お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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スビャトスラフ・リヒテルとバッハ2001/11/18

これは、私がこの日に書いたものです。
ブログはそれからずいぶんあとに作りました。
後から読むと、すこし恥ずかしい気がしますが、サイトから転載しました。
もとのタイトルは「リヒテルさんとバッハ」です。

*********************
バッハ、この名前のまえに、私はことばを失います。
 マタイ受難曲をきいたときの驚きと衝撃、その他たくさんの傑作...感動したって話をしだすと際限がなくなります。
 リヒテルさんの弾くバッハを、私はとても好きです。好きといったら、対等みたいですけれど、心の糧にしています。
 他のひとたちのバッハ、たとえば、平均率クラビィア曲集は、少ないけれど10数名の演奏家のものを聴いています。エドヴィン・フィッシャーさん、テューレックさん、アファナシェフさん、カークパトリックさん、レオンハルトさん...もちろん、グールドさんもその一人。
 グールドさんのバッハは、とても透明感があり、刺激的で、それでいてチャーミングです!しかし、心の奥底が乾いたとき、目はリヒテルさんのCDを探しているのです。
 
 リヒテルさんにとって、J.S.バッハは特別な存在だと思います。
 だって、曲集としては全曲を演奏し録音しているのは、バッハの平均率クラビーア集第1巻と第2巻だけ。
 これは、リヒテルさんの気質を考えると偶然ではありえないことです。
 それに、バッハを選ぶことが、ソ連のピアノ曲目の選択基準からはずれていたらしい...リヒテルさん自身のことばによると、

 『古い伝統の源泉がロマン主義的なものであったせいで、ソ連ではバッハを弾くピアニストがほとんどいませんでした。《平均率クrヴィア曲集》はコンサートの演目にはけっして入りませんでした。オルガン曲をリストやブゾーニが編曲したものだけが市民権をもち、四十八の〈前奏曲〉と〈フーガ〉はただ音楽院の試験科目に適した曲とみなされていました。私以前に(のちにはマリア・ユージナがいますが)プログラムに入れたのは、サムイル・フェインベルクくらいしか思いあたりません』(『リヒテル』90㌻)

 わたしには確かめるすべはありませんが、リヒテルさんのいうとおりだったのでしょう。
 では、なぜ、ソ連で時流に適していないものをリヒテルさんは、リサイタルでとりあげたのか?
 そして、あえて全曲演奏したのか?

 ご自身の証言があります。

『私は全曲録音にこだわる人間ではありません。たとえばショパンの《練習曲》を全部弾くわけではありません。ちゃんとした理由がありまして、あのなかの何曲かは弾き心地がよくないのです。たとえば完全八度の練習曲がそうで、好きではありません。ベートーヴェンのソナタも全部は弾きません。二十二曲だけです。唯一の例外は《平均率クラヴィア曲集》の全曲演奏で、これはピアニストなら誰にとってもひとつの義務でしょう。私も挑戦のつもりで、自分を乗り越えるべく、無理してやりました。最初はそれほど好きではなかったのに習得しようと決意したのは、おそらくは、父が教えてくれた、あらゆる音楽への敬意でしょう。しかしひとたび没頭すると、この曲集がよくわかり、夢中になりました。』(『リヒテル』95-96㌻)

 リヒテルさんが『自分を乗り越えるべく、無理してやりました』ということばが、私に強い印象をうけました。
 でも、リヒテルさんは、なぜパルティータを弾かなかったのでしょうか?
なぜ、ゴールドベルグ変奏曲を弾かなかったのでしょうか?
それらが『弾き心地がよくな』かったのでしょうか。
 わかるかたはいらっしゃいますか(笑)?

        2001年11月18日

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)