お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「ガーデンミュージアム比叡」と家族と ― 2008/07/22
比叡山の山頂の「ガーデンミュージアム比叡」。
夜に出かけると涼しくて、ろうそくの灯りが幻想的。
猛暑の昼では、さすがに涼しさはありません。
日差しは強く、湿気が少ないことだけが救いです。
以前は、お化け屋敷があり、遊園地があり、
カワラケ投げができた場所です。
そんなことを知っているのは、もう少数派。
子どもたちが小さいときは、夜に出かけてきました。
突然の山登りに、こどたちは狂喜します。
喜びと興奮をいっぱいにあらわす顔は、
私たち夫婦の仕事の疲れを忘れさせてくれました。
でも、彼らはもう喜ぶ年齢ではありません。
家族といっしょに過ごすよりも、もっと
広い世界を求めるときなのですから。
ところで、比叡山の近くに住んでいても
ガーデンミュージアム比叡に
毎日というわけには、ゆきません。
特別割引券を買えば、3000円で、
通行料に2枚入場券がついてきます。
家族4人なら、残り2人は、
10%割引チケットを使って1800円。
合計、4800円かかるからです。
3000円だせば、通年、通行料は
いらなくなりますけれど、3回以上
来るのかどうか、今は自信ありません。
夜に出かけると涼しくて、ろうそくの灯りが幻想的。
猛暑の昼では、さすがに涼しさはありません。
日差しは強く、湿気が少ないことだけが救いです。
以前は、お化け屋敷があり、遊園地があり、
カワラケ投げができた場所です。
そんなことを知っているのは、もう少数派。
子どもたちが小さいときは、夜に出かけてきました。
突然の山登りに、こどたちは狂喜します。
喜びと興奮をいっぱいにあらわす顔は、
私たち夫婦の仕事の疲れを忘れさせてくれました。
でも、彼らはもう喜ぶ年齢ではありません。
家族といっしょに過ごすよりも、もっと
広い世界を求めるときなのですから。
ところで、比叡山の近くに住んでいても
ガーデンミュージアム比叡に
毎日というわけには、ゆきません。
特別割引券を買えば、3000円で、
通行料に2枚入場券がついてきます。
家族4人なら、残り2人は、
10%割引チケットを使って1800円。
合計、4800円かかるからです。
3000円だせば、通年、通行料は
いらなくなりますけれど、3回以上
来るのかどうか、今は自信ありません。
気に入ったわけは、このネコ? ― 2008/07/07
清水勲『ビゴーが見た日本人 風刺画に描かれた明治』(講談社学術文庫) ― 2008/06/16
清水勲氏の著作。『ビゴーが見た日本人 風刺画に描かれた明治』(講談社学術文庫)は、岩波文庫の『ビゴー日本素描集』よりも、広範囲の主題を扱った風刺画が収録されています。なかには、戦後20年程度前までも残っていた風俗も見受けられるし、現在でもまだあるとさえ思うものもあります。ですが、・・・見ていてなんか気分がよくありません。ビゴーの絵が気に入らないのか、描かれた世界が気に入らないのか、あけすけに外国人に描かれたことが気に入らないのか・・・。
清水勲編 『ビゴー日本素描集』(岩波文庫) ― 2008/06/12
歴史の教科書のなかでも、ビゴーの絵は登場しています。ですから、絵そのものは有名だと思います。しかし、ビゴーとはなにものなのかが知られているとは思えません。
フルネームは、ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot, 1860年 - 1927年)です。
『近代日本漫画百選』(清水勲編 岩波文庫)でも、何枚かが登場していました。そういえば、二つの本は、同じ清水勲氏の編集なんですね。
このビゴーの素描集は、わずか150ページ足らずの短さです。『近代日本漫画百選』と同様に、見開きページの右が解説文、左が絵という構成。
全体(本編)は、5章から成っていて、「東京・神戸間の鉄道」「兵士の一日」「芸者の一日」「娼婦の一日」「女中の一日」。
見ての通り、日本女性が多く取り上げられていますが、ビゴーの視野が女性風俗に限定されているわけではありません。
そうそう、紹介しておきますが、ビゴーはフランス人。イギリスに対してライバル意識をもっていた点が興味深いです。日本滞在は、18年間。自由民権運動などとかかわり、政府からの抑圧の流れが生まれる中で、日本に妻を残して(離婚して)帰国してゆきます。 日英同盟の成立で、条約改正がなり、日本の国際的地位が向上していくのですが、ビゴーはこれを歓迎していません。
