東京府より夫卒等戦場等に於て非常の死を遂たる節埋葬並妻子養料等の問合(明治5年2月) ― 2007/11/14
資料の漢文がまともに読めない・・・・ ― 2007/11/13
愚痴
アジア歴史資料センターがネット上で公開している資料は、とてもありがたいものです。
検索のコツもわかりだすと、やめられません。
しかし、ここに問題あり。
第一に、旧い文書は漢文調。たとえ、テキストとなっていても、詰めの部分で意味がよくわからないのです。
第二に、原資料。写真になっていて、感動モノなのですが、草書体は、私には歯が立ちません。
なんとか、旧大津陸軍墓地の起源に迫ることができたと思っていますが、最後のツメが・・・こういう問題があって、できない気がします。
残念です。すこし悔しい・・・。
アジア歴史資料センターがネット上で公開している資料は、とてもありがたいものです。
検索のコツもわかりだすと、やめられません。
しかし、ここに問題あり。
第一に、旧い文書は漢文調。たとえ、テキストとなっていても、詰めの部分で意味がよくわからないのです。
第二に、原資料。写真になっていて、感動モノなのですが、草書体は、私には歯が立ちません。
なんとか、旧大津陸軍墓地の起源に迫ることができたと思っていますが、最後のツメが・・・こういう問題があって、できない気がします。
残念です。すこし悔しい・・・。
内務省へ戦死者埋葬地所買入協議(陸軍省 明治10年11月9日) ― 2007/11/13
陸軍墓地は郷土の戦死者の墓地ではない・・・所在地に住む私になにができる? ― 2007/11/12
旧大津陸軍墓地は、この地に駐屯した陸軍歩兵第四師団第九連隊にかかわる墓地。ですから、郷土、たとえば大津市という範囲で収まるものではありません。この当然の事実を、墓碑銘で確認しながら、あらためて考えさせられています。
いったいどの範囲まで及ぶのでしょうか?
そして、そのことの意味はどこにあるのでしょうか?
はるか故郷を離れてここに眠る人たちは、もはや、どこにも身寄りがないのでしょうか?
だとしたら、私になにができるのでしょうか?
いったいどの範囲まで及ぶのでしょうか?
そして、そのことの意味はどこにあるのでしょうか?
はるか故郷を離れてここに眠る人たちは、もはや、どこにも身寄りがないのでしょうか?
だとしたら、私になにができるのでしょうか?
年代別墓碑数(下段)@旧大津陸軍墓地 ― 2007/11/05
バイパス工事のために移設を余儀なくされた下段の年代別墓碑数(1976年に大津市が作成した資料に基づく by BIN★)
年代 | 東側 | 西側 | 合計 |
---|---|---|---|
明治5 | 5 | 0 | 5 |
明治6 | 0 | 0 | 0 |
明治7 | 0 | 0 | 0 |
明治8 | 0 | 0 | 0 |
明治9 | 0 | 0 | 0 |
明治10 | 0 | 1 | 1 |
明治11 | 4 | 15 | 19 |
明治12 | 12 | 15 | 27 |
明治13 | 4 | 9 | 13 |
明治14 | 3 | 4 | 7 |
明治15 | 11 | 8 | 19 |
明治16 | 6 | 6 | 12 |
明治17 | 5 | 6 | 11 |
明治18 | 1 | 1 | 2 |
明治19 | 7 | 8 | 15 |
明治20 | 0 | 5 | 5 |
明治21 | 0 | 3 | 3 |
明治22 | 6 | 0 | 6 |
明治23 | 0 | 2 | 2 |
明治24 | 0 | 3 | 3 |
明治25 | 0 | 3 | 3 |
明治26 | 0 | 0 | 0 |
明治27 | 5 | 1 | 6 |
明治28 | 3 | 2 | 5 |
明治29 | 1 | 3 | 4 |
明治30 | 0 | 4 | 4 |
明治31 | 0 | 0 | 0 |
明治32 | 0 | 0 | 0 |
明治33 | 7 | 0 | 7 |
明治34 | 3 | 0 | 3 |
明治35 | 1 | 0 | 1 |
明治36 | 0 | 1 | 1 |
明治37 | 0 | 0 | 0 |
明治38 | 0 | 5 | 5 |
明治39 | 5 | 0 | 5 |
明治40 | 2 | 4 | 6 |
明治41 | 0 | 1 | 1 |
明治42 | 1 | 1 | 2 |
明治43 | 2 | 0 | 2 |
明治44 | 1 | 0 | 1 |
明治45・大正元年 | 1 | 0 | 1 |
大正2 | 2 | 3 | 5 |
大正3 | 0 | 0 | 0 |
大正4 | 0 | 2 | 2 |
大正5 | 0 | 2 | 2 |
大正6 | 1 | 1 | 2 |
大正7 | 2 | 5 | 7 |
大正8 | 0 | 0 | 0 |
大正9 | 0 | 1 | 1 |
大正10 | 0 | 3 | 3 |
大正11 | 0 | 2 | 2 |
大正12 | 0 | 1 | 1 |
大正13 | 0 | 1 | 1 |
不明 | 1 | 2 | 3 |
合計 | 102 | 135 | 237 |
「大洞陸軍埋葬地」(彦根市)についての情報求む!! ― 2007/11/04
以前にも書いたと思う。
『滋賀県百年年表』(滋賀県)によると、
明治5(1872)年2月28日、『彦根城は第4軍管、第9師管、工兵第4方面、第2圜区(管区)の所管とる。このとき彦根城並に大洞陸軍埋葬地、同火薬庫地の測量行われる』
と書いてある。
この「大洞陸軍埋葬地」は、現在、存在しない。
関連があるとしたら、大洞寺のことか?
ここに、明治4(1871)年12月に
小浜から移転した第18大隊の兵の
墓碑があったのではないかと思っている。
『滋賀県百年年表』(滋賀県)によると、
明治5(1872)年2月28日、『彦根城は第4軍管、第9師管、工兵第4方面、第2圜区(管区)の所管とる。このとき彦根城並に大洞陸軍埋葬地、同火薬庫地の測量行われる』
と書いてある。
この「大洞陸軍埋葬地」は、現在、存在しない。
関連があるとしたら、大洞寺のことか?
ここに、明治4(1871)年12月に
小浜から移転した第18大隊の兵の
墓碑があったのではないかと思っている。
軍人墓標修繕の伺(陸軍省明治16年10月29日) ― 2007/11/04
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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