お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
旧真田山陸軍墓地Eブロックで林力松を探す ― 2011/09/15
A-9-12 「軍役夫 中江小四郎墓」を見つけました ― 2011/09/15
Aブロックは軍役夫の墓地@旧真田山陸軍墓地 ― 2011/09/15
旧真田山陸軍墓地を訪問(5度目) ― 2011/09/15
先々週は霊山墓地に行きました。今週は比治山陸軍墓地に行くつもりでしたが、準備不足であきらめ、真田山陸軍墓地に行くことにしました。2007年10月から数えて(少なくとも)5度目の訪問になります。
紙の上(国立歴史民俗博物館研究報告など)で存在を承知していた墓碑を実見するのが目的でした。たとえば、林力松、中江小四郎(幸四郎)の墓碑などです。 息子のH君も、K君も大学の夏休み中なので誘いましたが、断られてしましました。それで単独行。どこかのブロックをまとめて撮影して帰りたかったのですが、どこまでできるか不安があります。個人墓碑の数はほぼ6,000・・・。ほとんどが腰の高さしかない低い墓碑です。カエルのような状態で墓碑の間を移動するか、それとも6,000回屈伸運動を繰り返すか---とてもできない相談です。
紙の上(国立歴史民俗博物館研究報告など)で存在を承知していた墓碑を実見するのが目的でした。たとえば、林力松、中江小四郎(幸四郎)の墓碑などです。 息子のH君も、K君も大学の夏休み中なので誘いましたが、断られてしましました。それで単独行。どこかのブロックをまとめて撮影して帰りたかったのですが、どこまでできるか不安があります。個人墓碑の数はほぼ6,000・・・。ほとんどが腰の高さしかない低い墓碑です。カエルのような状態で墓碑の間を移動するか、それとも6,000回屈伸運動を繰り返すか---とてもできない相談です。
明治8年以前の第九聯隊兵卒の墓碑は旧真田山墓地にあるのか ― 2010/12/08
旧大津陸軍墓地にある墓碑のうち、最も古い死亡年月日を刻んでいるのは、彦根に屯所があった十八番大隊の兵卒の墓碑で、明治5年の日付をもっています。しかし、これは、明治の末に、彦根から移葬されたものであって、最初からあったわけではありません。
旧大津陸軍墓地は、第九聯隊が営所が大津市に新設(明治8年)されることにともなって、附属埋葬地として造られました。竣工は、明治10年10月ですが、第九聯隊の墓碑で最も古いもの(舘源左衛門の墓碑)は、明治8年7月15日の日付があります。
しかし、第九聯隊そのものは、大津営所が完成する以前(明治7年)に、設けられていましたから、その間に亡くなった兵卒は、どこに葬られたのかということになります。たぶん、旧真田山陸軍墓地だろうと思っていましたが、その例証を見つけました。
「兵卒木村松之墓」
死亡年月日は、「明治七年十月に𠘨三日」
右側面には、「近江国甲東郡杣中村□兵衛男とあるそうです。F-37-21.
「陸軍一等兵福嶋松次郎之墓」
福嶋の墓碑を見ると、明治7年4月22日に歩兵第九聯隊に入営し、明治10年11月13日に、大坂鎮台病院で亡くなっています。想像するに、西南戦争に出征後、亡くなったのだと思います。戦の終わったあとにです。F-41-21。
旧大津陸軍墓地は、第九聯隊が営所が大津市に新設(明治8年)されることにともなって、附属埋葬地として造られました。竣工は、明治10年10月ですが、第九聯隊の墓碑で最も古いもの(舘源左衛門の墓碑)は、明治8年7月15日の日付があります。
しかし、第九聯隊そのものは、大津営所が完成する以前(明治7年)に、設けられていましたから、その間に亡くなった兵卒は、どこに葬られたのかということになります。たぶん、旧真田山陸軍墓地だろうと思っていましたが、その例証を見つけました。
「兵卒木村松之墓」
死亡年月日は、「明治七年十月に𠘨三日」
右側面には、「近江国甲東郡杣中村□兵衛男とあるそうです。F-37-21.
