お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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一枚の写真と一本の電話2009/12/03

それは昨晩のこと。ある会場で、女性県議のFさんが語ったエピソードが心に残りました。Fさんは困惑ぎみに話しました。「私が訪れたとき、90歳ぐらいのお年寄りが、ここで待っていてくれと奥に入り、一枚の写真を持ってこられきました。若い兵隊さんが4名写っている写真でした。その方は、一番隅に自分が写っていると指差しました。そのお年よりは、生きて戦争から帰ってきたのですが、となりの方たちは、沖縄へ派遣されてそこで戦死しました。亡くなった人たちの家族が写真をたよりに尋ねてきて、『うちのひとはどういう死に方をしたのでしょうか。教えてください』と繰り返し求められたそうです。その高齢者は、たまたま隣に移っているだけで、それ以上の面識もなければ、ましてやその後の消息は知りようもありませんでした。その高齢者は、とても悲しそうに無念そうに語りました。」
 その高齢者がいまだにこのことを心の重荷にしていること、そして、その写真をわざわざ見ず知らずのFさん見せ、心にたまったことを訴えたいと思ったこと(Fさんは困惑した様子でしたが)を聞き、私は、あらためて戦争の傷跡の深さを知ったのです。
 家族は、若者の最後を知りたかったのです。それなくしては、非業の死を受け入れることができないということなのでしょう。
 これが一枚の写真の話です。
 一本の電話は今日のことです。
 お昼前に私の携帯にかかってきました。番号は、メールでお伝えしておいたので、見知らぬ高齢者の声でしたが、私はピンときたのです。それは、丁寧なお礼の電話でした。親戚の方が戦場で亡くなった様子を私が調べてお知らせしたことの返礼でした。
 私は、若者の最後の姿を追い求める切ない気持ちに、昨晩と今日触れました。そのことをブログで書いておきたかったのです。
 上の写真は、西南戦争から太平洋戦争・日中戦争までをたたかった軍隊が大津市に衛戍地をもっていたという碑です。碑の裏側には、戦歴が誇らしげに刻まれています。しかし、そこには、無念の死に苦しむ家族などの思いは見ることはできませんでした。

コメント

_ ばるタン ― 2009年12月03日 19時52分56秒

沖縄戦史を調べておられる方のHPがあります。
http://www.okinawa-senshi.com/index.htm

沖縄で亡くなった方が、沖縄のどの場所で亡くなったのか、わかる場合があるそうです。
お料理研究家の城戸崎愛さんも、沖縄で恋人のような方を亡くされています。
このHPの方と沖縄を訪れた記録が「戦火とドーナツと愛」という本の最後の章です。
とても丁寧なHPで、時々読みに行っているんですよ。

_ BIN★→ばるタンさん ― 2009年12月04日 12時32分33秒

ご紹介ありがとうございます。
詳細なデータを見ることができますね。
うまく表現できないまま、この記事をアップしました。
そのため、わかりにくかったり、
写真を間違ったり・・・補足して書き直してみようと思っています。
ところで、ばるタンさんは、高村薫さんの本は読んだことありますか?

_ ばるタン ― 2009年12月04日 23時35分03秒

高村薫さんのご本でしたら全部とは言えませんが半分以上は読んでいると思います。
読み終わるとヘトヘトになる感じですが、信頼できる作家の一人です。
新聞のコラムも時々書かれていて、読みながら思いっきり肯くことが多いです。
作家になる前は、商社にお勤めだったそうで、こんなセンパイと働いてみたかったな、と思ったりします。(多分ちょっとセンパイ)

_ BIN★→ばるタンさん ― 2009年12月05日 11時31分32秒

高村薫さん、女性ということさえ知らない私でした。
TVで話されているのを聞いて、ムムっと思って、
信頼できる読み手・ばるタンさんにたずねました。
昨晩、一冊の本を購入しましたよ。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)