お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

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「陸軍歩兵中尉従七位勲五等田中忠孝墓」碑文2008/02/08

奇兵隊出身田中忠孝の墓碑
旧大津陸軍墓地の田中忠孝墓の碑文には「奇兵隊」という文字が刻まれています。碑文全体を読んでみることにしました。

クリックすれば、大きくなります。

まちがっている点があれば、ご教授願います。

「幼字称防人山口県長門国阿武郡江向村住士族九右衛門四男也藩政之時入奇兵隊屡従軍後奉職於陸軍以中尉在陸軍歩兵第九連隊偶罹病明治二十年七月十七日終歿干時歳三十七年九月」

以上から、生年は、1849年11月あたりでしょう。
明治維新のときは、17歳ということになります。
 田中彰氏の先の本でも、戊辰戦争の官軍側の主力は、奇兵隊であることが、その犠牲者数の割合からもわかります。

 さて、東北の平定を終えたとき、明治政府の前に、直轄軍の編成が課題として浮かびます。

 どこから、それを生み出すか?

 下手に書くより、引用しておきます。

「天皇政府としては、いかにして直轄軍事力をもつかが焦眉の急であり、明治元年四月二十日には陸軍編成法を、ついで二十四日には同法の細則を決め、八月二十三日には、府県兵の規則を軍務官によって統一しようとしていた。そして、十月十日には、政府は諸侯による兵隊指揮を禁じたのである。
 翌明治二年には政府の軍事力集中はさらに進められ、四月八日には府県による兵員の新設は禁止された。」(121頁)

 明治政府は、奇兵隊を直轄軍(東京常備軍)として確保する意向でしたが、その数は未定でした。
 財政困難な山口県は、奇兵隊2000名を派遣することを希望しましたが、回答は1500名。
 細かい経過を省くと、奇兵隊員のすべてが軍隊に職を得ることができたわけではないのです。現在でいう厳しいリストラ=「精選」が行われることとなり、隊内に動揺が生まれ、やがて反乱へとつながるのです。
 その反乱が農民一揆との結びついたとき、明治政府は重大な脅威に直面します。奇兵隊とともにたたかったはずの、木戸孝允が先頭となり、厳しい弾圧を行い、壊滅させるのです。

 話を戻すと、田中忠孝は、同じ奇兵隊出身でも、農民や町民ではなく、士族出身であることがわかります。これが、新生陸軍に「精選」されるときでも、重要な要因だったかも知れません。
 旧大津陸軍墓地に眠る元奇兵隊員の田中忠孝は、いわば勝ち組となって、明治20年まで生き延びたといえます。
勝ち組といっても、おなじ奇兵隊出身の山県有朋(狂介)と比べれば、ささいなものにすぎませんが。
   最後に、いつから、第九連隊に配属されたのか、これだけではわかりません。第九連隊の士官には、多様な人たちが配属されていたことだけは、よくわかります。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)