
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
「戦死者多重祭祀」ということ ― 2008/11/08
岩田重則『「お墓」の誕生』(岩波新書)を買った動機の一つは、”戦没者の墓碑とはなにか”を違う角度から考えるヒントになればと思ったからです。
この本は、その最後の最後で、この問題を取り上げています。
死んだら普通に「お墓」を建てる、長寿を全うした人も、戦死者もと思っていましたから。たとえ、私個人としては好きでなくても。
その考察の最初にすえている節が、《「靖国問題」の「問題」》です。
著者は、この語句でなにを言おうとしているのか。
そしてある結論にたどりつきます。
こういう特徴づけの先にどういう結論がまっているのでしょうか。
著者は、《祭祀レベルが複数となることにより、それぞれのレベルでの宗教が異なることさえもあった》として、家はふつうは仏教、地域社会や靖国神社は神道で祀られる。《ひとりの人間に対して祭祀形態が単一の宗教によって行われている。宗教的にも、多重祭祀が行われてきた》。しかし、自衛隊合祀拒否訴訟をおこしたキリスト者は別にして、《これはあんがい自覚化されていない現実でもあった。》
ここまで読んでいただいた方へ、長文多謝。
この本は、その最後の最後で、この問題を取り上げています。
現代の「お墓」をとらえるにあたり、以前からの展開過程のみをもってしてとらえることができるかどうか、判断がむずかしいひとつの「お墓」がある。戦死者の「お墓」である。この一文さえ、なかなかわかりにくいものですね。
死んだら普通に「お墓」を建てる、長寿を全うした人も、戦死者もと思っていましたから。たとえ、私個人としては好きでなくても。
近現代の戦争は、大量の戦死者を生じさせる。そして、その死の形態は、それ以前にはない新しい、あるいは、未経験の現象であった。死に場所はふだんの生活世界とはかけ離れたところにあり、遺体さえ戻らないことが多く、たとえ、遺族のもとに戻ってきたとしても、それはたいてい火葬された遺骨として戻ってきていた。また、それは、その生をまっとうした死というよりも、若年期・壮年期にその生を中断された死でもあり、その死にようは残虐であることも多かった。しかし、彼らにも「お墓」が作られた。・・・だから、考察対象にすべきということです。
新しい死者の形態は、ふつうとは異なる「お墓」を誕生させていたことが予想される。
その考察の最初にすえている節が、《「靖国問題」の「問題」》です。
著者は、この語句でなにを言おうとしているのか。
戦死者というと「靖国問題」がクローズアップされてくる。そのために、著者は、《戦死者を靖国神社からはじめるのではなく、その「お墓」から見ていってみよう。》として、具体的な姿のいくつかを提示しています。
あたかも、戦死者祭祀は靖国神社でしか行われていないような議論が横行し、戦死者祭祀イコール靖国神社であるとする一般的常識が現代社会にひろがっている。・・・
戦死者祭祀の現実をリアルに観察したとき、・・・靖国神社はそのうちの部分にしかすぎず、ほんらいは戦死者それじたいが中心であるべきだったことが見えてくるはずである。また、戦死者をどのように祀るべきであるのかという課題のもとに、戦死者祭祀の現実を追ったとき、それがいつのまにか戦死者じしんから乖離し、「靖国問題」としてすりかえられていることに気づくはずである。戦死者のことを等身大の戦死者に戻すこと、そのごくあたりまえのことに視点をすえ、その定点から観測をしたとき、「靖国問題」の「問題」性も浮かびあがってこようというものである。
そしてある結論にたどりつきます。
戦死者祭祀の特異性は、その死者祭祀がひとつの「お墓」、家による祭祀で済まされるのではなく、それが地域社会、さらには国家レベルにまで拡大し、これらが重層的に存在していることであった。・・・戦死者は家の「お墓」や仏壇で祀られ、各都道府県単位の護国神社で祀られ、さらには、靖国神社で祀られている。戦死者だけは、その祭祀施設を、家、地域社会、国家と、幾重にも祭祀レベルを並存させ、多重祭祀として存在している。なるほど、たしかに観察すればそうだなと思いますが、そういう特徴づけにどういう意味があるんだろうと、いぶかしく思ったりするのです。
戦死者祭祀の最大の特徴はここにあるといえよう。
こういう特徴づけの先にどういう結論がまっているのでしょうか。
著者は、《祭祀レベルが複数となることにより、それぞれのレベルでの宗教が異なることさえもあった》として、家はふつうは仏教、地域社会や靖国神社は神道で祀られる。《ひとりの人間に対して祭祀形態が単一の宗教によって行われている。宗教的にも、多重祭祀が行われてきた》。しかし、自衛隊合祀拒否訴訟をおこしたキリスト者は別にして、《これはあんがい自覚化されていない現実でもあった。》
死者本人あるいは遺族が、こうした多重祭祀を希望していたのならば、とりあえずの問題はないにせよ、この宗教的なそれをも含めて、多重祭祀の多くは自動的に祀られるようになっていた。彼らの意志とは無関係なうちに、それが行われてきた。ああ、そういう意味かと納得された次第です。
このような戦死者多重祭祀が自動的に行われ、さらに、その現実に対して、わたしたちがあんがい無自覚的であること、そこに戦死者多重祭祀の問題、さらには、それの代表ともいえる靖国神社の問題があろうというものである。
ここまで読んでいただいた方へ、長文多謝。
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西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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