
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「遠敷郡」(おにゅうぐん)の文字に ― 2008/10/21
「岡田滌良之墓」と「新畑周二之墓」に刻まれた「敦賀県遠敷郡」の語句。
「敦賀」はともかく、「遠敷郡」はすぐにはわかりませんでした。近隣の福井県の地名なのにはずかしい思いがしました。
また「おにゅうぐん」と読むことも驚きでした。
現地の方、申し訳ありません。
ちなみに、遠敷郡は、明治4(1871)年に成立した敦賀県の一部をなしています。明治11(1878)年の郡区町村編成法により、小浜に遠敷郡役所が置かれていたそうですが、2006年3月3日に”平成の大合併”で郡そのものが最終的に消滅しました。
最終的というのは、それまでも郡内の町や村が合併して郡から抜けて行っているからです。
地名がわかったことで、この2名の姿に少し迫れる気がしました。
さて、亡くなった若者の生きた横顔を追う様に書いてみます。
明治5年(1872)年、四鎮台制が敷かれ、大阪鎮台のもとで、十八番大隊が成立します。大阪鎮台は、第一分営を小浜に置き、そこにこの大隊を配置する予定でした。
小浜だからこそ、当時の石川県と敦賀県の士族の子弟が召集されたのでしょうか。むしろ、逆に、この地の士族を招集するから、拠点を小浜にしたのかも知れません。
ところが、明治4(1871)年12月に、火事で小浜の予定地が焼失という事件が起こります。
その原因は不明。ただし、なんらかの不満(つまり、放火?)からという憶測があるそうです。
ともかく、この事件のために、十八番大隊は、拠点を彦根に移します(彦根屯営)。
しかし、召集対象となる藩は変わることはなかったようです。
ともに敦賀県の卒(=足軽など下級武士)出身の新畑周二と岡田滌良は翌明治5(1872)年3月に召集されて、彦根屯営に入ります。
ところが、同年7月8日には、新畑が、8月15日には岡田が病死。
ともに24歳(数え年)の若さでした。
彼らが最後の数ヶ月を過ごした彦根屯営もまもなく閉鎖される運命でした。
四鎮台制から六鎮台制へ移行することにともなって、明治6(1873)年5月、十八番大隊は伏見に移されることになったのです。
彦根屯営は、一年半も続かなかった基地でした。
その期間に病死した兵卒5名(新畑・岡田を含む)と将校1名は、彦根藩の大洞火薬庫の敷地内につくられた陸軍埋葬地に葬られます。明治40(1907)年、墓の維持管理する体制もなくなるなかで、移葬願いが出され、翌年に官費で、大津市旧山上村の陸軍墓地に移されたのです。
伏見に移動した十八番大隊も、同年6月に解体されます。
ごく少数のものだけが、下士官として、その後も職業軍人の道を歩むことになりますが。
十八番大隊は、新徴兵軍ができるまで、過渡的に士族出身者が招集されて、農民騒擾や士族反乱の鎮圧のために使われた軍隊でした。
そして、わずか2年で姿を消します。満期で石川県や敦賀県の故郷に戻れた若者が多数いる一方、屯営で病死し異土で眠る若者もいたわけです。
「敦賀」はともかく、「遠敷郡」はすぐにはわかりませんでした。近隣の福井県の地名なのにはずかしい思いがしました。
また「おにゅうぐん」と読むことも驚きでした。
現地の方、申し訳ありません。
ちなみに、遠敷郡は、明治4(1871)年に成立した敦賀県の一部をなしています。明治11(1878)年の郡区町村編成法により、小浜に遠敷郡役所が置かれていたそうですが、2006年3月3日に”平成の大合併”で郡そのものが最終的に消滅しました。
最終的というのは、それまでも郡内の町や村が合併して郡から抜けて行っているからです。
地名がわかったことで、この2名の姿に少し迫れる気がしました。
さて、亡くなった若者の生きた横顔を追う様に書いてみます。
明治5年(1872)年、四鎮台制が敷かれ、大阪鎮台のもとで、十八番大隊が成立します。大阪鎮台は、第一分営を小浜に置き、そこにこの大隊を配置する予定でした。
小浜だからこそ、当時の石川県と敦賀県の士族の子弟が召集されたのでしょうか。むしろ、逆に、この地の士族を招集するから、拠点を小浜にしたのかも知れません。
ところが、明治4(1871)年12月に、火事で小浜の予定地が焼失という事件が起こります。
その原因は不明。ただし、なんらかの不満(つまり、放火?)からという憶測があるそうです。
ともかく、この事件のために、十八番大隊は、拠点を彦根に移します(彦根屯営)。
しかし、召集対象となる藩は変わることはなかったようです。
ともに敦賀県の卒(=足軽など下級武士)出身の新畑周二と岡田滌良は翌明治5(1872)年3月に召集されて、彦根屯営に入ります。
ところが、同年7月8日には、新畑が、8月15日には岡田が病死。
ともに24歳(数え年)の若さでした。
彼らが最後の数ヶ月を過ごした彦根屯営もまもなく閉鎖される運命でした。
四鎮台制から六鎮台制へ移行することにともなって、明治6(1873)年5月、十八番大隊は伏見に移されることになったのです。
彦根屯営は、一年半も続かなかった基地でした。
その期間に病死した兵卒5名(新畑・岡田を含む)と将校1名は、彦根藩の大洞火薬庫の敷地内につくられた陸軍埋葬地に葬られます。明治40(1907)年、墓の維持管理する体制もなくなるなかで、移葬願いが出され、翌年に官費で、大津市旧山上村の陸軍墓地に移されたのです。
伏見に移動した十八番大隊も、同年6月に解体されます。
ごく少数のものだけが、下士官として、その後も職業軍人の道を歩むことになりますが。
十八番大隊は、新徴兵軍ができるまで、過渡的に士族出身者が招集されて、農民騒擾や士族反乱の鎮圧のために使われた軍隊でした。
そして、わずか2年で姿を消します。満期で石川県や敦賀県の故郷に戻れた若者が多数いる一方、屯営で病死し異土で眠る若者もいたわけです。
「金沢大工町」の文字に ― 2008/10/21
金沢市は、1962年、「住居表示に関する法律」のモデル都市になり、旧い町名を改め、合理化したそうです。しかし、いまは、逆に旧町名が復活。藩の御大工衆が住んでいた「大工町」もその一つかも知れません。
金沢は、わが亡き父が終戦を迎えた都市です。
父は大正15(1925)年生まれ。召集後、通信兵として金沢市にいたそうです。空襲のときは、兵舎の屋根に銃をもって上って、撃ち落そうとしていたとか。私には、蛮勇としか思えませんが、それが唯一の戦功自慢なのでした。敵機に見逃してもらったおかげで、私が存在するわけです。
たしか、父と母の新婚旅行先でもあったような気がします。
ですから、「金沢」ときけば、行ったこともないのですが、なつかしく思えるのです。
余談でした。
十八番大隊の兵卒の墓碑の話。これにもどります。
「清水男外吉之墓」の墓碑文には、この若者の生地として、「石川県加賀金沢大工町」という文字が刻まれています(上の写真の一行目から二行目にかけて)。
男外吉は、加賀百万石の賑やかな城下町の中心地から、不安な気持ちを抱えて、井伊家の拠点・彦根市にやってきたのです。同じ城下町ですから、街並みを歩くとき、故郷のことをふと思い出したのではないでしょうか。しかし、そもそもそういう時間が彼にあったのでしょうか。
なぜなら、兵卒として召集されたのが1872年3月、「病死」が4月12日のことです。
このあまりの短さは、死因への不審を与えます。
個人的な事情(病弱とか、慢性疾患とか)と片付けられないのは、つぎつぎと若者が「病死」するからです。
本人の亡骸は、きっと土葬だったんでしょうね。彦根市の大洞陸軍埋葬地にいったん葬られたあと、同じく「病死」した他の若者5名とともに、1908年に、大津市の陸軍墓地に移葬されました。しかし、それで終わりではありませんでした。1971年にはバイパス工事のために、墓を再度掘られ、新しい敷地に移されて今日に至っているのです。
この先、知りたいこと。
「十八番大隊」のことで知りたいことは、まだまだあります。
たとえば、彦根藩の解体との関係。
彦根藩は、幕府の重鎮でありながら、新政府側にたって、戊辰戦争以降をたたかいます。その藩は当然、軍事力を維持しつづけているわけです。新政府は、藩の軍事力を解体し、徴兵制度によって自前の軍事力を作り上げるわけですが、過渡期(大久保利通と大村益次郎の論戦がある)では、藩兵をもちいざるをえません。
「十八番大隊」は(墓碑を見ると)、敦賀県と石川県が中心の構成に思えます。小浜に第一分営を置くのは、そのためでしょう。ところが、彦根にくる。それは、彦根には、城も営舎もあり、練兵場もあって、すぐに使える軍事施設があるからです。しかし、藩兵もいるんじゃないでしょうか。それらの施設から追い出していけば軋轢が生まれます。それとも、すでに、明治4年12月の段階では、彦根藩の軍事力は解体されていたのでしょうか?
同じようなことですが、じゃあなぜ、十八番大隊は、わずか1年半で彦根から移駐するのでしょうか。その答えは、彦根ではなく、大津に新しい徴兵軍(第九連隊という名前で)を置くからでしょうけれど、なぜ彦根ではなく、大津なんでしょう。彦根なら、城(兵舎や火薬庫を含む)もあるし、練兵場もある。財政的には負担が少ないはず。商都であった大津にはすぐ使える軍事施設はありませんでした。そのためには、大規模な工事が必要でした。明治の前年(慶応)に、大村益次郎が大津を視察して、そこの用地を軍事基地目当てに確保していたことはわかっています。しかし、いったんその計画はなくなったはず。なぜ、もとに戻ったのでしょうか。
この疑問は、すぐに解けることなんでしょうか。
もう一つは、彦根における十八番大隊の日常が、どこまでわかるのかということです。
資料を探すと、農民騒動鎮圧に出兵した記録が二度でてきます。それだけ?
また、モノは残っていないのでしょうか?
これらが知りたいことです。
もっと先のこと。
旧大津陸軍墓地には、兵卒の墓碑だけで、500近い墓碑があります。その一人ひとりの運命に心を寄せながら、調べていくのは、気が遠くなる作業です。
もっとも、約200柱ある日清戦争期の墓碑は、あまりに碑文が簡潔で、このブログのカテゴリーでいけば「旧大津(陸軍墓地)E(ブロック)」のように、集団としての連隊行動の記録を使って追跡することでしか、姿が浮かび上がらないものもあります。
大洞陸軍埋葬地から明治41年に移葬された6柱のうち5柱は明治5年没。南保一義大尉だけが没年がわかりません。第十八番大隊に所属しているわけですから、どんなに遅くても明治6年5月までに亡くなられています(十八番大隊は明治6年5月には伏見に移動)。
大津市に第九連隊の営舎ができて、第九連隊が移ってくるのが明治8年3月。旧大津陸軍墓地の竣工は明治10年10月です。つまり、この地で亡くなったわけではないにしても、上の6柱は現在の旧大津陸軍墓地最古の墓碑といえるのです。
この6柱のつぎに旧いグループは、大津市に営舎ができて(明治8年3月)から埋葬地ができる(明治10年10月)までの期間に亡くなった方々の墓碑です。
私がFブロックと名付けているエリアにある37柱。
「十八番大隊」のつぎは、このエリアの碑文を見ていくつもりです。
金沢は、わが亡き父が終戦を迎えた都市です。
父は大正15(1925)年生まれ。召集後、通信兵として金沢市にいたそうです。空襲のときは、兵舎の屋根に銃をもって上って、撃ち落そうとしていたとか。私には、蛮勇としか思えませんが、それが唯一の戦功自慢なのでした。敵機に見逃してもらったおかげで、私が存在するわけです。
たしか、父と母の新婚旅行先でもあったような気がします。
ですから、「金沢」ときけば、行ったこともないのですが、なつかしく思えるのです。
余談でした。
十八番大隊の兵卒の墓碑の話。これにもどります。
「清水男外吉之墓」の墓碑文には、この若者の生地として、「石川県加賀金沢大工町」という文字が刻まれています(上の写真の一行目から二行目にかけて)。
男外吉は、加賀百万石の賑やかな城下町の中心地から、不安な気持ちを抱えて、井伊家の拠点・彦根市にやってきたのです。同じ城下町ですから、街並みを歩くとき、故郷のことをふと思い出したのではないでしょうか。しかし、そもそもそういう時間が彼にあったのでしょうか。
なぜなら、兵卒として召集されたのが1872年3月、「病死」が4月12日のことです。
このあまりの短さは、死因への不審を与えます。
個人的な事情(病弱とか、慢性疾患とか)と片付けられないのは、つぎつぎと若者が「病死」するからです。
本人の亡骸は、きっと土葬だったんでしょうね。彦根市の大洞陸軍埋葬地にいったん葬られたあと、同じく「病死」した他の若者5名とともに、1908年に、大津市の陸軍墓地に移葬されました。しかし、それで終わりではありませんでした。1971年にはバイパス工事のために、墓を再度掘られ、新しい敷地に移されて今日に至っているのです。
この先、知りたいこと。
「十八番大隊」のことで知りたいことは、まだまだあります。
たとえば、彦根藩の解体との関係。
彦根藩は、幕府の重鎮でありながら、新政府側にたって、戊辰戦争以降をたたかいます。その藩は当然、軍事力を維持しつづけているわけです。新政府は、藩の軍事力を解体し、徴兵制度によって自前の軍事力を作り上げるわけですが、過渡期(大久保利通と大村益次郎の論戦がある)では、藩兵をもちいざるをえません。
「十八番大隊」は(墓碑を見ると)、敦賀県と石川県が中心の構成に思えます。小浜に第一分営を置くのは、そのためでしょう。ところが、彦根にくる。それは、彦根には、城も営舎もあり、練兵場もあって、すぐに使える軍事施設があるからです。しかし、藩兵もいるんじゃないでしょうか。それらの施設から追い出していけば軋轢が生まれます。それとも、すでに、明治4年12月の段階では、彦根藩の軍事力は解体されていたのでしょうか?
同じようなことですが、じゃあなぜ、十八番大隊は、わずか1年半で彦根から移駐するのでしょうか。その答えは、彦根ではなく、大津に新しい徴兵軍(第九連隊という名前で)を置くからでしょうけれど、なぜ彦根ではなく、大津なんでしょう。彦根なら、城(兵舎や火薬庫を含む)もあるし、練兵場もある。財政的には負担が少ないはず。商都であった大津にはすぐ使える軍事施設はありませんでした。そのためには、大規模な工事が必要でした。明治の前年(慶応)に、大村益次郎が大津を視察して、そこの用地を軍事基地目当てに確保していたことはわかっています。しかし、いったんその計画はなくなったはず。なぜ、もとに戻ったのでしょうか。
この疑問は、すぐに解けることなんでしょうか。
もう一つは、彦根における十八番大隊の日常が、どこまでわかるのかということです。
資料を探すと、農民騒動鎮圧に出兵した記録が二度でてきます。それだけ?
また、モノは残っていないのでしょうか?
これらが知りたいことです。
もっと先のこと。
旧大津陸軍墓地には、兵卒の墓碑だけで、500近い墓碑があります。その一人ひとりの運命に心を寄せながら、調べていくのは、気が遠くなる作業です。
もっとも、約200柱ある日清戦争期の墓碑は、あまりに碑文が簡潔で、このブログのカテゴリーでいけば「旧大津(陸軍墓地)E(ブロック)」のように、集団としての連隊行動の記録を使って追跡することでしか、姿が浮かび上がらないものもあります。
大洞陸軍埋葬地から明治41年に移葬された6柱のうち5柱は明治5年没。南保一義大尉だけが没年がわかりません。第十八番大隊に所属しているわけですから、どんなに遅くても明治6年5月までに亡くなられています(十八番大隊は明治6年5月には伏見に移動)。
大津市に第九連隊の営舎ができて、第九連隊が移ってくるのが明治8年3月。旧大津陸軍墓地の竣工は明治10年10月です。つまり、この地で亡くなったわけではないにしても、上の6柱は現在の旧大津陸軍墓地最古の墓碑といえるのです。
この6柱のつぎに旧いグループは、大津市に営舎ができて(明治8年3月)から埋葬地ができる(明治10年10月)までの期間に亡くなった方々の墓碑です。
私がFブロックと名付けているエリアにある37柱。
「十八番大隊」のつぎは、このエリアの碑文を見ていくつもりです。
二つの「ひっつきむし」 ― 2008/10/21
なぎさで目立つ可憐な花 ― 2008/10/21
歩道のにぎわい ― 2008/10/21
金沢では「南保」という姓は、どう読みますか? ― 2008/10/21

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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