お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

お気軽に感想やコメントをお寄せください。


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青年劇場「真珠の首飾り」を見て来ました2005/07/10

●真珠の首飾り
http://www.seinengekijo.co.jp/s-sinnzyu/sinnju.html

 青年劇場『真珠の首飾り』(脚本:ジェームズ三木)をびわこホールで見ました。
「真珠の首飾り」とは、極秘プロジェクトのコードネームでした。
 ちなみに、この劇は、《わずか一週間で草案を作成したGHQ民生局員たちがいた。ジャズの名曲にのせて描く日本国憲法誕生の舞台裏》という内容でした。

いま大切にしなければならない内容。
こころは熱くなりましたが、日本人が日本語で演じることへの抵抗が最後まで消えませんでした。

 いまから60年前の出来事ですが、詳細な速記記録が残っていること、そしてなによりも生き証人が存在することが奇跡のように思えます。
 ベアテ・シロタ・ゴードンその人です。

詳しくは以下のサイトをご覧ください。
http://www.seinengekijo.co.jp/f-shinnju.html

三善晃氏と現代の響き2005/07/13

11日の朝、BS2で
三善晃氏がバルトークの足跡を
たどる旅の再放送をしていた。
バックに流れていたのは、
「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」

足跡を辿るといっても、アメリカ亡命前の
ハンガリーのことである。

馬車にのり、これは「若い自分への旅」でもある
たしか、そういう意味のことを話されていた。
それがとても印象に残った。
若いときに、進駐軍(米占領軍)の放出した
レコードで聴いたという。

「その音楽がぼくの体に中に、血液の中に
ながれてきて・・・。」
こういう表現で体験を語る氏の
表情はとても遠くを見つめるそれであった。

映し出された氏は1994年、
つまり10年以上まえの氏である。
今は、どうされているのか。
なぜ、いま、これが再放送されたんだろう。

そういえば、三善晃氏の音楽をきいたことがある。
バイオリン協奏曲(1965)である。
さがしたけれど、見つからない・・・。

とてもシリアスなものだったように思う。

「バルトークに、現代の響きをきいた。
はじめて入る部屋のような気持ちだった」
三善氏は20歳そこそこの体験をこう語っていた。

私は、現代の響きと向かい合っているのだろうか。
それを求めていないのだろうか。

三善晃さんのHP
http://www.tokyo-concerts.co.jp/artist/miyoshi.html

亀山郁夫『ロシア・アヴァンギャルド』に2005/07/23

亀山郁夫氏の『ロシア・アヴァンギャルド』(岩波新書)を読みました。

20世紀初頭から20年代にかけてのロシアの前衛芸術について
・・・つまり、詩、造形、音楽、文学など、芸術全体としての動きを
はじめてまとまった文章として読むことができました。

それは、とても驚きでしたし、刺激的でした。

私が大学でロシア語を学んだときには、
このような角度からの研究はなかったと思います。
ロシア史といえば、デカブリストからはじまる革命史に
研究の主題が偏っていた時代でしたから。

村田武雄『若い人のための音楽入門2』--冷戦時代の勇気2005/07/24

街の古本屋でつぎの本を見つけ、買いました。

村田武雄著 『音楽の生活 若い人のための音楽入門2』 (音楽の友社)
裏を見ると昭和44年7月1日発行とあります。

●1966年(昭和44)という年

パラパラとめくって、21世紀の今日では
書かれないと思われる章がありました。
そのことについて書きたいと思います。
私が知っている歴史の知識を使って。

1964年、トンキン湾事件。
ジョンソン新大統領のもと、
アメリカはベトナムへの侵略を本格化させました。
1965年2月、北ベトナムへ大規模な空爆開始。

しかし、1960年代の世界は、2004年の世界ではありません。イラク戦争への反対が、開始前から全世界でまきおこったこととは対照的に、ベトナムへ平和をという声は、かなたにかすんでいました。

ベトコンとは悪名を意味しました。
アメリカは正義の代名詞でした。
国防長官マクナマラが、ベトナム戦争をまちがっていたと
口にするまでには、さらに半世紀の年月が必要だったのです。

沖縄から、連日飛び立つ爆撃機は、ドミノ倒しを防ぐために、
悪の共産主義者の血を、たっぷり大地に吸わせていました。
反対の先頭にたつことを期待されたソ連と中国は
相互に激烈に対立していました。
両者は、日本の平和を願う人々を、
その支配の道具にしようと、疑心暗鬼と対立を広げていました。見解の違うものへの非難は容赦のないものでした。

時代は、殺伐としていました。
その最中にこの本が書かれ、出版されたのです。

第十章は「戦争と音楽」
ベンジャミン・ブリテンにたくして
村田武雄氏は、若者に訴えています。

「戦争は若者や青年の犠牲によって行われるものです。老人や子供のために強いられる犠牲ではありません。だから世界の若い人よと呼びかけて、この曲(《戦争レクイエム》のこと)に触れて、それをよく考えて、青年から戦争をしない決意を引き出そうとしたのが、ブリトゥンがこの曲を書いた精神でした。」(179頁)

第十二章は「イディオロギーと音楽」
 うえに見たように、
 このとき東西対立はもっとも激しく燃え上がり、
 相互の非難は妥協を許さないものでした。
 白でなければ黒。
 さまざまな色合いを認めないイデオロギー戦争でした。

 村田武雄氏は、この焦眉の問題を避けようとしていません。
 むしろ、その対立の火中にむかっています。
 筆はあくまで冷静でやさしく、飛躍することがありません。
 旧ソ連の「社会主義リアリズム」に
 触れて、つぎのように書いています。

 音楽が「一つの主義やイディオロギーにしたがうことがよいかどうかをここでせんさくする必要はないと思います。わたしは共産主義者ではありません。しかしその中から生まれ出るよい芸術には、そんな主義や思想を超越して感動させられますし、またなんのへだてもなく感動ができます。」(189頁)
 村田武雄氏は
 プロコフィエフのオラトリオ「平和のまもり」を
 とりあげ、資料の音楽をきいてもらって
 青年との対話します。
 そして、
 この章のむすびはつぎのようになっています。

 「音楽は人間の頭で考える主義や思想を超えて、人々の心の中に飛び込んでいって、主張、思想をさらにつきつめていった、人間が生きる力の生命と一つになってゆくものだからです。考える世界から感じる世界に達すると、もう主義、主張などに左右されません。訴えてくるものをそのまま裸でうけとめる、感動しかないのです。」(193頁)

 血なまぐさい戦争が再び起こる中で
 東西対立がさらに深まるなかで書かれたこの本。
 誠実さ、やさしさの背後に
 凛とした精神をうかがうことができました。

かけがえのないリヒテルの世界 : プロコフィエフ第二ソナタ2005/07/25

プロコフィエフのピアノ・ソナタ第二番は、なかなかチャーミングです。
ラフマニノフとちがい情緒があふれているとはいえません。
あふれているといえば、わさびに効いた機知でしょうか。

私がお勧めしたいのは、1989年2月にウィーンのヤマハ・センターで行われたコンサートのライヴ盤です。
 そういえば、リヒテルさんは、この前年の1988年の9月から10月まで日本を7度目に訪問していますね。10月23日に京都、26日に東京で、同じ曲をプログラムに乗せているので、聴いた人がいるはずです。
 自分の棚を探すと、1965年と1994年に同じ曲の録音があります。
 それぞれ聴いてみました。
 65年の演奏は、音は最悪ですが、快速で、ふっ飛ばします。89年が一番すてきです。
 94年の演奏は、遅く、弱弱しいきらいは捨て切れません。でも、悪くない。ただし、第四楽章を除いて。
 巨匠の指がコントロールしきれていないと思うのです。

 音は再現できないので、タイミングだけ書きます。
 なお解説文の演奏時間はあてにならない(拍手の時間も入っている)ので、自分で確認した演奏時間を載せます。

①DHR-7758 DOREMI
    1965年4月19日
    ニューヨークのカーネギー・ホールのライヴ
第一楽章 6分36秒
第二楽章 1分46秒
第三楽章 5分21秒
第四楽章 4分12秒

②LONDON(DECCA) POCL-1272/3
    1989年2月 
    ウィーンの『20世紀ピアノ音楽の夕べ』ライヴ
第一楽章 7分28秒
第二楽章 2分00秒
第三楽章 5分37秒
第四楽章 4分56秒

③LIVECLASSICS LCL472
    1994年5月19日
     Ludwigshafen 
第一楽章 7分14秒
第二楽章 2分03秒
第三楽章 5分33秒
第四楽章 5分01秒

諸井誠『音楽の現代史』(1986年)2005/07/26

『音楽の現代史』(岩波新書)を読みました。

これは、諸井誠氏が、1986年に書いたものです。
サブタイトルは、「世紀末から戦後へ」

19世紀末から第二次世界大戦の終わる1945年までが、
叙述の対象となっています。

目次はつぎのとおりです。

第一章 世紀末の残影
     -ドビュッシー、マーラー、
      リヒャルト・シュトラウス-
第二章 バレエ音楽に前衛性を探る
     -ストラヴィンスキーとバルトーク-
第三章 通俗的素材の見直しと新古典主義の台頭
     -第一次世界大戦前後-
第四章 戦間期における現代オペラの諸傾向
     -「ヴォッツェク」から「ルル」まで-
第五章 1930年代後半の退嬰性を解剖する
     -20世紀のヴァイオリン協奏曲が意味するもの-

素人が頭を整理するのにとても助かる内容です。
しかし、音楽についての記述が主となるのは当然ですが、
これは、単なる音楽史ではありません。
そこには、別の角度からの叙述があります。

《普仏戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と、三度にわたる戦争が音楽にもたらした影響はきわめて大きく、社会主義革命とも絡んで、政治と音楽の間の複雑な関係の所在が明らかになる。》(序論)
 だから、それを本書で追求するというのです。

 結論はなにか。

《音楽好きの政治学者が、
 フルトヴェングラー事件に特別の関心を持つのは
 当然なのかもしれないが、
 これに比べると、音楽家の側で
 これが真剣に論じられる機会はあまりに少ない。
 この事件が今日われわれに教えてくれるものは、
 政治音痴は、現代社会においては
 芸術家にさえも許されないということである。》

諸井誠氏は、音楽家です。
だから、音楽家にたいして、きびしい発言をしたのだと
思います。
しかし、歴史の法廷のまえに立たされているのは、なにも
音楽家だけではありません。
立つつもりはなくても、私もあなたも。
なぜなら、ドイツであろうと、日本であろうと、
人を押しつぶす圧力はそんなに変わってはいないと
思えるからです。

ロスラヴェッツ--ロシアの「シェーンベルク」2005/07/27

ロシアの「シェーンベルク」といわれた
ニコライ・ロスラヴェッツ(1881-1944)
実際にCDで作品を聴けるのだろうか?

とりあえず、探してみた。

http://pseudo-poseidonios.net/okuzashiki/6_review_1.htm

Nikolay Roslavets : Piano Music
(Hyperion CDA66926)
1. Three Composition (1914)
2. Three Etudes (1914)
3. Piano Sonata No.1 (1914)
4. Prelude (1915)
5. Two Composition (1915)
6. Piano Sonata No.2 (1916)
7. Two Poems (1920)
8. Five Preludes (1919 - 1922)
9. Piano Sonata No.5 (1923)


Marc-André Hamelin (pf)

DRC3023 ブリッジ:ピアノ三重奏曲第2番(1928-1929)
ロスラヴェッツ:ピアノ三重奏曲第3番(1921) トリオ・ア・ピアセーレ[エギディ(Vn)、デサルザン(Vc)、フックス(P)]DDD

アンソニー・ストー『音楽する精神』2005/07/28

アンソニー・ストーの
『音楽する精神』(白楊社 1994年)
副題は、「人はなぜ音楽を聴くのか?」

訳者は《ストーの博識と難渋かつ入念な筆致に大いに頭を悩まされることになった》と書いている。

最初から読み始めた私は、
日本語になっても、その悩ましさは変わらないと思った。

章立ても、内容も、魅力的ではあるが、
それだけではゴールが遠い。

日本語で300ページを超える。
その最後の章の
最後の段落。
つまり、この著作は、
つぎのような一文で終わっている。

《さて、最後に私の信念を披露したい。ニーチェ同様、私にとって音楽とは「現世の暮らしもまんざら捨てたものではないと思わせる何ものか」である。音楽は、私の人生をたとえようもなく豊かにしてきた。それはかけがえのない、身に余りある、人知の及ばない神の賜物である。》

けっしてストレートではない書き方に戸惑っていた私は、
この言葉に納得した。
やっぱり、あなたもでしたかと。

この音楽への愛の告白で
私は、この本を読み通す力を得たように思う。
難解さはかわらないにしても。

ブラームス=官能的な追憶?2005/07/29

●アファナシェフVSブラームス

ヴァレリー・アファナシェフは、ピアニストであると同時に作家でもあります。

「最期のときーーブラームスとチェーホフ」 という興味深い文があります。

そのなかで、ブラームスについて つぎのように書いています。

《多くのドイツ人と(そしてロシア人も)同じように、
 ブラームスは、自分の幼年時代、老年、母親、
 そして、人生一般に関して感傷的であった。
 感傷的なひとは誰でも、
 あらゆる種類の終末に惹かれやすく
 ほとんど淫しているといてもよい。》

《いずれにしても、ブラームスは、
 未来よりもはるかに過去に関心があった。
 現在においても、過ぎ去ったものの思い出ほど
 彼の気を引くものはなかった。》

 そして、

 《彼の音楽は、途切れることのない、
  官能的な追憶のようだ》と。

私は、上の文をふくめ
   アファナシェフが書いた
   『ドッペルゲンガーの鏡像 音楽と文学の間に』
   (論創社 2001年)
   という本に、夢中です。

●アファナシェフVSグールド

45歳のときにアファナシェフさんが録音したブラームスの後期ピアノ曲集は
どこまでも心に沈んでいくような感じがします。
しかし、『官能的な追憶』という彼の特徴づけをより的確に描いているのは、むしろ、28歳のときのグレン・グールドの録音のほうだと私には思えるのです。

プロコフィエフはなぜ旧ソ連にもどったのか?2005/07/30

●プロコフィエフはなぜ戻ってきたのだろうか?

20世紀初頭のロシア革命は、
すぐれたロシア人音楽家を祖国から遠ざける結果となりました。

たとえば、ストラヴィンスキー、グラズノフ、ラフマノニフ、プロコフィエフ。

プロコフィエフは、他の音楽家たちが二度と祖国の土を
踏まなかったこととは対照的に、旧ソ連に戻り、
そこで地位をえて、なくなりました。

なぜ、プロコフィエフはもどってきたのでしょうか?

●全面に降伏?

一柳富美子氏さんは、
プロコフィエフがソ連体制を忌み嫌っていたことを
念をおしたうえで、つぎのように答えています。

《自尊心の強いプロコフィエフは、もしかしたらスターリン体制と闘って、自分の音楽が勝てると思ったのかもしれない。だが実際には、抑圧は想像をはるかに越えて厳しく、オラトリオ『平和を見守って』(50)などの国家に迎合する曲を書かされ続け、体制に押し潰されてしまったのである。》
 ---『ロシア』(新潮社1994年)216㌻

つまり、
プロコフィエフは《ソ連体制に全面的に敗北した》のだ、と。

●ロシア人だから

私は、自尊心よりも、 プロコフィエフ自身が、パリ時代に
セルジュ・モルーに語ったという次の内容のほうび
ぴったりくるように思えるのです。

《外国の空気、私のインスピレーションには向いていないのだ。
 私はロシア人だから・・・  そして私のような人間にとっては、
  亡命生活ということ、 つまり私の種族に適していない 精神的風土の
 なかにいるということは、向いていないのだ。
 私もそうだが、 ロシア人というものは、自分の国土の土を
 もって歩いているようなものだ。むろん国土全部をではない。
 ほんの少しだけ・・・
 それも最初のうちはわずかしか苦痛を感じないが、
 だんだんひどくなり、 しまいにはそのために駄目になってしまう。
 ・・・私は帰らなければならない。私はもう一度故国の雰囲気の中に
 ひたりこまなければならない。
 私はまた本当の冬を、一瞬間ごとに咲き開いてゆく春を
 みなければならないのだ。
 ロシア語が耳いっぱいにひびくのを聞き血と肉をわけた同胞たちと
 話すのだ。彼らはここには無いものを私に返してくれるだろう》と

  諸井誠『音楽の現代史』(岩波新書 1986年)
  209~210㌻
     プロコフィエフのことばそのものは、
     戸田邦雄『プロコフィエフ』アテネ文庫
     から引用されている

これを信じて読めば、プロコフィエフがプロコフィエフたるために、
祖国にもどったのだろうと思われるのです。

●リヒテルはプロコフィエフをどう見ていたのか?

プロコフィエフについて リヒテルが語るところを読むと、
プロコフィエフは、むしろ、したたかであり、
無節操さえ辞さないリアリストであると思えるのです。

《プロコフィエフには悲劇的作品がほとんどありません。彼自身がどちらかといえば陽気で積極的な性格だからです。》

《セルゲイ・プロコフィエフはとても興味深い人でしたが、
 また・・・・・・危険な人でもありました。他人を壁に向かって突き飛ばしかねませんでした。》

《彼は粗暴でした。始終「申し訳ありませんが、・・・」と口ごもっていたショスタコーヴィッチとはまったく対照的でした。そう、彼は頑として、健康に満ちあふれていました。私にはむしろ好ましい性格です。それに、原理原則には縛られない人でした。もっとも、1948年に中央委員会の新音楽を断罪する集まりで、ジダーノフから形式主義に対する乱暴な非難を受けたとき、勇敢にも、相手の目をまっすぐ見据えてこう返答しましたがーーー「どんな権利があって、私にそんな口の利き方をされるんですか。」 》

 《とはいえ、原理原則に押しつぶされたりしませんでした。必要とあれば、注文に応じて書くこともできました。たとえば、スターリンの何回目かの誕生日に際して、いわば彼の栄光を称える頌歌として注文をうけた『祝杯』の場合がそうです。この作品は、今では取り上げることさえ不可能でしょう。「スターリンに栄光あれ、われら皆の父に」なんていう文句ですから・・・。歌詞を変えれば別ですけれど。ところが、作品の出来栄えはじつに見事です。実際、これはひとつの記念碑です。ただし、彼プロコフィエフ自身の栄光を称える記念碑です。彼はこれを一種の不適さ、高貴な無道徳性をもって行いました。ーーー「スターリン?どのスターリンだい?そうとも、もちろんさ。私には何だってやれるんだよ、この種のことも含めてね。」彼にとっては音楽を書くことにすぎなかったのです。それができたのです・・・。》
  モンサンジョン『リヒテル』(筑摩書房 2000年)
   84~85㌻

その音楽はともかくとしても、個人的には
あまりお近づきになりたくない人物に思えてきます。

                            


BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)