
お元気ですか?
大好きな人たちと人生を楽しんでいますか。
なにをテーマに書こうかと迷いながら
2003年に『この記なんの記』ブログをはじめました。
2007年夏に、戦争の墓碑に心が惹かれ、、
気がつけば、「お墓ブログ」のようになりました。
戦争や軍隊が好きで載せているわけではありません。
通信兵だった父や防空監視隊にいた母から
聞かされた話は、
戦争は二度とあってはならない、起こしてはならない
という思いを強くさせるものでした。
ともすれば戦争の素顔が隠されたまま、
国家の理屈で議論が進みます。
同時に、国民の側にも、熱狂を生み出します。
しかし、戦争は、最悪の暴力です。
私は草の根の痛み、
どうしようもなく死に追いやられた人々の立場で
書いていきたいと思っています。
あまり楽しめないブログかも知れませんが、
お気軽に感想やコメントをお寄せください。
戦死者の墓碑の威圧感 ― 2009/08/05
2007年の夏から、機会があれば、戦死者の墓碑を探し歩くようになった。大きな墓地に行けば、たちどころに、それがあるのかないのかは、わかる。☆の印(陸軍のマーク)がついていなくても、先にむけて尖った四角錐の墓碑は、ほとんどまちがいなく戦死者のものだからだ。
形だけではない。頭一つは高いのだ。
死者の碑のなかでも「特別な存在」なのである。
墓地のなかに散在する場合もあるが、だれもが通る場所、つまり、墓地の入り口に戦死者の墓碑だけがならんでいる場合も多い。
ある日、滋賀大学の近くのバス停の裏に墓碑が並んでいることを思い出して、立ち寄ってみた。
思ったより、広大な墓地だった。
その入り口に、他を威圧する大きな墓碑が建っていた。「日露戦争の墓碑!」そう直感したが、まちがいはなかった。
その横まで行って、さらに大きさを実感する。
高さも、量感も図抜けていて、写真に写りきらない気がした。

形だけではない。頭一つは高いのだ。
死者の碑のなかでも「特別な存在」なのである。
墓地のなかに散在する場合もあるが、だれもが通る場所、つまり、墓地の入り口に戦死者の墓碑だけがならんでいる場合も多い。
ある日、滋賀大学の近くのバス停の裏に墓碑が並んでいることを思い出して、立ち寄ってみた。
思ったより、広大な墓地だった。
その入り口に、他を威圧する大きな墓碑が建っていた。「日露戦争の墓碑!」そう直感したが、まちがいはなかった。
その横まで行って、さらに大きさを実感する。
高さも、量感も図抜けていて、写真に写りきらない気がした。

碑文から浮かび上がる地獄の情景 ― 2009/08/05
滋賀大の近くの墓地。入口でいやでも目立つ日露戦争の戦死者の墓碑がある。「陸軍上等兵」と階級が刻まれている。
その近くに立ち、刻まれた文字を読む。
鮮明で、苦労せずに読むことができる。明治39(1905)年8月に建立とある。100年の風雨に耐えて、記録を伝えているのである
所属部隊の記述はない。この墓碑の場所などを考えれば、陸軍後備歩兵第九連隊に所属していたものと思われる。
陸軍後備歩兵第九連隊は、後備歩兵第四旅団に属し、乃木大将の第三軍の一員として、日露戦争に参加した。 明治37(1904)年8月19日に、乃木軍は、旅順要塞にむかって第一次総攻撃を開始する。10万発もの砲撃を要塞にむかって放ち、その防備が壊滅したと信じて、21日に、歩兵による突撃が開始された。
陸軍後備歩兵第九連隊は、「東鶏冠北堡塁」に向かう。
だが、ロシア軍が築いた近代的な要塞は、日本軍のすさまじい砲撃にもかかわらず、無傷だった。「東鶏冠北堡塁」は、その要塞のなかでも、屈指の強固な堡塁であった。
日本軍の突撃は、死者5000人、負傷者1万人という惨憺たる地獄を生み出した。この上等兵が属したと思われる後備第九連隊はほぼ全滅の状態であった。
「東鶏冠北砲台」という文字を見つけたとき、私の心に浮かんだのは、この想像を超えた悲惨な情景である。
その近くに立ち、刻まれた文字を読む。
鮮明で、苦労せずに読むことができる。明治39(1905)年8月に建立とある。100年の風雨に耐えて、記録を伝えているのである
明治三十七年春日露之役以後備兵應召六月従軍赴戦地於清国●京省東鶏冠北砲台附近奮闘遂斃實同年八月廿二日也行年廿八・・・
所属部隊の記述はない。この墓碑の場所などを考えれば、陸軍後備歩兵第九連隊に所属していたものと思われる。
陸軍後備歩兵第九連隊は、後備歩兵第四旅団に属し、乃木大将の第三軍の一員として、日露戦争に参加した。 明治37(1904)年8月19日に、乃木軍は、旅順要塞にむかって第一次総攻撃を開始する。10万発もの砲撃を要塞にむかって放ち、その防備が壊滅したと信じて、21日に、歩兵による突撃が開始された。
陸軍後備歩兵第九連隊は、「東鶏冠北堡塁」に向かう。
だが、ロシア軍が築いた近代的な要塞は、日本軍のすさまじい砲撃にもかかわらず、無傷だった。「東鶏冠北堡塁」は、その要塞のなかでも、屈指の強固な堡塁であった。
日本軍の突撃は、死者5000人、負傷者1万人という惨憺たる地獄を生み出した。この上等兵が属したと思われる後備第九連隊はほぼ全滅の状態であった。
「東鶏冠北砲台」という文字を見つけたとき、私の心に浮かんだのは、この想像を超えた悲惨な情景である。
モー♂ネコのフワフワおなか ― 2009/08/05