フランス人居留地(他の外国人居留地と同様ですが)は、治外法権の特権下にありました。つまり、日本政府批判をしても、手が出せない安全圏にいるわけです。しかし、条約改正で治外法権がなくなると、日本政府の弾圧がふりかかるのです・・・。自由民権派とつながっていたビゴーには(そしてこの点だけ見れば運動には)都合のいいことではなかったのです。こういう矛盾には気がつきませんでした。
清水勲氏のホームページ←クリック
フルネームは、ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot, 1860年 - 1927年)です。
『近代日本漫画百選』(清水勲編 岩波文庫)でも、何枚かが登場していました。そういえば、二つの本は、同じ清水勲氏の編集なんですね。
このビゴーの素描集は、わずか150ページ足らずの短さです。『近代日本漫画百選』と同様に、見開きページの右が解説文、左が絵という構成。
全体(本編)は、5章から成っていて、「東京・神戸間の鉄道」「兵士の一日」「芸者の一日」「娼婦の一日」「女中の一日」。
見ての通り、日本女性が多く取り上げられていますが、ビゴーの視野が女性風俗に限定されているわけではありません。
そうそう、紹介しておきますが、ビゴーはフランス人。イギリスに対してライバル意識をもっていた点が興味深いです。日本滞在は、18年間。自由民権運動などとかかわり、政府からの抑圧の流れが生まれる中で、日本に妻を残して(離婚して)帰国してゆきます。 日英同盟の成立で、条約改正がなり、日本の国際的地位が向上していくのですが、ビゴーはこれを歓迎していません。
フランス人居留地(他の外国人居留地と同様ですが)は、治外法権の特権下にありました。つまり、日本政府批判をしても、手が出せない安全圏にいるわけです。しかし、条約改正で治外法権がなくなると、日本政府の弾圧がふりかかるのです・・・。自由民権派とつながっていたビゴーには(そしてこの点だけ見れば運動には)都合のいいことではなかったのです。こういう矛盾には気がつきませんでした。
清水勲氏のホームページ←クリック
河鍋暁斎 《武四郎涅槃図》 友人である松浦武四郎のために描いた図 ― 2008/06/11
京都国立博物館で見た河鍋暁斎の絵のなかで、強い印象を受けたものの一つに《武四郎涅槃図》があります。
武四郎とは、松浦武四郎のことです。絵の前にあった解説に、この名前を見出したとき、はっとする思いでした。
松浦武四郎は、北海道の名付け親で探検家でもあります。私がこの名前を知ったのは、三井寺観音堂の上にある「なべの碑」からです。奇妙な名前の碑ですが、文字通り、なべが納められている碑なのです。その持ち主が、松浦武四郎。
松浦武四郎を知らなかった私は、この人物の業績に瞠目。アイヌの言葉や文化を大切にする人物であり、北海道をはじめ全国を渡り歩いた人だったのです。
でも、なぜ、滋賀県大津市の三井寺に、しかも「なべ」が碑になっているのでしょうか?知りたいものですが、答えがありません。
それはさておき、こういう経過から、松浦武四郎を知った私ですが、まさか河鍋暁斎展を見ていて、その名前が登場するなんて思いませんでした。しかも、生前に釈迦の死の場面を描いた涅槃図を模して、描かれた絵があるなんて!恐れ多くないのでしょうか(笑)?
河鍋暁斎と松浦武四郎の間に交流があったことはあとで知りました。この大胆な絵を描かせた武四郎は相当なタマだと思いましたが、そのとおり描いた暁斎も同様ですね。二人の会話はさぞ興味深かったことと思います。
武四郎とは、松浦武四郎のことです。絵の前にあった解説に、この名前を見出したとき、はっとする思いでした。
松浦武四郎は、北海道の名付け親で探検家でもあります。私がこの名前を知ったのは、三井寺観音堂の上にある「なべの碑」からです。奇妙な名前の碑ですが、文字通り、なべが納められている碑なのです。その持ち主が、松浦武四郎。
松浦武四郎を知らなかった私は、この人物の業績に瞠目。アイヌの言葉や文化を大切にする人物であり、北海道をはじめ全国を渡り歩いた人だったのです。
でも、なぜ、滋賀県大津市の三井寺に、しかも「なべ」が碑になっているのでしょうか?知りたいものですが、答えがありません。
それはさておき、こういう経過から、松浦武四郎を知った私ですが、まさか河鍋暁斎展を見ていて、その名前が登場するなんて思いませんでした。しかも、生前に釈迦の死の場面を描いた涅槃図を模して、描かれた絵があるなんて!恐れ多くないのでしょうか(笑)?
