お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
シューベルト晩年のソナタをききながら ― 2006/07/22
●往復4時間の道のりで
この7月いっぱい、大津市から長浜市まで、
往復で4時間かかる道のりを毎日通っています。
仕事に区切りがつくのは、深夜のことです。
終わる時間も不確かです。
そのため、JRの時刻表をきにせず、
すぐ帰路につける自分の車にしています。
●闇ににあう音楽 シューベルト晩年のソナタ
疲れて帰る深夜の湖岸道路(琵琶湖の東岸ほぼ全体)は、
目の前の道路以外は、黒々とした塊しか見えません。
それらの闇は、眠気も誘いますが、
いろんな空想の扉もあけてくれるのです。
昼間の喧騒(外界)から内界への
私の気持ちにもっともなじんでくれたのが、
シューベルトの最晩年の三つのピアノ・ソナタでした。
●なぜ?
聴きながら、いつも思うのです。
「シューベルトの晩年のピアノ・ソナタは、
なぜ、こんな暗く沈んでいくのだろう? 」
私は、それを知りたく思いました。
●喜多尾道冬さんの本
本屋さんで探し出してきたのが、 喜多尾道冬さんの
『シューベルト』(1997年 朝日選書 朝日新聞社) でした。
それによると、シューベルトの晩年は、30代後半におとづれます。
この若さだったけれど、死は、この作曲家自身に
確実なものとして予測されるものでした。
なぜなら、状況証拠しかありませんが、
シューベルトが1822年に梅毒に感染し、
それが彼の絶望の根底にあるというのです。
●私はおもいました
不治の病のなかで、 破綻すれすれになりながら、
シューベルトは、ただ暗いだけの音楽を書いたわけではありません。
生きることをすばらしいと感じさせる音楽を、
死をもっても打ち消せない音楽の力を信じて
書き続けたように思えます。
死の不安な影を強く感じさせる音楽(D.960の第一楽章)のあとには、
それを受け入れるかのような安堵感と悲嘆が交差する音楽
(同2楽章)が続きます。
「ます」の音楽家は、ファウストのように
「時よ、止まれ。お前は美しい」と
どこかで叫んでいるように思います。
シューベルトが絶望のなかで残した音楽は、
それを聴けばどんな境遇にあろうとも、
生まれてきたことを後悔することがないように、
人生は美しいものだと訴えているように
私には思えました。
●空腹の帰路にはやっぱりパンの方がありがたい
もっとも、空腹のまま帰る2時間は、
シューベルトの音楽もときに効果がないものでしたけれど。
上の写真は、マウリッツォ・ポリーニさんのCDジャケットです。
この7月いっぱい、大津市から長浜市まで、
往復で4時間かかる道のりを毎日通っています。
仕事に区切りがつくのは、深夜のことです。
終わる時間も不確かです。
そのため、JRの時刻表をきにせず、
すぐ帰路につける自分の車にしています。
●闇ににあう音楽 シューベルト晩年のソナタ
疲れて帰る深夜の湖岸道路(琵琶湖の東岸ほぼ全体)は、
目の前の道路以外は、黒々とした塊しか見えません。
それらの闇は、眠気も誘いますが、
いろんな空想の扉もあけてくれるのです。
昼間の喧騒(外界)から内界への
私の気持ちにもっともなじんでくれたのが、
シューベルトの最晩年の三つのピアノ・ソナタでした。
●なぜ?
聴きながら、いつも思うのです。
「シューベルトの晩年のピアノ・ソナタは、
なぜ、こんな暗く沈んでいくのだろう? 」
私は、それを知りたく思いました。
●喜多尾道冬さんの本
本屋さんで探し出してきたのが、 喜多尾道冬さんの
『シューベルト』(1997年 朝日選書 朝日新聞社) でした。
それによると、シューベルトの晩年は、30代後半におとづれます。
この若さだったけれど、死は、この作曲家自身に
確実なものとして予測されるものでした。
なぜなら、状況証拠しかありませんが、
シューベルトが1822年に梅毒に感染し、
それが彼の絶望の根底にあるというのです。
●私はおもいました
不治の病のなかで、 破綻すれすれになりながら、
シューベルトは、ただ暗いだけの音楽を書いたわけではありません。
生きることをすばらしいと感じさせる音楽を、
死をもっても打ち消せない音楽の力を信じて
書き続けたように思えます。
死の不安な影を強く感じさせる音楽(D.960の第一楽章)のあとには、
それを受け入れるかのような安堵感と悲嘆が交差する音楽
(同2楽章)が続きます。
「ます」の音楽家は、ファウストのように
「時よ、止まれ。お前は美しい」と
どこかで叫んでいるように思います。
シューベルトが絶望のなかで残した音楽は、
それを聴けばどんな境遇にあろうとも、
生まれてきたことを後悔することがないように、
人生は美しいものだと訴えているように
私には思えました。
●空腹の帰路にはやっぱりパンの方がありがたい
もっとも、空腹のまま帰る2時間は、
シューベルトの音楽もときに効果がないものでしたけれど。
上の写真は、マウリッツォ・ポリーニさんのCDジャケットです。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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