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争など、1867年から1945年の戦争にかかわる記念碑、戦死者・戦病死者の墓碑など。
戦争にかかわる碑
■ 忠魂碑・慰霊碑
○ 高島郡2町15村別の忠魂碑など
○ 大津市北部の忠魂碑(9柱)
○ 大津市南部の忠魂碑
民間墓地の戦没者○このブログに散在するのは、旧大津陸軍墓地の調査記録です。
□ 滋賀県の西南戦争の戦没者
□ 高島市(高島郡)の戦没者
■ 西南戦争(西南之役) 1877年
● 戦病死者名簿
*高島郡の戦病死者は15名(『高島郡誌』)
■ 日清戦争(明治廿七八年戦役) 1894~95年
,● 日清戦争戦没者名簿と墓碑の所在(旧高島郡)
『高島郡誌』によれば、旧高島郡で日清戦争期の戦病死者は17名でした。
■ 日露戦争(明治三七八年戦役) 1904~05年
● 日露戦争戦病死者名簿 (旧高島郡2町15村版)
○ 旧高島郡高島町の日露戦争戦没者名簿
○旧高島郡安曇川町の日露戦争戦病死者名簿
公的なものではなく、BIN★がいわばサイドワークとして行っていることです。変更や修正はこまめに行っています。なにかの目的で活用されるときは、ご連絡ください。
□ Aブロック 埋葬者名簿
陸軍歩兵少尉から陸軍歩兵少将まで20基の墓碑がある
□ Bブロック 埋葬者名簿
日清戦争期に戦病死した下士官の墓地
□ Cブロック 埋葬者名簿
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Dブロック 埋葬者名簿(作成中)
明治11年以降に大津営所で病死した下士官の墓地
□ Eブロック 埋葬者名簿
■ 大津市作成の名簿順
■ あいうえお順
日清戦争期に戦病死した兵卒の墓地。士官候補生の墓碑1基。
□ Fブロック 埋葬者名簿
明治8年から11年までに病死した下士官と
兵卒の墓碑が37基
□ Kブロック 埋葬者名簿
「下段西側」の134柱と「下段東側」の5基で合計139基。
すべて兵卒の墓碑。
□ Lブロック 埋葬者名簿
「下段東側」の墓地97基と「下段西側」1基の
合計98基。すべて兵卒の墓碑。
□ Mブロック 埋葬者名簿(作成中)
陸軍墓地に隣接した将校関係者の墓地
大津市の戦死者・戦病死者(明治44年『大津市志』による)
□ 西南戦争の戦死者
□ 日清・日露戦争
『大津市志』および「戦時事績」掲載の日露戦争戦病死者名簿
□『大津市志』
□ 滋賀郡膳所町
□ 旧志賀町の日露戦争戦病死者名簿(戦時事績)
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