お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
10月になりました ― 2008/10/01
10月になりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
ブログを書くのはなんとかできますけれど、
忙しくなるとできないのが、
お知り合いのみなさんのブログの訪問。
この点、ご容赦ください。
ブログを書くのはなんとかできますけれど、
忙しくなるとできないのが、
お知り合いのみなさんのブログの訪問。
この点、ご容赦ください。
木の実 ― 2008/10/01
路地の軒下から ― 2008/10/02
カンナ? ― 2008/10/02
ピンボケで残念でしたが、ネコの家族おめでとう ― 2008/10/03
一年前のムー♂ネコ ― 2008/10/03
ドングリの実 ― 2008/10/04
墓碑の謎にいどむ:二つの将校の墓碑@旧大津陸軍墓地 ― 2008/10/05
しばらくは、上の写真の二つの墓碑の謎に挑みたいと思います。
左が墓碑銘など解読不能の墓碑、
その右が「南保一義之墓」と正面に刻まれている墓碑です。
前置きの話はこうです。
明治10(1877)年10月7日に、大阪鎮台「大津営所付埋葬地」が大津市の部屋ヶ谷に竣功しました。現在、それを祝う人がいなくなりましたが、まもなく、131周年を迎えるわけです。
ちなみに、上の日付が、旧大津陸軍墓地のはじまりといえます。
大阪鎮台大津営所は、四鎮台制から六鎮台制へ移行する際に、設立が決定されました。三井寺が所有する森林などを切り開いて建設する必要があったので、入営は部隊編成より後となりました。明治8(1875)年3月に第九連隊(第一と第二大隊)が移駐し、機能を開始しました。墓地に現存する墓碑銘を見る限り、連隊の死亡者は、明治8年7月から出ていますが、埋葬地の完成は、10月です。その間、どこに埋葬していたかは、不明です。
要するに、旧大津陸軍墓地は、第九連隊の墓地です。それが本筋なのですが、そこには異質の墓碑がある、そこを調べてみようというのです。
さて、問題の墓碑です。
旧大津陸軍墓地の個人墓碑は、「大津営所」の将校、下士官、そして兵士の墓碑以外に、「彦根分営」から移葬された墓碑が、5基存在します。
ひとつは、上の「南保大尉」の墓碑。
残りは、下の写真でいけば、手前5柱の兵卒の墓碑です。
下の公文書によれば、南保一義大尉以外に5基の兵卒の墓碑が、彦根市から移葬されたことになっています。
写真ではわかりにくいかも知れません。兵卒の墓碑は大きく、大尉である南保一義の墓碑は小さく、台座の石も存在しません。これが不思議に思えました。
さらに、墓碑文が正面以外にも存在するのですが、文字として解読困難な状態です。読めるのは、「南保一義大尉之墓」のみです。
公文書には、触れられていませんが、南保大尉の墓石の隣の墓碑に注目しました。見ての通り、上部が丸いカマボコ形は共通しています。しかし、この墓碑は、正面の文字さえ読めません。
「南」という文字がいくつかあるように思えますが、それは、隣に置かれている南保大尉との関係を推察する心の作用にもよるのかも知れません。
この墓地にだれが埋葬されているのかと言う陸軍の文書を、私はまだ見つけていません。手元にあるのは、1976年にバイパス工事のために、墓地の一部を破壊し、隣接地に移し替える工事をした際に作成された大津市保管の名簿があるだけです。
この名簿の存在は、助かりますが、必ずしも正確ではありません。学術的調査を目的としてないせいもあるかと思います。
この名簿にも、この墓石銘は記述されていません。
以上のことは、いままでも書いてきたことです。
今回、挑もうと思っているのは、南保一義大尉とは何者か、その墓碑には、なにが書かれてるのか(判読)、隣の墓碑はなにのか、ということです。
滋賀県立図書館にひさしぶりに出かけた際に、ガリ版刷りの「彦根市年表」を見つけました。データの出所も書かれているもので、興味深いものです。
記述の密度には、精粗ありますが、得心がいったことがあります。
それは、「大洞火薬庫」と「大洞埋葬地」の関係です。
彦根藩は、新政府側にたって、戊辰戦争を戦います。しかし、軍事的単位としての藩は解体され、城および軍事施設は破壊もしくは売却さえる運命をたどります。
