お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
小田康徳 編著『旧真田山陸軍墓地、墓標との対話』 ― 2019/12/22
案内をいただいたので、「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」主催の出版記念会に参加しました。新著は『旧真田山陸軍墓地、墓標との対話』(阿吽社)
小田康徳先生を中心に、会員のメンバーが編んだもの。
出版記念会での小田先生の講演が印象的でした。最後に、墓地を主題にした人情味あふれる新作落語のCDもきくことができました。
小田康徳先生を中心に、会員のメンバーが編んだもの。
出版記念会での小田先生の講演が印象的でした。最後に、墓地を主題にした人情味あふれる新作落語のCDもきくことができました。
四つの日露戦争合葬碑@旧真田山陸軍墓地 ― 2011/09/22
「歩兵二等卒藤嶋芳松墓」に思うこと ― 2011/09/22
先の記事の続きです。
すでに紹介しましたが、この墓碑の碑文には、藤嶋芳松は、巡査に乱暴を働き、監獄に入れられ、そこで亡くなったと刻まれています。
たとえ、そういう行状と死に様が事実であったとしてもです。それを未来永劫に(とはいえませんが、すくなくとも120年以上は)残る石の墓碑に刻むことが正しいとは思えません。不名誉の記録をずっと背負ったまま埋葬されるのは、不憫だと私は思います。先にも書きましたが、それは死んでも懲罰を加えるのと同じです。私は、そういう兵卒がいたという事実を今につたえる墓碑というよりも、非人間的な扱いをした軍隊が(日本に)あったことを伝える墓碑として貴重だと思いました。
芳松の個人的事情は知るよしもありませんが、そのような行状にいたった社会的背景はあるのかという点ですが、 『陸軍墓地がかたる日本の戦争』(ミネルヴァ書房)は、滅び行く士族の子弟の憤懣を挙げています。
碑文の経歴は次のように刻まれています。
すでに紹介しましたが、この墓碑の碑文には、藤嶋芳松は、巡査に乱暴を働き、監獄に入れられ、そこで亡くなったと刻まれています。
・・・・飲酒酩酊巡査ニ対シ口論□殴打シ鼻孔ヨリ出血ニ至ラシムル科同年六月廿三日ヨリ重禁錮四ヶ月被申付 ・・・葬った側である大阪鎮台の認識がそうであったことはわかります。しかし、芳松自身がどう考えていたのか、たとえば、それは別人だとか、誤認だとか主張していたかも知れません。芳松の弁明は、今に伝わることではありません。
たとえ、そういう行状と死に様が事実であったとしてもです。それを未来永劫に(とはいえませんが、すくなくとも120年以上は)残る石の墓碑に刻むことが正しいとは思えません。不名誉の記録をずっと背負ったまま埋葬されるのは、不憫だと私は思います。先にも書きましたが、それは死んでも懲罰を加えるのと同じです。私は、そういう兵卒がいたという事実を今につたえる墓碑というよりも、非人間的な扱いをした軍隊が(日本に)あったことを伝える墓碑として貴重だと思いました。
芳松の個人的事情は知るよしもありませんが、そのような行状にいたった社会的背景はあるのかという点ですが、 『陸軍墓地がかたる日本の戦争』(ミネルヴァ書房)は、滅び行く士族の子弟の憤懣を挙げています。
碑文の経歴は次のように刻まれています。
滋賀県近江國犬上郡彦根□士族□吾三男万延元年十月十日生あと・・・疑問は、なぜ、藤嶋吉松の墓碑が、旧大津陸軍墓地になくて、旧真田山陸軍墓地にあるのか。第九聯隊で規律違反や犯罪を犯した兵卒は、大津から大阪まで運ばれ、そこで収容されたということなのでしょうか。
「飲酒酩酊」して巡査に乱暴・・・ ― 2011/09/21
旧真田山陸軍墓地には、大津市に衛戍地がある歩兵第九聯隊の兵卒の墓碑がいくつかあります。西南戦争(墓碑では「鹿児島縣賊徒征討役」)に従軍して、戦死・戦病死・病死した兵卒の墓碑は、すでにいくつか紹介しました。それ以外に、軍紀違反などで営倉に収容されなくなった兵卒の墓碑があると聞いていました。
『陸軍墓地がかたる日本の戦争』(ミネルヴァ書房)では、そういう兵卒の一人、藤嶋芳松(歩兵第九聯隊に所属)が紹介されていました。
それで、実物を見てみたいと思っていました。
旧真田山陸軍墓地で、中江幸四郎や林力松の墓碑を見つけたあと、いよいよ「歩兵二等卒藤嶋芳松墓」を探すことにしました。
ところがFブロックは広大で、どの墓碑が起点となる墓碑なのかもわかりませんでした。墓碑と墓碑の間には夏草が生い茂り、マムシがいるかも・・・なんて考えてしまいました。それで、急ぎ足で墓碑を見て回りました。第九聯隊という文字をたよりに。
偶然というのは恐ろしいもので、適当に間引きしながら歩いた先で出会いました。
墓碑に刻まれた不名誉な内容・・・死後も懲罰がつづいている気がしました。
『陸軍墓地がかたる日本の戦争』(ミネルヴァ書房)では、そういう兵卒の一人、藤嶋芳松(歩兵第九聯隊に所属)が紹介されていました。
