お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
村田武雄『若い人のための音楽入門2』--冷戦時代の勇気 ― 2005/07/24
街の古本屋でつぎの本を見つけ、買いました。
村田武雄著 『音楽の生活 若い人のための音楽入門2』 (音楽の友社)
裏を見ると昭和44年7月1日発行とあります。
●1966年(昭和44)という年
パラパラとめくって、21世紀の今日では
書かれないと思われる章がありました。
そのことについて書きたいと思います。
私が知っている歴史の知識を使って。
1964年、トンキン湾事件。
ジョンソン新大統領のもと、
アメリカはベトナムへの侵略を本格化させました。
1965年2月、北ベトナムへ大規模な空爆開始。
しかし、1960年代の世界は、2004年の世界ではありません。イラク戦争への反対が、開始前から全世界でまきおこったこととは対照的に、ベトナムへ平和をという声は、かなたにかすんでいました。
ベトコンとは悪名を意味しました。
アメリカは正義の代名詞でした。
国防長官マクナマラが、ベトナム戦争をまちがっていたと
口にするまでには、さらに半世紀の年月が必要だったのです。
沖縄から、連日飛び立つ爆撃機は、ドミノ倒しを防ぐために、
悪の共産主義者の血を、たっぷり大地に吸わせていました。
反対の先頭にたつことを期待されたソ連と中国は
相互に激烈に対立していました。
両者は、日本の平和を願う人々を、
その支配の道具にしようと、疑心暗鬼と対立を広げていました。見解の違うものへの非難は容赦のないものでした。
時代は、殺伐としていました。
その最中にこの本が書かれ、出版されたのです。
第十章は「戦争と音楽」
ベンジャミン・ブリテンにたくして
村田武雄氏は、若者に訴えています。
「戦争は若者や青年の犠牲によって行われるものです。老人や子供のために強いられる犠牲ではありません。だから世界の若い人よと呼びかけて、この曲(《戦争レクイエム》のこと)に触れて、それをよく考えて、青年から戦争をしない決意を引き出そうとしたのが、ブリトゥンがこの曲を書いた精神でした。」(179頁)
第十二章は「イディオロギーと音楽」
うえに見たように、
このとき東西対立はもっとも激しく燃え上がり、
相互の非難は妥協を許さないものでした。
白でなければ黒。
さまざまな色合いを認めないイデオロギー戦争でした。
村田武雄氏は、この焦眉の問題を避けようとしていません。
むしろ、その対立の火中にむかっています。
筆はあくまで冷静でやさしく、飛躍することがありません。
旧ソ連の「社会主義リアリズム」に
触れて、つぎのように書いています。
音楽が「一つの主義やイディオロギーにしたがうことがよいかどうかをここでせんさくする必要はないと思います。わたしは共産主義者ではありません。しかしその中から生まれ出るよい芸術には、そんな主義や思想を超越して感動させられますし、またなんのへだてもなく感動ができます。」(189頁)
村田武雄氏は
プロコフィエフのオラトリオ「平和のまもり」を
とりあげ、資料の音楽をきいてもらって
青年との対話します。
そして、
この章のむすびはつぎのようになっています。
「音楽は人間の頭で考える主義や思想を超えて、人々の心の中に飛び込んでいって、主張、思想をさらにつきつめていった、人間が生きる力の生命と一つになってゆくものだからです。考える世界から感じる世界に達すると、もう主義、主張などに左右されません。訴えてくるものをそのまま裸でうけとめる、感動しかないのです。」(193頁)
血なまぐさい戦争が再び起こる中で
東西対立がさらに深まるなかで書かれたこの本。
誠実さ、やさしさの背後に
凛とした精神をうかがうことができました。
村田武雄著 『音楽の生活 若い人のための音楽入門2』 (音楽の友社)
裏を見ると昭和44年7月1日発行とあります。
●1966年(昭和44)という年
パラパラとめくって、21世紀の今日では
書かれないと思われる章がありました。
そのことについて書きたいと思います。
私が知っている歴史の知識を使って。
1964年、トンキン湾事件。
ジョンソン新大統領のもと、
アメリカはベトナムへの侵略を本格化させました。
1965年2月、北ベトナムへ大規模な空爆開始。
しかし、1960年代の世界は、2004年の世界ではありません。イラク戦争への反対が、開始前から全世界でまきおこったこととは対照的に、ベトナムへ平和をという声は、かなたにかすんでいました。
ベトコンとは悪名を意味しました。
アメリカは正義の代名詞でした。
国防長官マクナマラが、ベトナム戦争をまちがっていたと
口にするまでには、さらに半世紀の年月が必要だったのです。
沖縄から、連日飛び立つ爆撃機は、ドミノ倒しを防ぐために、
悪の共産主義者の血を、たっぷり大地に吸わせていました。
反対の先頭にたつことを期待されたソ連と中国は
相互に激烈に対立していました。
両者は、日本の平和を願う人々を、
その支配の道具にしようと、疑心暗鬼と対立を広げていました。見解の違うものへの非難は容赦のないものでした。
時代は、殺伐としていました。
その最中にこの本が書かれ、出版されたのです。
第十章は「戦争と音楽」
ベンジャミン・ブリテンにたくして
村田武雄氏は、若者に訴えています。
「戦争は若者や青年の犠牲によって行われるものです。老人や子供のために強いられる犠牲ではありません。だから世界の若い人よと呼びかけて、この曲(《戦争レクイエム》のこと)に触れて、それをよく考えて、青年から戦争をしない決意を引き出そうとしたのが、ブリトゥンがこの曲を書いた精神でした。」(179頁)
第十二章は「イディオロギーと音楽」
うえに見たように、
このとき東西対立はもっとも激しく燃え上がり、
相互の非難は妥協を許さないものでした。
白でなければ黒。
さまざまな色合いを認めないイデオロギー戦争でした。
村田武雄氏は、この焦眉の問題を避けようとしていません。
むしろ、その対立の火中にむかっています。
筆はあくまで冷静でやさしく、飛躍することがありません。
旧ソ連の「社会主義リアリズム」に
触れて、つぎのように書いています。
音楽が「一つの主義やイディオロギーにしたがうことがよいかどうかをここでせんさくする必要はないと思います。わたしは共産主義者ではありません。しかしその中から生まれ出るよい芸術には、そんな主義や思想を超越して感動させられますし、またなんのへだてもなく感動ができます。」(189頁)
村田武雄氏は
プロコフィエフのオラトリオ「平和のまもり」を
とりあげ、資料の音楽をきいてもらって
青年との対話します。
そして、
この章のむすびはつぎのようになっています。
「音楽は人間の頭で考える主義や思想を超えて、人々の心の中に飛び込んでいって、主張、思想をさらにつきつめていった、人間が生きる力の生命と一つになってゆくものだからです。考える世界から感じる世界に達すると、もう主義、主張などに左右されません。訴えてくるものをそのまま裸でうけとめる、感動しかないのです。」(193頁)
血なまぐさい戦争が再び起こる中で
東西対立がさらに深まるなかで書かれたこの本。
誠実さ、やさしさの背後に
凛とした精神をうかがうことができました。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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