お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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SLのむき出しにメカニックな部分も魅力2008/02/13

C57128
走っている姿はもう見ることができませんが、むき出しとなっているメカニックな部分に私は魅力を感じました。ブラックボックスが少ないのがいいのか?

「洞門」と「石額」というものについて2008/02/13

琵琶湖疏水第一トンネル東口
「鉄道記念物 逢坂山ずい道東口」を見学したときに、解説の看板を読みました。
 そこに、「石額」という言葉がありました。「石額」「坑門」(トンネル入り口の門)に掲げられた石の額ですね。
 これと似たものを、私は大津市内でいくつか目にしています。
 ただ「石額」という名前は知りませんでした。
 いわれてみれば、そう表現するしかないものですね。

「石額」をネットで検索

 この言葉でネット検索すると、「そすいのさんぽみち~琵琶湖疏水を語る部屋」というサイトに行き着きました。
 このサイトはとても興味深いものでした。
 そして、琵琶湖疏水には6つの「石額」があるのを知りました。
 しかも、それを揮毫(文字をきざんた)したのが、明治の元勲であることに興味をもちました。それは「逢坂山ずい道東口」(多情大臣・三条実美)と同じだからです。
 このサイトの管理人のkankanbowさん(自費出版されています)によれば、以下のようです。

 ①第一トンネル東口 「気象萬千」 伊藤博文
 ②第一トンネル西口 「廓其有容」 山縣有朋
 ③第二トンネル東口 「仁以山悦智為水歓」 井上馨
 ④第二トンネル西口 「随山到水源」 西郷従道
 ⑤第三トンネル東口 「過雨視松色」 松方正義
 ⑥第三トンネル西口 「美哉山河」 三条実美

興味深いですね。
ただ旧国鉄(JR)トンネルについての言及がありません。
調査はこれからですが、
ブログで、写真をいくつかお見せします。

上の写真は、琵琶湖疏水第一トンネル東口です。
洞門が見えますね。その正面に石額が飾られています。
この大きさでは、石額は読めません。

塚崎さんへの感謝をこめて(「中国人兵士の墓」の謎がとけたことに)2008/02/13

清国俘虜が収容されていた本長寺の門
 3月23日に旧大津陸軍墓地について研究発表を「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」ですることになりましたが、なかなか腰が上がりませんでした。作業に集中することになるので、少し気持ちが重かったのです。

 そんなときに、塚崎さんから、再開への大きな刺激をいただきました。

●「中国人兵士の墓」の謎とき

 とくに、「中国人兵士の墓」(2基)が、なぜ、旧大津陸軍墓地にあるのかという”謎”がすっきり解けたことをうれしく思います。
 私は、塚崎さんから指摘を受けるまでは、清国の軍事留学生(学生)の墓だと思っていました。
 それで、そういう受け入れの事例の資料を探し出しては、名前がないか、むなしくチェックしていたのです。

 答えははっきりしましたね。

 大津市に連行された日清戦争の清国人俘虜の墓だったのです。

 ネットにある「アジ歴」で資料も見つけました。

●本長寺

 上の写真は、捕虜が収容されていた本長寺の写真です。

明治27(1894)年10月15日、日清戦争の俘虜100名が大津に到着2008/02/13

 陸軍歩兵第九連隊長・内藤正明から、陸軍大臣代理児玉源太郎宛の明治27年10月20日付けの文書が残っています。

 上の写真は、その一部。

 これによると、100名の清国人俘虜が明治27(1894)年に大津町(現在の大津市)に到着したことが報告されています。
 俘虜は軍曹以上の階級はなく、また赤痢などの病気に罹っているものがいることも報告されています。
 健康なものは、大津別院に、感染しているものは、本長寺に収容したとあります。

C06060076900

 この文書は、昨年見つけましたが、旧大津陸軍墓地の中国人兵士の墓との関連を見抜くことができませんでした。
 それにしても、『新修大津市史』にも、清国俘虜の記述がまったくありません。したがって、市民の間で、この事実を知るものはほとんどいないのではないでしょうか。

俘虜・寶少春の墓石@旧大津陸軍墓地2008/02/13

清国兵俘虜・寶少春の墓石@旧大津陸軍墓地
清国兵・寶少春は、1894(明治27)年10月15日に、俘虜として大津市に連行されてきます。しかし、日清戦争の終結を見ずに、異土(大津市)で亡くなるのです。
 同年年11月11日、到着して一ヶ月足らずで、腸チフスで死去。隔離されていた本長寺が終焉の地。
 わかっていることは、安徽省の出身。
 26年の生涯でした。
 旧大津陸軍墓地(土葬)で眠っています。

 なお、以上のことがわかったのは、つい先日のこと。
塚崎さんによって明らかにされました。

俘虜・汝恒信の墓@旧大津陸軍墓地2008/02/13

清国俘虜・汝恒信の墓@旧大津陸軍墓地
汝恒信は、寶少春と同じく、1894(明治27)年10月15日に大津市に俘虜として連行されてきます。しかし、同年11月12日に赤痢で亡くなっています。終焉の地は、同じ本長寺。28年の生涯でした。出身は、安徽省。

清国俘虜2名の死亡と陸軍墓地への埋葬を記した文書(明治27年)2008/02/13

 大津に連行された清国兵俘虜は100名。98名は帰還し、汝恒信と寶少春の2名の若者だけが、異土に眠るのです。
 そのことを記した旧日本陸軍の文書です。
 第九連隊長・内藤正明が明治27年12月10日に報告しています。

C06060106100

旧真田山陸軍墓地の清国俘虜の墓には「俘虜」の文字が刻まれていた?2008/02/13

旧真田山墓地における清国兵の墓石(画面の中央正面)
上の写真は、旧真田山陸軍墓地の一角です。
画面の真ん中、角に清国俘虜兵の墓が見えます。
「故清国」と書かれている墓石です。

そこには、文字を埋めた痕跡があります。
これには、「俘虜」の二文字があったと思われます。

一方、旧大津陸軍墓地には、こういう文言を埋めた
痕跡がないのは、汝恒信寶少春の墓の写真を
見ていただければわかります。

では、ちがいはどこに生まれているのか?

死亡した俘虜の埋葬上の扱いについて、
陸軍省への問い合わせとその回答が残っています。
塚崎さんによれば、問い合わせを受けた
陸軍省は、国際法に照らして検討をしています。
大津の場合は、その回答をうけて、
なにも記入しなかったと思われます。

では、真田山は?

これは、わかりません。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)