この途上で、「大洞埋葬地(陸軍墓地)」が登場します。
南保大尉の墓碑の移葬願い文書は、明治初年から、大洞陸軍墓地が存在していると書かれいます。それは、残念ながら直接は確認できません。
しかし、当然ありえることだと思います。
なぜなら、彦根藩は、軍務局武芸小屋をもっていて、英国式の軍事訓練を行っていたからです。明治2年2月3日に、藩主井伊直憲は、八坂練兵所を視閲しています。
明治3年11月9日、武芸小屋を兵学校と改称しています。
こういう訓練の途上でなくなった兵卒を葬った場所が大洞埋葬地であると推察できます。
明治4年の彦根藩の常備兵力は、少佐1名を筆頭に、士官が80名。兵卒が555名とされています。同じ4年に、兵学校を生兵所と改称しています。そこで、18歳から27歳までの子弟の文武教育を施したとされています。
同年3月、陸軍省は、彦根藩の大洞火薬庫を接収し、陸軍省の所管とします。彦根市百年年表(ガリ版)のこの項目のところで、「明治11年に4月に売却されるまで陸軍墓地に充てられた」と書かれていたのです。
これで、疑問の一つが解けたのです。
同年12月に、全国四鎮台制(東北=仙台、東京、大阪、鎮西=熊本)のうち、大阪鎮台の小営を小浜におく予定が、火事のために、彦根にもってくることになったからです。
第18番大隊が小浜から彦根に駐屯します。
彦根藩の兵力がこのとき、どうなったのか、直接の言及はありません。明治6年3月12日、八坂の練兵場が、彦根分営(小営)に引き継がれたそうです。しかし、同年4月28日、第18番大隊は、京都の伏見へ移駐することになります。
以上、大洞火薬庫と大洞埋葬地(陸軍墓地)が同一場所であること、そして、そこが第18番大隊の将兵の埋葬地に使われたということがあらためて確認されました。
明治初年というのは、明治元年ではなく、明治のはじめという意味でしょうし、彦根藩の武士なら、自分の家の墓をもっているはずですから、あらためて陸軍墓地に葬る必要はないでしょう。
南保大尉が、彦根藩の武士の可能性があると最初書きましたが、やはり、ちがうと思いました。
左が墓碑銘など解読不能の墓碑、
その右が「南保一義之墓」と正面に刻まれている墓碑です。
前置きの話はこうです。
明治10(1877)年10月7日に、大阪鎮台「大津営所付埋葬地」が大津市の部屋ヶ谷に竣功しました。現在、それを祝う人がいなくなりましたが、まもなく、131周年を迎えるわけです。
ちなみに、上の日付が、旧大津陸軍墓地のはじまりといえます。
大阪鎮台大津営所は、四鎮台制から六鎮台制へ移行する際に、設立が決定されました。三井寺が所有する森林などを切り開いて建設する必要があったので、入営は部隊編成より後となりました。明治8(1875)年3月に第九連隊(第一と第二大隊)が移駐し、機能を開始しました。墓地に現存する墓碑銘を見る限り、連隊の死亡者は、明治8年7月から出ていますが、埋葬地の完成は、10月です。その間、どこに埋葬していたかは、不明です。
要するに、旧大津陸軍墓地は、第九連隊の墓地です。それが本筋なのですが、そこには異質の墓碑がある、そこを調べてみようというのです。
さて、問題の墓碑です。
旧大津陸軍墓地の個人墓碑は、「大津営所」の将校、下士官、そして兵士の墓碑以外に、「彦根分営」から移葬された墓碑が、5基存在します。
ひとつは、上の「南保大尉」の墓碑。
残りは、下の写真でいけば、手前5柱の兵卒の墓碑です。
下の公文書によれば、南保一義大尉以外に5基の兵卒の墓碑が、彦根市から移葬されたことになっています。
写真ではわかりにくいかも知れません。兵卒の墓碑は大きく、大尉である南保一義の墓碑は小さく、台座の石も存在しません。これが不思議に思えました。
さらに、墓碑文が正面以外にも存在するのですが、文字として解読困難な状態です。読めるのは、「南保一義大尉之墓」のみです。
公文書には、触れられていませんが、南保大尉の墓石の隣の墓碑に注目しました。見ての通り、上部が丸いカマボコ形は共通しています。しかし、この墓碑は、正面の文字さえ読めません。
「南」という文字がいくつかあるように思えますが、それは、隣に置かれている南保大尉との関係を推察する心の作用にもよるのかも知れません。
この墓地にだれが埋葬されているのかと言う陸軍の文書を、私はまだ見つけていません。手元にあるのは、1976年にバイパス工事のために、墓地の一部を破壊し、隣接地に移し替える工事をした際に作成された大津市保管の名簿があるだけです。
この名簿の存在は、助かりますが、必ずしも正確ではありません。学術的調査を目的としてないせいもあるかと思います。
この名簿にも、この墓石銘は記述されていません。
以上のことは、いままでも書いてきたことです。
今回、挑もうと思っているのは、南保一義大尉とは何者か、その墓碑には、なにが書かれてるのか(判読)、隣の墓碑はなにのか、ということです。
滋賀県立図書館にひさしぶりに出かけた際に、ガリ版刷りの「彦根市年表」を見つけました。データの出所も書かれているもので、興味深いものです。
記述の密度には、精粗ありますが、得心がいったことがあります。
それは、「大洞火薬庫」と「大洞埋葬地」の関係です。
彦根藩は、新政府側にたって、戊辰戦争を戦います。しかし、軍事的単位としての藩は解体され、城および軍事施設は破壊もしくは売却さえる運命をたどります。
この途上で、「大洞埋葬地(陸軍墓地)」が登場します。
南保大尉の墓碑の移葬願い文書は、明治初年から、大洞陸軍墓地が存在していると書かれいます。それは、残念ながら直接は確認できません。
しかし、当然ありえることだと思います。
なぜなら、彦根藩は、軍務局武芸小屋をもっていて、英国式の軍事訓練を行っていたからです。明治2年2月3日に、藩主井伊直憲は、八坂練兵所を視閲しています。
明治3年11月9日、武芸小屋を兵学校と改称しています。
こういう訓練の途上でなくなった兵卒を葬った場所が大洞埋葬地であると推察できます。
明治4年の彦根藩の常備兵力は、少佐1名を筆頭に、士官が80名。兵卒が555名とされています。同じ4年に、兵学校を生兵所と改称しています。そこで、18歳から27歳までの子弟の文武教育を施したとされています。
同年3月、陸軍省は、彦根藩の大洞火薬庫を接収し、陸軍省の所管とします。彦根市百年年表(ガリ版)のこの項目のところで、「明治11年に4月に売却されるまで陸軍墓地に充てられた」と書かれていたのです。
これで、疑問の一つが解けたのです。
同年12月に、全国四鎮台制(東北=仙台、東京、大阪、鎮西=熊本)のうち、大阪鎮台の小営を小浜におく予定が、火事のために、彦根にもってくることになったからです。
第18番大隊が小浜から彦根に駐屯します。
彦根藩の兵力がこのとき、どうなったのか、直接の言及はありません。明治6年3月12日、八坂の練兵場が、彦根分営(小営)に引き継がれたそうです。しかし、同年4月28日、第18番大隊は、京都の伏見へ移駐することになります。
以上、大洞火薬庫と大洞埋葬地(陸軍墓地)が同一場所であること、そして、そこが第18番大隊の将兵の埋葬地に使われたということがあらためて確認されました。
明治初年というのは、明治元年ではなく、明治のはじめという意味でしょうし、彦根藩の武士なら、自分の家の墓をもっているはずですから、あらためて陸軍墓地に葬る必要はないでしょう。
南保大尉が、彦根藩の武士の可能性があると最初書きましたが、やはり、ちがうと思いました。
歩兵「第十八番大隊」の姿を求めて ― 2008/10/06
約一年、間が開いているので、自分がどこまで追求したのかさえ、わからなくなっています。それでも、澤地久枝『火はわが胸中にあり』などに刺激をうけながら、再度、「十八(番)大隊」について調べてみる気になったのです。
ですから、これまでとの重複はお許しください。私個人のノートのつもりで書き込みます。
そもそも中央集権をめざす新政府が自前の軍隊を必要としていることは当然のこととして理解できます。ただ、その創出の過程がどうなっていったのかについては、無知でした。
戊辰戦争を終えたとき、当面、薩長土肥の4藩の藩兵をその用にあてたことは知られています。一方で、士族を擁した旧藩との対抗、他方で農民騒擾がおこるなかで、奇兵隊すらそのままで引き継ぐわけにはゆかない事情もあったことは、一坂太郎『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』(中公新書)で知り、衝撃をうけました。
戊辰戦争で亡くなった人たちと同様に、新政府によって切り捨てられていく奇兵隊の若者にも心ひかれました。
それは、澤地さんが西南戦争で命がけで戦った徴兵された若者がその処遇への抗議と正義をもとめて「竹橋事件」を起こし、異例の苛烈な処分を受けたことと重なる思いがしたのです。
ともかく、明治政府が軍事力をつくりだす過程は、思った以上に複雑で困難なものであったことを知ったのです。
話を「十八番大隊」にもとにもどして。
明治4(1871)年、四鎮台制ができます。東京、大阪、鎮西、東北。このときの兵力は、歩兵23大隊。このときは「壮兵」(旧藩の士族の志願兵)でした。
十八番大隊は、大阪鎮台に属して、第一分営の小浜に配備される予定でした。彦根駐屯は、明治4(1871)年12月から明治6(1873)年5月までのことで、徴兵制へ移行する過渡的な兵力であったことがわかります。
具体的に、彦根で、どういう任務を果たしたのか。
記録で見ると、明治6年の3月に敦賀県、5月に北条県で起きた農民騒擾鎮圧に出動しています。
これが明治6年3月の記録。
これが明治6年5月の記録。
この後すぐ、つまり同月に、伏見へ移駐します。
明治6(1873)年5月から翌7年5月まで、伏見屯営第十八大隊と呼ばれることになります。
では、その後はどうなったのか。
上記の明治7年5月5日付け文書によれば、6月に第十八連隊の満期となる隊員はひとまとめに退役。第十八大隊の名称も廃止。残りの隊員を新徴兵とともに、第八連隊、第九連隊、第十連隊に配属する大隊に改組します。
したがって、第十八大隊は、明治4年から7年まで、わずか3年間存在したに過ぎない壮兵部隊ということになります。
このように文献でしか知ることのできなかった「第十八大隊」の兵卒の横顔を、旧大津陸軍墓地で垣間見ることができます。
ですから、これまでとの重複はお許しください。私個人のノートのつもりで書き込みます。
そもそも中央集権をめざす新政府が自前の軍隊を必要としていることは当然のこととして理解できます。ただ、その創出の過程がどうなっていったのかについては、無知でした。
戊辰戦争を終えたとき、当面、薩長土肥の4藩の藩兵をその用にあてたことは知られています。一方で、士族を擁した旧藩との対抗、他方で農民騒擾がおこるなかで、奇兵隊すらそのままで引き継ぐわけにはゆかない事情もあったことは、一坂太郎『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』(中公新書)で知り、衝撃をうけました。
戊辰戦争で亡くなった人たちと同様に、新政府によって切り捨てられていく奇兵隊の若者にも心ひかれました。
それは、澤地さんが西南戦争で命がけで戦った徴兵された若者がその処遇への抗議と正義をもとめて「竹橋事件」を起こし、異例の苛烈な処分を受けたことと重なる思いがしたのです。
ともかく、明治政府が軍事力をつくりだす過程は、思った以上に複雑で困難なものであったことを知ったのです。
話を「十八番大隊」にもとにもどして。
明治4(1871)年、四鎮台制ができます。東京、大阪、鎮西、東北。このときの兵力は、歩兵23大隊。このときは「壮兵」(旧藩の士族の志願兵)でした。
十八番大隊は、大阪鎮台に属して、第一分営の小浜に配備される予定でした。彦根駐屯は、明治4(1871)年12月から明治6(1873)年5月までのことで、徴兵制へ移行する過渡的な兵力であったことがわかります。
具体的に、彦根で、どういう任務を果たしたのか。
記録で見ると、明治6年の3月に敦賀県、5月に北条県で起きた農民騒擾鎮圧に出動しています。
これが明治6年3月の記録。
これが明治6年5月の記録。
この後すぐ、つまり同月に、伏見へ移駐します。
明治6(1873)年5月から翌7年5月まで、伏見屯営第十八大隊と呼ばれることになります。
では、その後はどうなったのか。
上記の明治7年5月5日付け文書によれば、6月に第十八連隊の満期となる隊員はひとまとめに退役。第十八大隊の名称も廃止。残りの隊員を新徴兵とともに、第八連隊、第九連隊、第十連隊に配属する大隊に改組します。
したがって、第十八大隊は、明治4年から7年まで、わずか3年間存在したに過ぎない壮兵部隊ということになります。
このように文献でしか知ることのできなかった「第十八大隊」の兵卒の横顔を、旧大津陸軍墓地で垣間見ることができます。
白い花 ― 2008/10/07
西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
最近のコメント