河鍋暁斎と松浦武四郎の間に交流があったことはあとで知りました。この大胆な絵を描かせた武四郎は相当なタマだと思いましたが、そのとおり描いた暁斎も同様ですね。二人の会話はさぞ興味深かったことと思います。
清水勲編『近代日本漫画百選』(岩波文庫) ― 2008/06/11
「河鍋暁斎を広い視野で評価できるように」と思って買った本です。「あれだけ魅力的な戯画を描いた人は、もうほかにいないのだろうか」、「暁斎を知らなかった私だから、他にも多くの人たちも見落としているにちがいない」と思ったのです。
パラパラと開いて、暁斎の戯画を見つけたこともあり、その場で買うことにしました。
案の定というのか、「近代日本(幕末から戦後まで)には、こんなに多くの有能な漫画家、社会批判をそなえた戯画があるのか!」と驚くばかりです。
漫画は手塚治虫からはじまったわけではなかったのですねぇ。
こういう能天気な感想はともかく、左のページに戯画(漫画)、右のページに的確な解説という構成は、見やすくてよいものです。各章ごとの総論的部分も全体の理解に助かります。
自分が見落としていた領域の大きさにクラクラしました。
パラパラと開いて、暁斎の戯画を見つけたこともあり、その場で買うことにしました。
案の定というのか、「近代日本(幕末から戦後まで)には、こんなに多くの有能な漫画家、社会批判をそなえた戯画があるのか!」と驚くばかりです。
漫画は手塚治虫からはじまったわけではなかったのですねぇ。
こういう能天気な感想はともかく、左のページに戯画(漫画)、右のページに的確な解説という構成は、見やすくてよいものです。各章ごとの総論的部分も全体の理解に助かります。
自分が見落としていた領域の大きさにクラクラしました。
ジョサイア・コンドル 『河鍋暁斎』(岩波文庫版) ― 2008/06/06
4月26日に京都の2会場で、暁斎の展示会を見に行きました。それがすべての始まりでした。それまで、暁斎の存在を知らなかったのですから。
つい先日、NHKで、コンドルと暁斎の特集番組もやっていましたから、気になって、書店に行くと、コンドル『河鍋暁斎』と『河鍋暁斎戯画集』がありましたので、買ってきました。
コンドルのこの本は、本格的な紹介で、人となりや技法まで立ち入っています。
外国人がこれを書いたというところに、明治の我が国の文化のあり方が示されているのかも知れません。
暁斎が子どものころに、生首を拾ってきて写生したという話を展示会で読みましたが、より詳しい形で、紹介されていました。ここまで書いてもらうと、納得できるエピソードとなります。
コンドルのこの本は、本格的な紹介で、人となりや技法まで立ち入っています。
外国人がこれを書いたというところに、明治の我が国の文化のあり方が示されているのかも知れません。
暁斎が子どものころに、生首を拾ってきて写生したという話を展示会で読みましたが、より詳しい形で、紹介されていました。ここまで書いてもらうと、納得できるエピソードとなります。
二つの「サロメ」の本 ― 2008/05/12
ブックオフで先日4冊の本を買ったと書きました。
2冊は、正岡子規にかかわる本。残り2冊は、「サロメ」でした。
私が知っていたサロメは、ワイルドの戯曲だけでした。といっても、筋書きは知っていましたが、翻訳でも読んだことがありませんでした。
たまたま、105円コーナーで、山川鴻三『サロメ -永遠の妖女-』(新潮選書)を見つけました。手にとって、知った名前がたくさん登場するし、読み応えのありそうな本でしたので、買いました。
それをもって、文庫本のコーナーを回ると、どういうわけか、ワイルド・福田恒存訳『サロメ』(岩波文庫)(上の写真)がありました。ビアズレーの挿絵が表紙に使われていますね。
これって偶然?同じ人が売ったのかも。
一昨日の夜、二つを読みました。さすがに深夜になってしまいました。
はずかしいことに、サロメの出所は聖書であること、ワイルドの戯曲以外に多数あることなどをまったく知りませんでした。
絵画や文学の素材として、長期にわたって取り上げられてきたのですね。それだけ、センセーショナルな、そして想像力を書き立てる物語ではありますね。
モローやクリムトの絵はどなたも見たことがあると思うのですが。
2冊は、正岡子規にかかわる本。残り2冊は、「サロメ」でした。
私が知っていたサロメは、ワイルドの戯曲だけでした。といっても、筋書きは知っていましたが、翻訳でも読んだことがありませんでした。
たまたま、105円コーナーで、山川鴻三『サロメ -永遠の妖女-』(新潮選書)を見つけました。手にとって、知った名前がたくさん登場するし、読み応えのありそうな本でしたので、買いました。
それをもって、文庫本のコーナーを回ると、どういうわけか、ワイルド・福田恒存訳『サロメ』(岩波文庫)(上の写真)がありました。ビアズレーの挿絵が表紙に使われていますね。
これって偶然?同じ人が売ったのかも。
一昨日の夜、二つを読みました。さすがに深夜になってしまいました。
