お元気ですか?

大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。


なにをテーマに書こうかと迷いながら

2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。

2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、

気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。


戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。

通信兵だった父や防空監視隊にいた母から

聞かされた話は、

戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない

という思いを強くさせるものでした。

ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、

国家の理屈で議論が進みます。

同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。

しかし、戦争は、最悪の暴力です。

私は草の根の痛み、

どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で

書いていきたいと思っています。


あまり楽しめないブログかも知れませんが、

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田母神前航空幕僚長の行動 - 軍人のいらだちと暴走の時代2008/11/04

 田母神俊雄前航空幕僚長会見と論文の内容が明らかになってきました。それを一読して感じたことを書きたいと思います。
 論文はひとりよがりで稚拙なことは否めません。しかし、そういう内容だとして、無視したり、軽視したりすることは狙いを見誤っていると感じました。
 田母神氏は、発言することそれ自体に意味があると考えたのでしょう。
記者会見の冒頭の発言は、つぎのように結ばれています。

私の解任で、自衛官の発言が困難になったり、議論が収縮したりするのではなく、むしろこれを契機に歴史認識と国家・国防のあり方について率直で活発な議論が巻き起こることを日本のために心から願っております。
 日本の軍隊のトップは、苛立ちと閉塞感をもって、現在の日本の情勢を見ていたのだと思いました。彼はそれを変えるために「契機」を創ろうとした確信的で政治的な行動であったのです。
 防衛庁は防衛省に格上げすることができた、またアメリカの要請によって自衛隊の海外派兵はどんどんすすむ。実態的に憲法は蹂躙されています。国会は、憲法改悪することを党是とする自民党や民主党などで多数を占められています。
 もう変えればいいと思っているときに、明文改憲は展望が狭まりつつあります。
 国内では、2003年に結成された「九条の会」などの運動が広がり、世論調査では、ここ十年、憲法を変えよという声が多数を占めていたのに、昨年、ついに憲法を守れという声が逆転しました。さらに、名古屋で違憲判決が出ました。
 そうそう、そのときに、田母神氏が「そんなの関係ない!」という発言をしたのは偶然ではなかったのです。  世論だけが道を阻んでいる---そこに苛立ちの根源があると思いました。
 ですから、それを変えなくてはと思いはじめていたのでしょう。そして、政治家が言い出せないなら、自分がやらなくてはと使命感をもったのでしょう。
 記者会見で高ぶる気持ちをおさえがたいように語っています。
私は常々、「志は高く熱く燃える」ということを指導してまいりました。志が高いということは自分のことよりも国家や国民のことを優先するということです。熱く燃えるということは、任務遂行にあたりいかなる困難に突き当たろうとも決してあきらめないということです。論文に書きましたように、日本は古い歴史と優れた伝統を持つすばらしい国家です。決して「侵略国家」ではありません。しかし、戦後教育による「侵略国家」という呪縛(じゆばく)が国民の自信を喪失させるとともに、自衛隊の士気を低下させ、従って国家安全保障体制を損ねております。
 2・26の青年将校のような凝り固まり方に寒々とした思いを私はもちました。
 ネットも容易な世界ではないことを感じたのは、田母神氏の行動についてのアンケート結果を見たときです。肯定と否定が拮抗しています。  この結果に思わず暗澹として気分になりましたが、田母神氏の行動がある潮流を激励する役割を演じていることをうかがわせます。この意味では、行動はムダではなかったのです。
 私はボールを投げられたと感じましたので、丁寧にお返しすべきだと考えています。

コメント

_ カム ― 2008年11月05日 16時47分32秒

麻生首相が所信表明演説で、解釈改憲による集団的自衛権行使を言及したことをはじめ、政府と防衛省内に、少なからず氏の発言に「同調」、「賞賛」する動きがあるなど、根深い(=_=)

_ BIN★→カムさん ― 2008年11月05日 20時49分55秒

自衛隊が《「専守防衛」を捨て米軍指揮下の「軍隊」へ》(前田哲男「自衛隊 変容のゆくえ」岩波新書)なる震源地は、いうまでもブッシュさんのアメリカです。そのアメリカがチェンジしましたね。
 オバマさんで対外政策でどういう変化が生まれるのか、注目したいと思います。
麻生首相はさっそく日米関係は不変だと述べましたが。

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BIN★「この記なんの記」ブログ情報 August 12 , 2011



 西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。

戦争にかかわる碑

  ■ 忠魂碑・慰霊碑

    ○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など

    ○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)

    ○ 大津市南部の忠魂碑

民間墓地の戦没者

 □ 滋賀県の西南戦争の戦没者

 □ 高島市(高島郡)の戦没者

  ■ 西南戦争(西南之役) 1877年

   ● 戦病死者名簿

      *高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)

  ■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年

   ,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)

      『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。

  ■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年

   ● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)

      ○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿

    ○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。

 公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
 □ ブロック 埋葬者名簿

     陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある

 □ ブロック 埋葬者名簿

     日清戦争期に戦病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地

 □ ブロック 埋葬者名簿

  ■ 大津市作成の名簿順

  ■ あいうえお順

     日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。

 □ ブロック 埋葬者名簿

     明治8年から11年までに病死した下士官と
          兵卒の墓碑が37基


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
         すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿

     「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
          合計98基。すべて兵卒の墓碑。


 □ ブロック 埋葬者名簿(作成中)

     陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)

 □ 西南戦争の戦死者

 □ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿

 □『大津市志』

 □ 滋賀郡膳所町

 □ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)