「陸軍一等兵福嶋松次郎之墓」
福嶋の墓碑を見ると、明治7年4月22日に歩兵第九聯隊に入営し、明治10年11月13日に、大坂鎮台病院で亡くなっています。想像するに、西南戦争に出征後、亡くなったのだと思います。戦の終わったあとにです。F-41-21。
陸軍砲兵一等卒中井藤八之墓@旧真田山陸軍墓地 ― 2010/12/08
旧真田山陸具墓地の墓碑名簿を見ていたら、「滋賀県高島郡平良村平民」と刻まれた墓碑があるのを見つけました。これ以上の碑文は読めないそうですが、気になったので、メモとして残しておきます。
F-8-1
旧真田山陸軍墓地にもあった「陸軍歩兵二等卒林力松之墓」 ― 2010/12/08
国立歴史民俗博物館の研究報告「慰霊と墓」を丁寧にみています。これには、旧真田山陸軍墓地にある墓碑のリストが掲載されているからです。
以前、旧志賀町で「陸軍歩兵二等卒林力松碑」を紹介しました。上の写真がそれです。記事は→ここ。
旧真田山陸軍墓地にも墓碑があることがわかりました。
「陸軍歩兵二等卒林力松之墓」
IDは、E-6-5でした。南小松は「碑」ですが、旧真田山陸軍墓地では「墓」です。この墓碑には、「明治二十八年九月十六日於台湾牛四島頭兵站司令部死」と刻まれているそうです。
永田村の陸軍歩兵一等卒 三矢松太郎と同じ場所で、同じころに死亡したのかもしれません。記事は→ここ。三矢が死亡したのは、牛馬頭患者宿泊所病院(島の上に四を書けば、馬に見えるのか、その逆かも?)。ときもほぼ同じ九月二十三日でした。
旧真田山陸軍墓地にある墓碑だけでは、林力松の出身地がわからなかったはずですが、現地(民間墓地)と照らし合わせることで、判明したことになります。
以前、旧志賀町で「陸軍歩兵二等卒林力松碑」を紹介しました。上の写真がそれです。記事は→ここ。
旧真田山陸軍墓地にも墓碑があることがわかりました。
「陸軍歩兵二等卒林力松之墓」
IDは、E-6-5でした。南小松は「碑」ですが、旧真田山陸軍墓地では「墓」です。この墓碑には、「明治二十八年九月十六日於台湾牛四島頭兵站司令部死」と刻まれているそうです。
永田村の陸軍歩兵一等卒 三矢松太郎と同じ場所で、同じころに死亡したのかもしれません。記事は→ここ。三矢が死亡したのは、牛馬頭患者宿泊所病院(島の上に四を書けば、馬に見えるのか、その逆かも?)。ときもほぼ同じ九月二十三日でした。
旧真田山陸軍墓地にある墓碑だけでは、林力松の出身地がわからなかったはずですが、現地(民間墓地)と照らし合わせることで、判明したことになります。
「故軍役夫 平山興三吉墓」@旧真田山陸軍墓地 ― 2010/12/07
以前、撮影した写真を見直していると、忘れていたことを思い出します。たとえば、この墓碑のことです。砂岩の旧い墓碑が並ぶなかで、花崗岩の新しい墓碑となって建っていました。正面は「故軍役夫 平山與三吉墓」。右側面は、「滋賀縣滋賀郡大津町字関寺村」と刻まれています。
国立民族博物館の調査では、「A-5-38」というIDが振られている墓碑です。
ちなみに、滋賀郡大津町というのは、明治22年から31年まで使われた地名です。明治22年に町村制ができ、滋賀郡は大津町と14の村から成立します。そして、明治31年10月に、滋賀郡から大津町が分離し、大津市となるからです。
左側面には「明治二十八年六月二十三日死」とありますから、日清戦争期の墓碑です。『大津市志』のなかに、名前があったかどうか、確かめてみます。
・・・ないですね。軍役夫だから・・・?
国立民族博物館の調査では、「A-5-38」というIDが振られている墓碑です。
ちなみに、滋賀郡大津町というのは、明治22年から31年まで使われた地名です。明治22年に町村制ができ、滋賀郡は大津町と14の村から成立します。そして、明治31年10月に、滋賀郡から大津町が分離し、大津市となるからです。
左側面には「明治二十八年六月二十三日死」とありますから、日清戦争期の墓碑です。『大津市志』のなかに、名前があったかどうか、確かめてみます。
・・・ないですね。軍役夫だから・・・?
「看病人中山清吉之墓」@旧真田山陸軍墓地 ― 2010/10/30
「軍役夫」の墓地@旧真田山陸軍墓地 ― 2010/10/14
戦争で死亡した民間人を、死後どう扱うのか---それは、その国家の性格をよく表しています。
日清戦争のときに、軍夫(軍役夫)がほぼ正規軍の兵站部隊に相当する規模で使われました。輜重卒もいましたが、それは養成途上であり、兵站は民間人を用いたのです。装備も劣るし、防寒用具もまともにあたえられないまま、軍夫は戦闘にまきこまれる場合もあり、多数亡くなりました。しかし、それらの人々は戦死者のなかに含まれませんでした。
ここにも、民間人を軍隊の下に見下す姿勢がありありと示されています。墓碑には「陸軍野戦鉄道隊」と刻まれていますが、『大津市志』には「鉄道掃除夫雇人」と書かれている松岡七郎の扱いはその一つです。
ちなみに、「軍夫」の存在を確認できる唯一の場所が、旧真田山陸軍墓地です。934柱の軍役夫の墓碑がならんでいます。
ちなみにここには、旧高島郡高島町出身の軍夫である中江幸四郎の墓碑があります。そのことは、以前のブログで書いたとおりです。
日清戦争で病死した軍夫・中江幸四郎(高島市音羽出身)の墓碑
日清戦争のときに、軍夫(軍役夫)がほぼ正規軍の兵站部隊に相当する規模で使われました。輜重卒もいましたが、それは養成途上であり、兵站は民間人を用いたのです。装備も劣るし、防寒用具もまともにあたえられないまま、軍夫は戦闘にまきこまれる場合もあり、多数亡くなりました。しかし、それらの人々は戦死者のなかに含まれませんでした。
ここにも、民間人を軍隊の下に見下す姿勢がありありと示されています。墓碑には「陸軍野戦鉄道隊」と刻まれていますが、『大津市志』には「鉄道掃除夫雇人」と書かれている松岡七郎の扱いはその一つです。
ちなみに、「軍夫」の存在を確認できる唯一の場所が、旧真田山陸軍墓地です。934柱の軍役夫の墓碑がならんでいます。
ちなみにここには、旧高島郡高島町出身の軍夫である中江幸四郎の墓碑があります。そのことは、以前のブログで書いたとおりです。
日清戦争で病死した軍夫・中江幸四郎(高島市音羽出身)の墓碑
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント