お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
プロコフィエフはなぜ旧ソ連にもどったのか? ― 2005/07/30
●プロコフィエフはなぜ戻ってきたのだろうか?
20世紀初頭のロシア革命は、
すぐれたロシア人音楽家を祖国から遠ざける結果となりました。
たとえば、ストラヴィンスキー、グラズノフ、ラフマノニフ、プロコフィエフ。
プロコフィエフは、他の音楽家たちが二度と祖国の土を
踏まなかったこととは対照的に、旧ソ連に戻り、
そこで地位をえて、なくなりました。
なぜ、プロコフィエフはもどってきたのでしょうか?
●全面に降伏?
一柳富美子氏さんは、
プロコフィエフがソ連体制を忌み嫌っていたことを
念をおしたうえで、つぎのように答えています。
《自尊心の強いプロコフィエフは、もしかしたらスターリン体制と闘って、自分の音楽が勝てると思ったのかもしれない。だが実際には、抑圧は想像をはるかに越えて厳しく、オラトリオ『平和を見守って』(50)などの国家に迎合する曲を書かされ続け、体制に押し潰されてしまったのである。》
---『ロシア』(新潮社1994年)216㌻
つまり、
プロコフィエフは《ソ連体制に全面的に敗北した》のだ、と。
●ロシア人だから
私は、自尊心よりも、 プロコフィエフ自身が、パリ時代に
セルジュ・モルーに語ったという次の内容のほうび
ぴったりくるように思えるのです。
《外国の空気、私のインスピレーションには向いていないのだ。
私はロシア人だから・・・ そして私のような人間にとっては、
亡命生活ということ、 つまり私の種族に適していない 精神的風土の
なかにいるということは、向いていないのだ。
私もそうだが、 ロシア人というものは、自分の国土の土を
もって歩いているようなものだ。むろん国土全部をではない。
ほんの少しだけ・・・
それも最初のうちはわずかしか苦痛を感じないが、
だんだんひどくなり、 しまいにはそのために駄目になってしまう。
・・・私は帰らなければならない。私はもう一度故国の雰囲気の中に
ひたりこまなければならない。
私はまた本当の冬を、一瞬間ごとに咲き開いてゆく春を
みなければならないのだ。
ロシア語が耳いっぱいにひびくのを聞き血と肉をわけた同胞たちと
話すのだ。彼らはここには無いものを私に返してくれるだろう》と
諸井誠『音楽の現代史』(岩波新書 1986年)
209~210㌻
プロコフィエフのことばそのものは、
戸田邦雄『プロコフィエフ』アテネ文庫
から引用されている
これを信じて読めば、プロコフィエフがプロコフィエフたるために、
祖国にもどったのだろうと思われるのです。
●リヒテルはプロコフィエフをどう見ていたのか?
プロコフィエフについて リヒテルが語るところを読むと、
プロコフィエフは、むしろ、したたかであり、
無節操さえ辞さないリアリストであると思えるのです。
《プロコフィエフには悲劇的作品がほとんどありません。彼自身がどちらかといえば陽気で積極的な性格だからです。》
《セルゲイ・プロコフィエフはとても興味深い人でしたが、
また・・・・・・危険な人でもありました。他人を壁に向かって突き飛ばしかねませんでした。》
《彼は粗暴でした。始終「申し訳ありませんが、・・・」と口ごもっていたショスタコーヴィッチとはまったく対照的でした。そう、彼は頑として、健康に満ちあふれていました。私にはむしろ好ましい性格です。それに、原理原則には縛られない人でした。もっとも、1948年に中央委員会の新音楽を断罪する集まりで、ジダーノフから形式主義に対する乱暴な非難を受けたとき、勇敢にも、相手の目をまっすぐ見据えてこう返答しましたがーーー「どんな権利があって、私にそんな口の利き方をされるんですか。」 》
《とはいえ、原理原則に押しつぶされたりしませんでした。必要とあれば、注文に応じて書くこともできました。たとえば、スターリンの何回目かの誕生日に際して、いわば彼の栄光を称える頌歌として注文をうけた『祝杯』の場合がそうです。この作品は、今では取り上げることさえ不可能でしょう。「スターリンに栄光あれ、われら皆の父に」なんていう文句ですから・・・。歌詞を変えれば別ですけれど。ところが、作品の出来栄えはじつに見事です。実際、これはひとつの記念碑です。ただし、彼プロコフィエフ自身の栄光を称える記念碑です。彼はこれを一種の不適さ、高貴な無道徳性をもって行いました。ーーー「スターリン?どのスターリンだい?そうとも、もちろんさ。私には何だってやれるんだよ、この種のことも含めてね。」彼にとっては音楽を書くことにすぎなかったのです。それができたのです・・・。》
モンサンジョン『リヒテル』(筑摩書房 2000年)
84~85㌻
その音楽はともかくとしても、個人的には
あまりお近づきになりたくない人物に思えてきます。
20世紀初頭のロシア革命は、
すぐれたロシア人音楽家を祖国から遠ざける結果となりました。
たとえば、ストラヴィンスキー、グラズノフ、ラフマノニフ、プロコフィエフ。
プロコフィエフは、他の音楽家たちが二度と祖国の土を
踏まなかったこととは対照的に、旧ソ連に戻り、
そこで地位をえて、なくなりました。
なぜ、プロコフィエフはもどってきたのでしょうか?
●全面に降伏?
一柳富美子氏さんは、
プロコフィエフがソ連体制を忌み嫌っていたことを
念をおしたうえで、つぎのように答えています。
《自尊心の強いプロコフィエフは、もしかしたらスターリン体制と闘って、自分の音楽が勝てると思ったのかもしれない。だが実際には、抑圧は想像をはるかに越えて厳しく、オラトリオ『平和を見守って』(50)などの国家に迎合する曲を書かされ続け、体制に押し潰されてしまったのである。》
---『ロシア』(新潮社1994年)216㌻
つまり、
プロコフィエフは《ソ連体制に全面的に敗北した》のだ、と。
●ロシア人だから
私は、自尊心よりも、 プロコフィエフ自身が、パリ時代に
セルジュ・モルーに語ったという次の内容のほうび
ぴったりくるように思えるのです。
《外国の空気、私のインスピレーションには向いていないのだ。
私はロシア人だから・・・ そして私のような人間にとっては、
亡命生活ということ、 つまり私の種族に適していない 精神的風土の
なかにいるということは、向いていないのだ。
私もそうだが、 ロシア人というものは、自分の国土の土を
もって歩いているようなものだ。むろん国土全部をではない。
ほんの少しだけ・・・
それも最初のうちはわずかしか苦痛を感じないが、
だんだんひどくなり、 しまいにはそのために駄目になってしまう。
・・・私は帰らなければならない。私はもう一度故国の雰囲気の中に
ひたりこまなければならない。
私はまた本当の冬を、一瞬間ごとに咲き開いてゆく春を
みなければならないのだ。
ロシア語が耳いっぱいにひびくのを聞き血と肉をわけた同胞たちと
話すのだ。彼らはここには無いものを私に返してくれるだろう》と
諸井誠『音楽の現代史』(岩波新書 1986年)
209~210㌻
プロコフィエフのことばそのものは、
戸田邦雄『プロコフィエフ』アテネ文庫
から引用されている
これを信じて読めば、プロコフィエフがプロコフィエフたるために、
祖国にもどったのだろうと思われるのです。
●リヒテルはプロコフィエフをどう見ていたのか?
プロコフィエフについて リヒテルが語るところを読むと、
プロコフィエフは、むしろ、したたかであり、
無節操さえ辞さないリアリストであると思えるのです。
《プロコフィエフには悲劇的作品がほとんどありません。彼自身がどちらかといえば陽気で積極的な性格だからです。》
《セルゲイ・プロコフィエフはとても興味深い人でしたが、
また・・・・・・危険な人でもありました。他人を壁に向かって突き飛ばしかねませんでした。》
《彼は粗暴でした。始終「申し訳ありませんが、・・・」と口ごもっていたショスタコーヴィッチとはまったく対照的でした。そう、彼は頑として、健康に満ちあふれていました。私にはむしろ好ましい性格です。それに、原理原則には縛られない人でした。もっとも、1948年に中央委員会の新音楽を断罪する集まりで、ジダーノフから形式主義に対する乱暴な非難を受けたとき、勇敢にも、相手の目をまっすぐ見据えてこう返答しましたがーーー「どんな権利があって、私にそんな口の利き方をされるんですか。」 》
《とはいえ、原理原則に押しつぶされたりしませんでした。必要とあれば、注文に応じて書くこともできました。たとえば、スターリンの何回目かの誕生日に際して、いわば彼の栄光を称える頌歌として注文をうけた『祝杯』の場合がそうです。この作品は、今では取り上げることさえ不可能でしょう。「スターリンに栄光あれ、われら皆の父に」なんていう文句ですから・・・。歌詞を変えれば別ですけれど。ところが、作品の出来栄えはじつに見事です。実際、これはひとつの記念碑です。ただし、彼プロコフィエフ自身の栄光を称える記念碑です。彼はこれを一種の不適さ、高貴な無道徳性をもって行いました。ーーー「スターリン?どのスターリンだい?そうとも、もちろんさ。私には何だってやれるんだよ、この種のことも含めてね。」彼にとっては音楽を書くことにすぎなかったのです。それができたのです・・・。》
モンサンジョン『リヒテル』(筑摩書房 2000年)
84~85㌻
その音楽はともかくとしても、個人的には
あまりお近づきになりたくない人物に思えてきます。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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