はずかしいことに、サロメの出所は聖書であること、ワイルドの戯曲以外に多数あることなどをまったく知りませんでした。
絵画や文学の素材として、長期にわたって取り上げられてきたのですね。それだけ、センセーショナルな、そして想像力を書き立てる物語ではありますね。
モローやクリムトの絵はどなたも見たことがあると思うのですが。
『明治日本のギャグマスター 暁斎漫画展』@京都国際マンガミュージアムに行きました ― 2008/04/26
京都国立博物館につづいて、京都国際マンガミュージアムに足を運びました。
同じ暁斎展でも、タイトルそのものが違っています。もちろん内容もですが、マンガミュージアムらしいアングルが感じられますね。
ここには、より庶民的な、より社会的な、より俗世間で生きる明治人としての暁斎を見ることができました。
暁斎は、おどろおどろしさを好む趣味人という範囲に止まらない存在です。明治政府に逮捕されて、投獄された経歴をもっているのもはじめて知りました。彼の絵からは、現世的な権力とか宗教的な権威への懐疑と嘲笑が漂ってきます。その批判的な目は、「自由」をふるかざす者(福沢諭吉、板垣退助など)たちへの向けられていることに興味を覚えました。それを見たら、逮捕したくなるのはわかる気がしますね(笑)。 さらに長生きして、日本の近代史の諸事件を目の当たりにしたら、どれだけ強烈な絵が生み出されたのかわかりません。
そうそう、晩年のゴヤのような絵を残したように思えるのです。
現代は日本のアニメに世界的な関心が寄せられています。暁斎は、その規模には及びませんが、ジャポニズムが西欧で流行したタイミングともあわせて、注目されていたことをはじめて知りました。
同じ暁斎展でも、タイトルそのものが違っています。もちろん内容もですが、マンガミュージアムらしいアングルが感じられますね。
ここには、より庶民的な、より社会的な、より俗世間で生きる明治人としての暁斎を見ることができました。
暁斎は、おどろおどろしさを好む趣味人という範囲に止まらない存在です。明治政府に逮捕されて、投獄された経歴をもっているのもはじめて知りました。彼の絵からは、現世的な権力とか宗教的な権威への懐疑と嘲笑が漂ってきます。その批判的な目は、「自由」をふるかざす者(福沢諭吉、板垣退助など)たちへの向けられていることに興味を覚えました。それを見たら、逮捕したくなるのはわかる気がしますね(笑)。 さらに長生きして、日本の近代史の諸事件を目の当たりにしたら、どれだけ強烈な絵が生み出されたのかわかりません。
そうそう、晩年のゴヤのような絵を残したように思えるのです。
現代は日本のアニメに世界的な関心が寄せられています。暁斎は、その規模には及びませんが、ジャポニズムが西欧で流行したタイミングともあわせて、注目されていたことをはじめて知りました。
ピカソ展 ― 2007/10/07
京都の「えき」ビルでピカソ展がありました。
陶器が多数展示されていたのが特徴でした。
晩年のミノタウロスが出てくるエッチング(?)もありました。
最初は、人が多くて落ち着きませんでしたが、
それにもかかわらず、静かな雰囲気でしたので、
集中して見ることができました。
絵画だけではなく、いろんな分野に挑戦している姿が
具体的にわかって、よかったと思います。
女性関係はにぎやかな人だとあらためて
感心もしましたが。
しかし、ピカソ亡き後、夫人、元夫人(何番目の?)
が最後は自殺というのは、つらいことです。
そうそう、ポスターはシンプルな形でしたが、
展示の内容にあわせて作られているのが興味深かったです。
ドラクロアやマネ展などは、もととなった絵が有名なだけに、
ピカソ風アレンジが面白かったのです。
どのような年齢でもその気持ちがあれば、
新鮮さを保って生きられることを実感しました。
もう老いたのでというのは、死語にすべきかも。
陶器が多数展示されていたのが特徴でした。
晩年のミノタウロスが出てくるエッチング(?)もありました。
最初は、人が多くて落ち着きませんでしたが、
それにもかかわらず、静かな雰囲気でしたので、
集中して見ることができました。
絵画だけではなく、いろんな分野に挑戦している姿が
具体的にわかって、よかったと思います。
女性関係はにぎやかな人だとあらためて
感心もしましたが。
しかし、ピカソ亡き後、夫人、元夫人(何番目の?)
が最後は自殺というのは、つらいことです。
そうそう、ポスターはシンプルな形でしたが、
展示の内容にあわせて作られているのが興味深かったです。
ドラクロアやマネ展などは、もととなった絵が有名なだけに、
ピカソ風アレンジが面白かったのです。
どのような年齢でもその気持ちがあれば、
新鮮さを保って生きられることを実感しました。
もう老いたのでというのは、死語にすべきかも。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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