お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
加藤茂孝『人類と感染症の歴史』(丸善出版2013)を読む ― 2020/06/17
コロナ・パンデミックのなかで、感染症について知りたくて買ってみた。内容には、衝撃をうけたが、語り口の見事さ(物語的な)に救われた。まだ、こなしきれない。加藤茂孝氏は、国立感染症研究所室長。
『琵琶湖と富栄養化防止条例』(1981)の購入 ― 2020/06/22
実は、最近『琵琶湖と富栄養化防止条例』(アイリーン・M・スミス/鈴木紀雄/渡辺武達/編著 市民文化社 1981年)という古書を買いました。
滋賀県議会での次のやり取りを読んだことがきっかけです。
ときは、2019年の11月議会。
佐藤健司県議(当時)の代表質問(12・3)から。
『住民運動を契機に策定された滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例が成立してから40周年を迎えました。言うまでもなく、琵琶湖を取り巻く環境は大きくさま変わりし、当時社会問題となった水質の問題だけでなく、現在の琵琶湖では、外来魚問題や水産資源の減少、外来水生植物や水草の増殖、全層循環に見られるような地球温暖化の影響、プラスチックごみの問題など、多くの新たな課題に直面しています。EBPM──証拠に基づく政策立案の取り組みを進める本県としても、しっかりとした時代認識や、科学的な根拠に基づく新たな琵琶湖政策を進める必要があります。
現在、琵琶湖が貧栄養にあえぐ中で、いつまで琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例を不磨の大典とするのでしょうか。40年前の理念は受け継ぎながら、条例を改正、廃止することや、場合によっては、琵琶湖にかかわる他の条例と統合した新たな条例を制定することについて、見解を伺います。』
知事答弁のその部分
『6点目、富栄養化防止条例の改正、廃止や新たな条例の制定についてもお尋ねいただきました。
これまでの琵琶湖の保全は、水質汚濁対策に代表されるように、人間活動からの過度な環境負荷を削減するという視点を中心に展開してまいりました。琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例も、淡水赤潮にあらわれた人為的な富栄養化に対して制定され、琵琶湖の窒素やリンの濃度が改善するなど、一定の成果を得てきたところでございます。
しかし、その一方で、近年、在来魚介類の減少や水草の大量繁茂などのさまざまな課題が生態系にあらわれており、琵琶湖からの本来の恵みが損なわれている状況にございます。
こうした生態系における課題の解決に向けましては、環境負荷の削減という経済社会活動からの影響の緩和策に加えて、生態系から得られる恵みを経済社会の中で活用につなげ、健全な循環をつくるという視点に立った新たな琵琶湖政策が求められると考えております。
例えば、窒素やリンを削減すべき対象として捉えるだけではなく、在来魚介類につながる琵琶湖の食物連鎖を支える植物プランクトンに必要な物質として捉え、良好な水質と豊かな生態系が両立する水質管理手法を構築していくことなどが考えられます。
こうした新たな取り組みは全国でも先駆的でありますため、科学的な知見を収集しつつ、具体的にどういった取り組みが効果的なのか検討してまいります。将来的には、条例のあり方についても必要に応じて議論をしてまいりたいと存じます。』
滋賀県議会での次のやり取りを読んだことがきっかけです。
ときは、2019年の11月議会。
佐藤健司県議(当時)の代表質問(12・3)から。
『住民運動を契機に策定された滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例が成立してから40周年を迎えました。言うまでもなく、琵琶湖を取り巻く環境は大きくさま変わりし、当時社会問題となった水質の問題だけでなく、現在の琵琶湖では、外来魚問題や水産資源の減少、外来水生植物や水草の増殖、全層循環に見られるような地球温暖化の影響、プラスチックごみの問題など、多くの新たな課題に直面しています。EBPM──証拠に基づく政策立案の取り組みを進める本県としても、しっかりとした時代認識や、科学的な根拠に基づく新たな琵琶湖政策を進める必要があります。
現在、琵琶湖が貧栄養にあえぐ中で、いつまで琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例を不磨の大典とするのでしょうか。40年前の理念は受け継ぎながら、条例を改正、廃止することや、場合によっては、琵琶湖にかかわる他の条例と統合した新たな条例を制定することについて、見解を伺います。』
知事答弁のその部分
『6点目、富栄養化防止条例の改正、廃止や新たな条例の制定についてもお尋ねいただきました。
これまでの琵琶湖の保全は、水質汚濁対策に代表されるように、人間活動からの過度な環境負荷を削減するという視点を中心に展開してまいりました。琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例も、淡水赤潮にあらわれた人為的な富栄養化に対して制定され、琵琶湖の窒素やリンの濃度が改善するなど、一定の成果を得てきたところでございます。
しかし、その一方で、近年、在来魚介類の減少や水草の大量繁茂などのさまざまな課題が生態系にあらわれており、琵琶湖からの本来の恵みが損なわれている状況にございます。
こうした生態系における課題の解決に向けましては、環境負荷の削減という経済社会活動からの影響の緩和策に加えて、生態系から得られる恵みを経済社会の中で活用につなげ、健全な循環をつくるという視点に立った新たな琵琶湖政策が求められると考えております。
例えば、窒素やリンを削減すべき対象として捉えるだけではなく、在来魚介類につながる琵琶湖の食物連鎖を支える植物プランクトンに必要な物質として捉え、良好な水質と豊かな生態系が両立する水質管理手法を構築していくことなどが考えられます。
こうした新たな取り組みは全国でも先駆的でありますため、科学的な知見を収集しつつ、具体的にどういった取り組みが効果的なのか検討してまいります。将来的には、条例のあり方についても必要に応じて議論をしてまいりたいと存じます。』
コロナ後の世界 ― 2020/06/25
新型コロナウィルスによるパンデミックが、利潤第一主義・効率第一主義、まとていえば「新自由主義」が猛威をふるう世界をかえるきっかけになるかもしれないという見解は、いろんな人たちの発言のなかで見られます。
傍観者的に興味深いというのではなく、主体的にかかわりたいなぁと思う次第です。
傍観者的に興味深いというのではなく、主体的にかかわりたいなぁと思う次第です。
「石けん運動」から富栄養化防止条例へ ― 2020/06/25
滋賀県のサイト(「しが水環境ビジネス推進フォーラム」)には、石けん運動の成り立ちの既述がある。
『1.琵琶湖に大発生した赤潮から、住民による「石けん運動」への発展
滋賀県では、高度成長による人口増加や工場立地等により琵琶湖の汚濁負荷が増えたことから、1960年代後半から琵琶湖の水質悪化が問題視されるようになりました。
そうした中、1977年5月、琵琶湖に悪臭を放つ赤褐色のプランクトンの大発生、すなわち「淡水赤潮」が大発生し、その原因の1つとして合成洗剤に含まれているリンであることが分かったため、県民が主体となり、リンを含む洗剤の使用をやめて天然油脂を主原料とした粉石けんを使おうという運動が始まりました。これがいわゆる「石けん運動」です。
■ 石けん運動の様子(1970年代)
1978年には、粉石けんを使おうという機運の中で、主婦層を中心とした「「びわ湖を守る粉石けん使用推進県民運動」県連絡会議」が結成され、この連絡会議が中心となって行政に対して早急な対策を強く要求しました。その結果、1979年の「滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例(富栄養化防止条例)」の制定へとつながりました。 』
『1.琵琶湖に大発生した赤潮から、住民による「石けん運動」への発展
滋賀県では、高度成長による人口増加や工場立地等により琵琶湖の汚濁負荷が増えたことから、1960年代後半から琵琶湖の水質悪化が問題視されるようになりました。
そうした中、1977年5月、琵琶湖に悪臭を放つ赤褐色のプランクトンの大発生、すなわち「淡水赤潮」が大発生し、その原因の1つとして合成洗剤に含まれているリンであることが分かったため、県民が主体となり、リンを含む洗剤の使用をやめて天然油脂を主原料とした粉石けんを使おうという運動が始まりました。これがいわゆる「石けん運動」です。
■ 石けん運動の様子(1970年代)
1978年には、粉石けんを使おうという機運の中で、主婦層を中心とした「「びわ湖を守る粉石けん使用推進県民運動」県連絡会議」が結成され、この連絡会議が中心となって行政に対して早急な対策を強く要求しました。その結果、1979年の「滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例(富栄養化防止条例)」の制定へとつながりました。 』
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント