お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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氷柱2010/01/01

氷柱
新年おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

遡って日記をいくつか書いてみます。

カミさんの実家は、大分県の山中にあります。
合併前は荻町。合併後は竹田市。

年明けに庭に出て目についたのは、この氷柱でした。
竹の管をつたわってくる水が見事に凍っています。

2010年の仕事始め2010/01/04

「3日まで休暇をとり、4日から仕事をはじめる」という
ごく普通のスタートとなりました。
知り合いのKさんは、前進座観賞が年始めの恒例行事。
私の恒例行事は・・・思いつきません。

仕事場は普段の姿のままでした。
そして、普通に仕事がはじまりました。
少し、物足りない出だしでした。
事務所は夕方に店じまいしましたが、
私は一人で残っています。

ところで・・・・
このブログの記事は、昨年の12月18日が最後でした。
二週間以上ブログから離れていたことになります。
ぽちぽち空白を埋めようと思います。
書けない特別な事情がないのに、
これだけの間を空けたのは、はじめてです・・・。

夕暮れの海岸2010/01/15

熱海市の海岸にて
湖の夕暮れ時はよく知っています。
琵琶湖畔に住んでいますから。

しかし、海には縁が薄いのです。

両親は岐阜県の出身。
岐阜県は海に面していません。
そして、移転先の滋賀県にも
海がありません。

湖も海も、写真では区別がつきにくいと思います。
でも、どことはいえませんが、違いを感じます。

「おすい」のフタは「まちの顔」 ~熱海市の場合~2010/01/16

民宿から海岸へ出ようと思いました。
急な坂道の途中で、
マンホールの蓋を発見。

「おすい」のフタは「まちの顔」です。
私が滞在しているのは熱海市。
これはなにが描かれているのでしょうか?

遅刻の恐怖2010/01/17

いまだから言えます。

13日から16日まで大事な”出張”。
午前7時29分京都発の新幹線に乗るつもりでした。
布団のなかで目が覚めたのは、午前7時過ぎ。
必死の出発準備をして、JR大津駅へ突進。
11分発の電車に乗り込み、新幹線に間に合いました。

緊張とめったにしない駆け足のために、
息はあがり、心臓に負担をかけました。

カミさんからの心配メールに、
返事をする気力もないほどでした。

忠魂碑@(旧)荻町2010/01/18

忠魂碑@(旧)荻町
荻町は平成の大合併で竹田市となっています。
旧荻町役場前の広場近くに、忠魂碑を見つけました。

碑そのものは新しく見えます。
戦後に再建されたのでしょうか。

『明治百年記念従軍碑』@旧荻町2010/01/19

『明治百年記念従軍碑』@旧荻町
旧荻町の役場付近の広場。
そこには、いくつかの記念碑がありました。
巨大な二つのものは、農業関係のもの。
右二つは、戦争にかかわる碑でした。
忠魂碑は、すでに紹介済み。
残り3つは一体のように成っていますが、
実は別々に建てられたのではないかと想像します。

上の写真は『明治百年記念従軍碑』。
昭和43(1968)年に建てられています。

碑文は見にくい部分もありますが、
読み取ることはできます。

三つの戦争記念碑@旧荻町2010/01/20

三つの戦争記念碑@旧荻町
 旧荻町の役場付近には、忠魂碑以外に
3基の戦争記念碑がありました。
 製作年代が全く異なるのに、現在では、
一体のような形になっています。
 それがこの写真です。

『明治廿七八年征清戦死士霊魂碑』と『日露交戦紀念』碑2010/01/21

『明治廿七八年征清戦死士霊魂碑』と『日露交戦紀念』碑
旧荻町にある戦争の碑。
三つの戦争の碑が合体しているのは、
きっと理由があるのでしょう。
台座の上にある『明治百年記念従軍碑』を建てた際に、
それまでどこかに単独で建てられていた二つの碑が
台座に組み込まれたものと思われます。
ひとつは、『明治廿七八年征清戦死士霊魂碑』。
日清戦争に出征し、戦死した人たちの碑でしょうね。
もう一つは、『日露交戦紀念』碑。
これは、不思議なタイトルですね。
戦勝でもなければ、戦死者の慰霊碑でもありません。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)