お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


Google
WWW を検索 このブログ内を検索

現彦根市出身の日清戦争の戦病死者2009/12/01

日清戦争戦病死者の墓地@大津市
 目に前に広がる戦病死者の墓碑を眺めていると、その一人一人の出身地や生き様が知られないまま、緩慢に朽ちていくのを放置していいのかと思うのです。声なき声が聞こえる・・・そんな気がするのです。
 上の写真は、旧大津陸軍墓地の一角です。そこに眠る日清戦争期の兵卒の墓碑は、200を超えます。そのすべてが陸軍歩兵第九聯隊の兵士。出身地は、現在の滋賀県だと思います。
 墓碑には、名前、階級、戦病死年月日、その場所が刻まれています。出身地などはありません。各市町村(誌)史を調べていくと、何人かの出身地がわかってきます。それは、このブログでも書き込みました。
http://nostalghia.asablo.jp/blog/2009/11/09/4684397

 先日、図書館で『新修彦根市史』(2009年)の第3巻を見ていたときに、以下の記述(320~321ページ)を見つけました。そこには、名前がありませんが、人数だけはわかります。
日清戦争から台湾制圧戦までの現彦根市域における戦病死者数は、彦根町1名、千本村3名、福満村1名、日夏村1名、葉枝見村1名、稲村2名、坂田郡鳥居本村1名の計10名であり、大半はマラリアなどによる病死であった。
 この10名も上の写真の墓地に眠っていると思われます。いまのところ、名前を特定できませんが。

水上勉 『櫻守』2009/12/02

水上勉 『櫻守』(新潮文庫)
 私が大津パルコでの、「滋賀の大木」写真展で偶然見つけた砲弾型墓碑は、「清水の桜」が立っている墓地にあります。”清水”は、「しみず」と読まずに、「しょうず」と読むそうです。これも驚きでした。
 「清水の桜」は、高島市のマキノ町海津にあります。
当地の観光協会のサイトには、りっぱな紹介文が書かれています。引用させていただきます。
海津のまちはずれの墓地の中に一本大きくそびえ、樹齢300年以上といわれる巨桜「清水の桜」は、アズマヒガンザクラと呼ばれる種類の桜で、高さ16メートル、幹の周囲6.4メートルの滋賀県自然記念物にも指定されている県下最大級の桜です。
 この桜がこの地に根付いたころ、桜の前には北国北陸からの物資を京や大阪に運ぶ「七里半越」と呼ばれる山越えの道が通っており、数多くの荷駄や人々が海津から追坂峠道を通って、敦賀津へ出るこの七里半越で目的地へ向かっていったと思われます。のちにこの桜が成長するにつれ海津の街も姿を変え、当時の隆盛を偲ぶ物も減っていきましたが、この桜は人々の暮らしと海津の街の変化を見守りながら、現在でも四月の上旬にはその美しい姿で私たちを楽しませてくれます。
また、この桜は水上勉の小説『櫻守』でその題材とされたことや、その昔加賀藩主前田侯が上洛の折、その美しさに見とれ何度も振り返り眺めたことから「見返りの桜」ともいわれており、春にはこの桜を目当てに多くの人々が訪れます。
 砲弾型墓碑から出発して、桜にゆき、そして水上勉の小説『櫻守』へと関心が向きました。そこで、上の写真にあるように、新潮文庫版を買ってきたのです。
 『櫻守』には、御母衣ダムが登場します。「あっ」と思ったのですが、先日、TV放映されていたドラマ『さくら道 ~知られざる”奇跡の桜”物語~』と重なっているのです。そこでも、樹齢400年のサクラの木を移植する桜学者がでてきます。実在のモデルは、笹部新太郎『櫻守』では、竹部庸太郎という名前で登場しますね。そのことがより思いを深くしました。
 最後に、墓地に戻るのですが、『櫻守』には墓地の描写もあり、ますます見学に行きたいと思う私です。
(近江)舞子から、北へ車をとばすと、海津にきた。ここで、弥吉は、いつか竹部からきいた、奇妙な大桜をみてびっくりした。村の共同墓地にある三百年は生きたであろう巨桜であった。竹部の話だとこれは彼岸桜である。そこは、海津の村から敦賀の方へ山ぞいの国道を少し入りかけた地点で、道のすぐ下の墓地である。墓地ぜんたいに、かぶさるように大枝を張った桜は見事だった。車がわきまでゆかなかったので、国道にとめておいて、弥吉は小雨の中を歩いていった。根もとから二た又になったこの彼岸桜は、U字型に大幹を二本伸ばし、宏大な墓地に存分に枝をはっていたが、真下の墓石はみな軍人の墓だった。何々上等兵、何々軍曹、何々兵曹と彫られた御影石の墓標が、まるで大桜の根をとりまくように密集していた。戦死すれば、桜の下へもどって来れることを夢にえがいて召されていったのだろう。弥吉は、小雨にぬれる戦死者の墓標に、傘をさしかけるようにして、枝を張る冬桜をみて瞼がぬれた。枝一本損傷していない桜は、おそらく、共同墓地の霊木ということで、誰もが手折ったりしないのだろう。
 原作者に申し訳ないほど、延々と引用したのは、きっと同じ思いで見ることになる気がしたからです。

一枚の写真と一本の電話2009/12/03

それは昨晩のこと。ある会場で、女性県議のFさんが語ったエピソードが心に残りました。Fさんは困惑ぎみに話しました。「私が訪れたとき、90歳ぐらいのお年寄りが、ここで待っていてくれと奥に入り、一枚の写真を持ってこられきました。若い兵隊さんが4名写っている写真でした。その方は、一番隅に自分が写っていると指差しました。そのお年よりは、生きて戦争から帰ってきたのですが、となりの方たちは、沖縄へ派遣されてそこで戦死しました。亡くなった人たちの家族が写真をたよりに尋ねてきて、『うちのひとはどういう死に方をしたのでしょうか。教えてください』と繰り返し求められたそうです。その高齢者は、たまたま隣に移っているだけで、それ以上の面識もなければ、ましてやその後の消息は知りようもありませんでした。その高齢者は、とても悲しそうに無念そうに語りました。」
 その高齢者がいまだにこのことを心の重荷にしていること、そして、その写真をわざわざ見ず知らずのFさん見せ、心にたまったことを訴えたいと思ったこと(Fさんは困惑した様子でしたが)を聞き、私は、あらためて戦争の傷跡の深さを知ったのです。
 家族は、若者の最後を知りたかったのです。それなくしては、非業の死を受け入れることができないということなのでしょう。
 これが一枚の写真の話です。
 一本の電話は今日のことです。
 お昼前に私の携帯にかかってきました。番号は、メールでお伝えしておいたので、見知らぬ高齢者の声でしたが、私はピンときたのです。それは、丁寧なお礼の電話でした。親戚の方が戦場で亡くなった様子を私が調べてお知らせしたことの返礼でした。
 私は、若者の最後の姿を追い求める切ない気持ちに、昨晩と今日触れました。そのことをブログで書いておきたかったのです。
 上の写真は、西南戦争から太平洋戦争・日中戦争までをたたかった軍隊が大津市に衛戍地をもっていたという碑です。碑の裏側には、戦歴が誇らしげに刻まれています。しかし、そこには、無念の死に苦しむ家族などの思いは見ることはできませんでした。

村上春樹 『めぐらやなぎと眠る女』2009/12/04

村上春樹 『めぐらやなぎと眠る女』
村上春樹『めくらやなぎと眠る女』は、アメリカ帰りの短編集。
そのうちのいくつかは、「ノルウェイの森」などの長編の原型。
思わず購入。
しかし、私は長編が好きだと自覚した。

私が好きな村上春樹の短編は、カエル君がでてくるもの。
う~ん、題名はなんだっけ?

ところで、カーレド・ホッセイニ『千の輝く太陽』
この物語の、どこに太陽があるんだろう?
気の毒な物語に苦しみながら、ようやく第一部を読み終わる。
ここまでわずか100ページと少し。
まるで、アリのように活字を追う。
第二部に突入。
物語の途中、旧ソ連のアフガニスタン侵攻が登場する。
そうそう、1979年のことであり、よく覚えている。
この事件が現代史に落とした暗い影を忘れない。
そういう劇的な事件すら救いになるほど、
主人公を含め女性たちの生活は重苦しい。

First 高村薫2009/12/05

6月のバラ
TVで高村薫がコメントしている姿を見る。
それは政治番組。民主党についてのもの。
私は、このときはじめて女性であるのを知る。
・・・少しはずかしいことだけれど、正直に。

その内容が興味深かったので、
小説を読む気になった。

たまたま深夜にレンタルDVDの返却に
つきあって、書店に出向いた。
文庫本はなかったけれど、単行本を見つける。
9.11とか、オウム真理教などの単語を
見つけて、買うことにした。
『太陽を曳く馬』

読み始めて、すこし驚く。
文章がどこかゴツゴツしていて、
なめらかではなく、独特。
そのとき、TVコメントの場面が浮かぶ。
決して軽くなく、考え深い話し方をする
高村薫の姿、そのもののような気がした。

上の写真は、文章とは関係ない。
今日から寒くなると聞いて、
夏の鮮やかな花をなぜか連想。
今年の6月のバラである。

TWITTER2009/12/06

TWITTER。日本語でも「ツイッター」。
全世界では1億数千万人。
日本では3百数十万人が利用。
「ブログとチャットを足して2で割ったようなサービス」
とWikiでは書かれている。
試してみているけれど、
まだどういう可能性が開かれるか、わからない。

そういえば、9.11の事件は、ネットで
チャットをしている最中に起きた。
チャット、サイト、SNSとブログ。
そして、ツィッター。

ブログのことだけれど、
不要のものがどっさり来てからというもの、
トラックバックは、使わない機能と化してしまった。
それでも、私のメインは、ブログ。
エントリーが個々ばらばらに存在しているのが
難点なので、まとめてつかえるツールがいいのだけど。

2009年もあと3週間と少し2009/12/07

ほとんど意味のないタイトルです。
だけど、なんとなくもの悲しい。

『坂の上の雲』を見ました。これで2回まで。
良くできたドラマなのです。
しかし、どこかすきま風が吹いてきます。
純粋さが感動を呼ぶはずのドラマ。
しかし、そのことが逆に寒いのです。
自分がこんな気持ちで見るなんて
思いもしませんでした。

私は、『坂の上の雲』が描く世界に批判的です。
たしかに、そういう事情はあるでしょうね。
でも、それだけなんでしょうか。

若い人たちはどうなんでしょうか。

そうだ、「ノラクロ」ってマンガがありますね。
戦前のもので、イヌが主人公のものです。
とても人気があったらしい。
それが復刻されて楽しみにして読みました。
でも、主人公の出世主義。
調子のよさにうんざりしたのです。

『米軍基地なくせ 沖縄県民に連帯する夕べ』@滋賀県2009/12/08

『米軍基地なくせ 沖縄県民に連帯する夕べ』
 『米軍基地なくせ 沖縄県民に連帯する夕べ』の開会は午後6時30分。この種の集会に出たいと思いながら、仕事とぶつかることが多くて、あきらめることが続いていました。今晩は、遅刻することになりましたが、参加することができました。
 沖縄なら歌と踊りがでるところですが、DVD上映、辺野古支援に行った若者の報告、そして、講演。集中度は高かったのですが、静かな集会だと私は思いました。もっと騒いでもいいのではと。

トンネルを抜けると2009/12/09

不思議なトンネルを抜けると美術館
若冲の展示会に行ったことは、すでに日記に書いたでしょうか。
それは山の中にある美術館でした。
宗教色の強い建築物で、
不思議なトンネルを抜けた先にありました。

特別展示は、若冲。
どの絵も私は気に入りました。
強い個性と主張を感じました。

残りは、古代文明の遺産。
そこには、近代とはちがう世界がありました。
個の主張のない彫像は、
宗教施設にはお似合いのものです。

グリモーのラフマニノフ・ピアノソナタ第二番他2009/12/10

グリモーのラフマニノフ・ピアノソナタ第二番他
グリモーのラフマニノフを聴きました。
RACHMANINOFF
PIANO SONATA №2
ETUDES-TABLEAUX op.33

1931年に改稿されたヴァージョンのピアノソナタ第二番
そして、『音の絵』です。

表紙のグリモーから、サンドロ・ボッティチェリの
「ビーナスの誕生(Nascita di Venere)」を連想しました。
サボナローラが異端の絵を多数焼きましたが、
奇跡的に生き残った作品ですね。
グリモーは、美人であることを音楽的評価の
バイアスとなることで迷惑がっていたと聞いています。

劇的な出だしのピアノソナタ第二番。
いきなり、ラフマニノフの世界に突き落とされる印象です。
ロシア=冬というイメージを振り払っても
この音楽からは、雪の風景が浮かびます。
ロシア革命に翻弄され、二度と故郷に
戻れず、アメリカで客死したラフマニノフ。
分厚い和音や高音のトリルから、
カリブの太陽を思い浮かべようとしても、
とても無理なのです。
素直に、その世界にひたり、初雪を楽しみに待つ私です。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)