明治十四年五月四日大阪鎮台歩兵第九聯隊第一大隊第二中隊編入同年十一月十九日二等卒拝命待罪中謹慎表□科同年四月二日重営舎入廿日間被申付外先ニ於テ飲酒酩酊巡査ニ対シ口論□殴打シ鼻孔ヨリ出血ニ至ラシムル科同年六月廿三日ヨリ重禁錮四ヶ月被申付処脚気症罹リ入□中同年九月一日死亡『国立歴史民俗博物館研究報告』(慰霊と墓)には、墓碑の長大なリスト(約6,000)が資料として掲載されています。それを眺めていて、この兵卒の欄を見つけました。IDはF-51-2。碑文は上のようだと書いてあります。
それで、実物を見てみたいと思っていました。
旧真田山陸軍墓地で、中江幸四郎や林力松の墓碑を見つけたあと、いよいよ「歩兵二等卒藤嶋芳松墓」を探すことにしました。
ところがFブロックは広大で、どの墓碑が起点となる墓碑なのかもわかりませんでした。墓碑と墓碑の間には夏草が生い茂り、マムシがいるかも・・・なんて考えてしまいました。それで、急ぎ足で墓碑を見て回りました。第九聯隊という文字をたよりに。
偶然というのは恐ろしいもので、適当に間引きしながら歩いた先で出会いました。
墓碑に刻まれた不名誉な内容・・・死後も懲罰がつづいている気がしました。
「大坂鎮臺歩兵第九聯隊第三大隊第二中隊 二等卒太田澤一之墓」 ― 2011/09/17
虎列刺(コレラ)病死 ~兵卒真川菊五郎墓~ ― 2011/09/17
旧真田山陸軍墓地を、昼前から午後3時過ぎまで歩き回りました。墓碑の読み取りも、名簿化も終わっている墓地ですから、私が何かを発見するということはありません。なにかを感じたくて、自分がなにをかんじるのかを楽しみに見て回りました。
そこにそういう墓碑があると知っていても、現物を実際の目で見ると衝撃を受けます。たぶん、何度見ても。
「虎列刺」という文字。明治10年に流行したコレラのことです。無事、西南戦争から戻ってきた兵卒たちが、原隊に復帰する途上で次々と倒れていったという記述を見たことがあります。この兵卒の場合はどうだったのでしょうか。 墓碑は折れて、セメント類でつなぎとめられています。「大坂鎮台歩兵第九聯隊」の文字が見えます。大津市に営所があった聯隊の兵卒でした。正面は「真川菊五郎墓」
そこにそういう墓碑があると知っていても、現物を実際の目で見ると衝撃を受けます。たぶん、何度見ても。
「虎列刺」という文字。明治10年に流行したコレラのことです。無事、西南戦争から戻ってきた兵卒たちが、原隊に復帰する途上で次々と倒れていったという記述を見たことがあります。この兵卒の場合はどうだったのでしょうか。 墓碑は折れて、セメント類でつなぎとめられています。「大坂鎮台歩兵第九聯隊」の文字が見えます。大津市に営所があった聯隊の兵卒でした。正面は「真川菊五郎墓」
損壊する墓碑群 ― 2011/09/16
さまざまな県名を刻む西南戦争戦没者の墓碑群 ― 2011/09/16
西南戦争の”私的な墓碑”と”公的な墓碑” ― 2011/09/15
日清戦争や日露戦争の戦死者(兵卒)の墓碑の扱いは、出身地と陸軍墓地ではずいぶん差がありました。陸軍墓地は、集団の一つとして小さく没個性的な存在でした。出身地の共同墓地では、最も目立つ個性的な墓碑として屹立しています。
西南戦争の場合は、すこし様子がちがうと感じます。
まず、旧真田山陸軍墓地の墓碑は画一的ですが、記事内容が具体的です。死因なども明記されています。さらに、「鹿児島賊徒征討」という文言が刻まれています。共同墓地の墓碑の碑文は短く、階級さえ刻まれていない場合もあります。
今回の旧真田山陸軍墓地訪問の目的の三つ目は、日置住吉の墓碑との再会でした。
西南戦争で没した日置住吉の墓碑は二つあります。一つは、旧真田山墓地。もう一つは、出身地の共同墓地に置かれています。
出身地の墓碑は、ほとんど碑文が読めない状態でした。その墓地には、日清戦争の墓碑、日露戦争の墓碑もあります。それらは目を引く大きさと形をしています。その一方、日置住吉の墓碑は、顧みられることのない影の薄い存在となっていました。その扱いの違いに強い印象を持ちました。
西南戦争の場合は、すこし様子がちがうと感じます。
まず、旧真田山陸軍墓地の墓碑は画一的ですが、記事内容が具体的です。死因なども明記されています。さらに、「鹿児島賊徒征討」という文言が刻まれています。共同墓地の墓碑の碑文は短く、階級さえ刻まれていない場合もあります。
今回の旧真田山陸軍墓地訪問の目的の三つ目は、日置住吉の墓碑との再会でした。
西南戦争で没した日置住吉の墓碑は二つあります。一つは、旧真田山墓地。もう一つは、出身地の共同墓地に置かれています。
出身地の墓碑は、ほとんど碑文が読めない状態でした。その墓地には、日清戦争の墓碑、日露戦争の墓碑もあります。それらは目を引く大きさと形をしています。その一方、日置住吉の墓碑は、顧みられることのない影の薄い存在となっていました。その扱いの違いに強い印象を持ちました。
「陸軍歩兵二等卒林力松之墓」@旧真田山陸軍墓地 ― 2011/09/15
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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